第三章【巡っていく】

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第三章【巡っていく】

   ずっとあなたを想っていたはずなのに、あなたがどれほど苦しんでいたのか、私は少しも知りませんでした。 ◆  誠は幼い頃から頭がよく、落ち着いた性格だった。  あまりにも落ち着いているので、ぼんやりしている子どもであると認識されていた。実際にぼんやりしていることも多々あったが、誠は物事の本質を深く思考できる子どもだった。  私は誠の持つ正しさのようなものに、嫉妬していた時期もあったと思う。今も少なからず、その感情は存在する。それにも関わらず、もしくはそれだからこそ、私は善悪の指針を誠にゆだねている(ふし)がある。  誠が「それはよくないんじゃない?」という時は、よほどのことである。私が覚えている限りでは、誠がそういったのは過去二回だけである。私が急勾配の階段を自転車で下りようとした時と、消費期限が五日過ぎた牛乳を飲もうとした時である。  だから私は、誠の意見を聞いてみたかった。  ――この人の生死を確かめたい  ――どう思う?  私は判決を待つような気持ちで、誠の言葉を待っていた。 「この人の生死は、気になるね」  その一言で、重要なことを許されたような気持ちになった。 「この人、パスポートの住所は東京だけど、この辺に引っ越してきたのかな」  誠はパスポートの最後のページに書いてある住所を見つめた。 「一応その住所は調べてみたけど、実在する住所だった」  私はその住所の地図を誠へ送信した。  その住所にはマンションが存在しており、辻吉理沙の部屋番号は五○二号室と記載されていた。住所はしっかり書いてあるが、電話番号の欄にはなにも書かれていなかったので調べようもなかった。 「でも昔の住所の可能性は高いし、この辺に住んでると考えた方が現実的なのかな。自殺の名所があるわけでもないし」  私はいった。 「そうだね。この辺に住んでる人なら、親とか友だちに聞いてみたら案外知ってる人だったりするかな。辻吉理沙って、よくある名前でもないし」  誠は再びパスポートに目を落として「三十二歳か」といった。 「見つかる可能性もあるとは思うけど。その人がどうしたんだって聞かれた時に、なんて言い訳しようかな」  好奇心よりも体裁を気にする器の小ささが、実に私らしいなと口にした後で思った。 「警察に届けなくても、ギリギリ問題がなさそうな落とし物を拾ったことにすればいいよ。何がいいかな」  誠と私は唸った。 「三十二歳が名前を書きそうな落とし物だと、ノートとか教科書は現実的じゃないよね?」 「でも市立図書館の近くで拾ったわけだし、資格の本とか、参考書はいいかもね。でも、他にもっと……」  誠はそういいながら、ものすごい速さで頭を回転させているようだった。 「あ、御朱印帳(ごしゅいんちょう)にしよう。それなら、名前が書いてあっても不思議じゃないと思う」 「御朱印帳って、神社とかお寺で書いてもらうヤツだよね」 「そうそう。たまに住所を書いてある人もいたと思う」 「じゃあ、それにしよう」  自分にそれ以上の提案ができるとは思わなかったので、私は即決した。 「親には今夜聞いてみるとして、友だちにはどこまで声をかけてみようかな」 「連絡が取りやすい人だけでいいと思う。そういう子に連絡した方が真剣になってくれるし、親とかにも聞いてくれると思う」  それもそうである。 「結局、大人の方が色んなこと知ってるからね」  誠はいった。 「そうだね、どうでもいいことも知ってるからね」  私たちの住む町は、それほど大きくはない。  だからこそ私たちは幼い頃から「旅館の子」とか「北川病院の子」として、一方的に顔を知られていることがあった。そのせいで、知らない大人に親しげに声を掛けられることも多かった。  それは近所の者だけでなく、頻繁に入れ替わる旅館の従業員や、病院に勤務する人だったりした。私たちがそれら全員を覚えることなど、到底不可能だった。  母の日になにをあげたとか、誕生日に何を欲しがったとか、徒競走で何位だったとか、文化祭では何をするとか、そんなことを見ず知らずの大人たちが知っている。  私はそれが、たまらなく不快だった。宝物を土足で踏みつけにされたような気持ちにさえなった。  両親に「私の話は、誰にもしないで」と懇願したこともあった。しかし両親は、私が何に憤っているのかを、いまいち理解してくれなかった。  しかし両親が何もいわずとも、旅館で働く者の中には同級生の親もいる。そのため私という人間の一部は、いつもどこぞから漏れ出ているのだった。  