第四章【同じ名前】

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第四章【同じ名前】

 あなたの方が私よりも、ずっと真剣に現実と向き合ってくれていたんだと思います。 ◆  美羽と歩道橋から帰る途中、泣きたいような気持ちになった。  幼い頃は夏休みになると、朝から日が暮れるまで自転車でその辺を駆け回っていた。  あの頃は今より知らないことがたくさんあって、何かに出会う度に感動していた。新しい道を発見しただけで、世界の秘密の一端に触れたようにさえ思った。  その瞬間、僕たちはどうしようもなく世界の中心にいた。  しかし僕たちが世界の中心にいられるのも、日が高いうちだけだった。  日が傾き始めると、僕は途端に寂しくなった。  夜になれば家に帰らなければならない。そして二人と別れなければならない。  家に帰る瞬間が、僕はとても苦手だった。だから美羽と遼平が姉弟であることが、同じ家に帰れることが、とても羨ましかった。  二人と別れてからの数分の帰り道、僕は世界中で誰よりも一人だった。  自転車を美羽の後ろ姿を見て、僕の少年時代ももうすぐ終わることを予感した。  ――誠が気にする価値なんてないよ  小学生の頃、美羽は大人が苦手だといっていた時期があった。  しかし僕にはそれが信じられなかった。知らない誰かに話しかけられると、美羽は積極的に返事をしているように見えていたからだった。僕と遼平は美羽が誰かと話している間、その会話が終わるのを待っているだけだった。会話の内容を気に留めたことさえ少なかった。会話が終わり、誰かが去った後で「誰?」と美羽に聞くと「知らない人」と首を振る。僕はその度に舌を巻いたものだった。  どうして大人が嫌いなのかを聞いてみたが、当時の僕には理解できない理由だった。  だから「美羽は僕よりもずっと繊細なんだな」なんて、見当違いな感想を抱いて終わってしまった。  しかし今なら、あの時の美羽の言葉を少しは理解できる。  ――宝物にベタベタ触られてる気分になる  自分の核に迫るようなことを、大人たちは平気で口にする。それが嫌だったのかも知れない。  僕たちは長く一緒にいたけど、同じ世界を見ているわけではなかった。だからこそ美羽が静かにこの町に失望していくのを、僕は隣で見ていることしかできなかった。  美羽はきっと来年の夏は、この町にいない。  そんな悲しい予感が、僕の中に浮遊していた。 ◆  その夜、母に辻吉理沙という人物について聞いてみた。  母は「わからない」と答えただけだった。 「その人がどうかしたの?」 「御朱印帳を拾った友だちがいるんだ。だから、探してる」  母は僕の言葉に「そう」と意味ありげにいった。  僕の言葉に嘘があったことには、どうにも気付かれているようだった。しかし母はそれ以上言及してこなかった。  この辺で自殺した人がいるかを聞こうと思っていたが、これ以上なにかをいうと墓穴を掘りそうだったので黙ることにした。  しかし母はなにかを察したらしく「なにか聞きたいことでもあるの?」と僕にいった。 「いや、なんか。さっきの話とは関係ないんだけど。最近この辺で、事故とか事件とかあったかなって」  母は即座に「ああ」と、思い当たることがある口振りでいった。 「中学校の植田(うえだ)先生?」  母はまったく見当外れな話題を出した。  ちなみに植田先生とは、中学三年生の時に英語を担当していた教師である。とても彫りが深い顔で、父親はアイルランド人であるらしい。 「植田先生に何かあったの?」 「昨日、自損事故起こしたって聞いたわよ。タヌキが飛び出してきたのを避けようとして、電柱にぶつかったみたい。大腿骨骨折で、入院中ですって」  母はそういいながら、毅のこぼしたお皿の周りを丁寧に拭いた。 「うちの病院に入院してるの?」 「ううん、別の病院。看護師長の息子さんちの近くでその事故があったらしくて、教えてくれたの」  母の顔の広さと、この町の狭さに僕は度々驚かされる。  