別に何を知られても不都合なことはない。恥ずかしいことはない。  そうは思えど、不快なものは不快だった。  だからこそ私は、大人に話しかけられるのを極端に嫌うようになった。しかしその気持ちに比例して、誠や遼平にはこんな想いをして欲しくないと強く思うようになっていた。  誰かが親しげに話しかけてくると、私は積極的に二人の前に立った。そして「はい、ありがとうございます」と笑顔を作る。そうすると大人は早々に満足して、話を切り上げてくれた。  大人たちはみんなやさしくて、そして無遠慮だった。  しかし頻繁に声を掛けられていたのも、ランドセルを背負っている間だけだった。  背が伸びて制服を着るようになると、大人たちは以前ほど距離を縮めてくることはなくなった。生き物は自分より極端に小さい生き物を、対等であると認識することは難しいのかも知れない。そんな風に思うようになった。  どこにいくの? 誰と遊ぶの? いま帰りなの? なにしてたの?  防犯の意味もあったことは理解している。  しかしそんな何気ない言葉にさえ、ざらりとした気持ちになる。  大人たちに悪意がなかったことも、ちゃんとわかっている。なにがそんなに嫌なのかを、今もうまく説明できない。  しかし私は、無数の傷をつけられた。私の小さな心は大きく傷ついたが、加害者はどこにもいないままだった。 「さっきは、自殺者がいたら噂は耳にするかもっていったけど。僕たちには隠すかな?」  誠は携帯電話を操作しながらいった。  私たちはさっそく、友人らに送る文章を打っていた。 「積極的に話すことはなくても、聞けば教えてくれるんじゃないかな」 「どうでもいいことは聞かなくても教えてくれるのにね」 「隠し事は墓場まで持ってく感じだよね」 「そうだね。おじいちゃんの遺言書も、お父さんでさえ知らなかったもんな」 「おじいちゃんにとっては、おじさんも子どものままだったんじゃない」 「そうかも」  私は携帯電話に目を落としたまま会話を続けた。  誠の祖父が亡くなった時は、それなりに大変だったと聞いている。  彼は誠が中学一年生になった年に、急逝した。  本当に急なことだったので誠の父は悲しみに沈む暇もなく、病院の引き継ぎなどに追われる日々となった。  そんな中、誠の伯父たちが颯爽と登場し、祖父の遺産をきっちり分けろといってきた。  誠の父は、北川家の三男だった。なぜ三男である誠の父が病院を継いだかというと、長男と次男は祖父と壊滅的に仲が悪かったからである。  誠の祖父は厳格な人で、厳格が過ぎて、長男と次男にはそれはもう厳しかったらしい。それに強く反発し、長男と次男は医師にさえならなかった。そのため三男である誠の父が医師になり、病院を継いだのだった。  いってしまえば長男と次男は、北川病院にはほとんど無関係な人たちであった。  しかし伯父二人は「祖父名義の遺産はすべて、法定相続分きっちりいただく」と宣言した。  誠の祖母は存命であったが、二人の主張通りに遺産を分割するには一部の権利や土地を売る必要があるらしかった。  周囲の大人たちは「詳しくはわからないが、北川家は遺産相続で揉めているらしい」と察していた。そこにはもちろん、近所に住む私の両親も含まれている。  そして母は世間話として、施設に入居している祖母に「北川さんの家は、遺産相続で大変そうだ」と伝えた。私は「そんなことまでいうのか」と思ったが、ただ黙っていた。これも彼女たちの大事な会話である。 「あら、そうなの? でもほら、遺言書があるでしょ。でも北川さんはしっかりした人だったから、ちゃんとした遺言書を遺しているわよ」  母の言葉を受けて、祖母は不思議そうにいった。 「遺言書?」 「そうよ。私が立会人になったんだから、間違いないわ。見つからなかったら、公証役場に保管されてるから確認するといいわ」  祖母ははっきりと、そういった。  母が北川家にそれを連携すると、祖母の言う通りだった。  公正証書遺言書という、とんでもない効力を持つ遺言書が公証役場に保管されていた。  その内容は、遺産はすべて妻と三男に譲ると記されていた。その遺言書によって、北川家の遺産相続問題は終わりを迎えた。  遺言書の立会人を、親族でも病院関係者でもない人間に頼んだことを「祖父らしい」と誠の父はいっていたらしい。  誠の祖父がその遺言書を書いたのは、彼が亡くなる一年前だった。  そしてそれは十二才離れた誠の弟である、(たけし)が生まれた年だった。  命とか、そういうものはすべて巡っていくものだ。  そんな風に誰かがいっていた。 ◇ 「この歩道橋、久しぶりにのぼった気がする」  誠はそういって、歩道橋から国道を見下ろした。  私たちは友人らに連絡を送信した後で、歩道橋にいってみようなった。  部屋で寝ている遼平に声を掛けると「うん、いってらっしゃい」と迷惑そうな声が返ってきた。誠はそれを受けて「弟ってかわいいよね」と、なんだか妙な感想を述べた。今のやりとりでなぜそう思ったのかわからないが、とりあえず同意しておいた。 「誠は家で勉強するから、図書館には来ないよね」  まとわりつく空気はじっとりと暑く、国道から吹く風も私たちの体温を下げてくれるわけではなかった。 「そうだね。おばあちゃんが倒れてからは、特に」  誠の祖母は一年前に脳梗塞で倒れた。  彼女は一命を取り留めたが、一部に麻痺が残り今も車椅子で生活している。 「おばあちゃん、元気?」 「うん、元気だよ。今は論文書いたり、毅の面倒みてくれたりしてる」  誠はそういって公園の方を見つめた。 「そういえば、なんでこの歩道橋を渡ったの? 図書館で勉強するなら、この歩道橋を渡る必要ないよね?」  誠の疑問はもっともであった。私たちの家から市立図書館にいく場合、歩道橋を渡る必要は一切ない。 「そこの公園に、アイスの自動販売機あるでしょ。それが食べたくて、帰る前に公園に寄ったの」 「ああ、好きだったよね」  こうした何気ない会話の中で、誠と過ごした時間の長さを感じる。そして幼い頃から変わっていない自分の一面も思い知る。 「その人は、歩道橋のどの辺で見かけたの?」 「この辺かな」  私は記憶を辿りながら、歩道橋の一箇所を指した。  誠は私が指した場所に立つと「その時と同じ感じで歩いてきてみて」といった。 「その人の身長くらいは、わかるかも知れない」  私は誠の言う通りに、当時と同じように携帯電話を耳に当てて歩道橋を歩いてみた。 「どう?」 「誠、今身長何センチ?」 「一七四くらい」 「なんだか誠よりも大きい人だったような気がするんだけど、私の記憶違いかな」 「ヒールのある靴を履いてる人なら、これくらいにはなるかも知れないよ」 「そうなんだけど」  私はなんともいえぬ違和感を覚えていた。 「この手すりって、ちゃんと死ぬ気がないと越えられない高さだよね」  誠は歩道橋の欄干に手を置いた。 「美羽がわざわざ駐輪場から戻ってきたわけだし、本当に死のうとしてたんだろうね」  夕日に透ける誠の髪が、国道からの風で揺れている。その柔らかそうな髪を見つめながら、私はなんだか悲しくなった。ここで誰かが死のうとしていた事実を、改めて悲しく思った。 「せっかくだし、アイス食べて帰ろう」  私の気持ちが下を向いたのを察したのか、誠は明るい声でいった。 「もし辻吉理沙が死んでたら、私にも責任はあるのかな」  私はグレープ味のアイスを食べながら、心に引っかかっていたことを口にした。 「ないよ。歩道橋で死んでたとしても、美羽に責任はないよ」  誠は派手な色のアイスを食べながらいった。どんな味がするのかは不明である。 「でも、声を掛ければよかったのかなとは思うんだよね」 「僕は変に声を掛けなくてよかったと思うよ。巻き込まれて落ちちゃったり、目の前で死なれたら最悪だよ」  私は誠の持つ正しさのようなものに嫉妬していた訳ではないのかも知れない。彼の持つ強さに、嫉妬しているのかも知れなかった。 「この件について、美羽を責める人なんていないよ」  私は見ず知らずの他人の死よりも、自分が周囲にどんな目で見られるのかを気にしている。それはきっと、誠だけが容易に見透かしてしまう私の人間性だった。 「明日は最悪なことに、伯父さんたちと食事会なんだ。お盆は忙しくて来れないからって」  誠は話題を変えるようにいった。 「それは最悪だね」  私は心底同情した。 「でも表面的には、伯父さんたちとはうまくいってるんでしょ」 「そうなんだけどね。軽口をたたかれると、どう反応していいか分からないんだよね。今のうちに勉強しておけとか、そんなんじゃこれから大変だぞとか。なんて返せばいいんだろう」  そういう無神経な言葉は、誠と遼平に向かないようにしてきたつもりだったので、私は必要以上に腹が立った。 「なんの責任もない人がいってる言葉だから、誠が気にする価値なんてないよ」  私は自分ができなかったことを、とてもえらそうに吐いた。  幼い自分も、そんな風に思えていたらよかった。  しかし今も大人の軽口にうんざりしている自分には、到底無理な話だった。 「そうだね、わかってるんだけど、なんだかすごく嫌な気分になるんだ」  頭ではわかっていても、私たちの心は線を引くには柔らかすぎるのだった。 「わかるよ。すごく」
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