そろそろ眠りにつこうとベッドに入ると、美羽から連絡がきた。 「どうだった?」  美羽からの連絡は、大抵要件のみである。  僕は有益な情報は得られなかったことと、植田先生のことを伝えた。  友人からの返信は、どれも「わからないけど、親が帰ってきたら聞いてみる」という感じだった。しかしその結果についても空振りだった。そのため僕はお礼だけいって、その話題を終わらせた。友人らもそれ以上、なにか言ってくることはなかった。  御朱印帳という絶妙に興味のない落とし物を考えた、僕の小さな功績である。 「こっちも、そんな感じ。植田先生のことも聞いた」  植田先生の件は、きっと明日には町中の人には伝わっているのだろう。  意識の半分が眠りの中にいる頃、携帯電話が枕元で振動した。  寝ぼけた頭で文字を読むと、一瞬だけ眠気が飛んだ。 「親戚に同じ名前の人がいる」  光る画面には、そう書かれていた。  翌朝、あの連絡は夢だったのだろうかと思いつつ携帯電話を見つめた。  しかしそこには昨夜見た文字があった。さらに僕は、それに対して「ありがとう。また明日連絡させて」と返信していた。返信した記憶はほとんどなかったが、失礼なことを書いていなくて安心した。  その連絡をくれたのは、碓氷(うすい)宗輔(そうすけ)。  中学の同級生である。  碓氷とは中学の二、三年が同じクラスだった。彼はとても美しい顔立ちをしており、どこぞのアイドルに似ていると評判だった。しかもそのアイドルというのは、男性アイドルではなく女性アイドルである。  碓氷は顔だけでなく、体の線も細くて中性的だった。しかし話してみると、ごく普通の男子生徒だったと記憶している。 ◇ 「碓氷くんって、すごくかわいい子だよね?」 「あ、知ってる? そうだよ、かわいい顔してる」 「顔だけわかるよ。仲良かったの?」 「普通かな。休みの日に遊んだりするほどではないけど、会えば普通に話すよ」  僕と美羽の通う高校は、電車で四十分ほどである。駅から近い高校なので、ほとんどの生徒が電車で通学している。そのため、登校時間付近に到着する電車は混雑する。美羽はそれを嫌っており、いつもは僕よりも一本早い電車で登校している。  しかし今朝、美羽に碓氷のことを連絡すると同じ電車で登校しようと提案された。  そのため本日は、一緒の電車で登校しているわけである。 「よくある名前でもないし、碓氷くんの親戚とパスポートの人は同じ人だと思っていいのかな」 「そう思うよ。でも一応、碓氷にはその人が何才か聞いてみようか。あ、でもこっちが年齢を知ってるのは変か」 「生きてると思う?」 「最近死んだ場合は、さすがに一言あると思うよ。だから、生きてると思う」 「そっか、そうだね。辻吉理沙が生きてるなら、パスポートと遺書をこっそり本人に返したいと思ってたけど。それは、現実的じゃないのかな」  確かに僕たちの手で本人に返すことは難しいように思われた。  もし碓氷の親戚だった場合、碓氷自身、もしくは碓氷の親が辻吉理沙にパスポートを返すことになる可能性が高いだろう。 「碓氷には正直に、御朱印帳じゃなくてパスポートを拾ったことをいってみよう。さすがに写真で送るのはよくない気がするから、直接会って確かめてもらおうよ。そしてパスポートを本人に返したいって、伝えてみよう」  美羽は僕の提案が現実的ではないことには、気付いているはずだった。  しかし美羽は「うん、そうしよう」といってくれたので、僕は碓氷へ送る文章を打ち始めた。 「待ち合わせ場所は、中学校でいいよね。碓氷の家って、中学を挟んで反対側だったから」 「うん、ありがとう。パスポートを拾ったのも私だって伝えていいよ。そうしないと、同席するのは変だから」 「わかった」 「碓氷くんは、うちの高校じゃないよね。どこの高校?」 「えっと、西高かな」 「同じ高校じゃないなら、だいぶ気が楽」  美羽はほっとした表情を見せた。  近しい人間には必要以上に体裁を整えるのは、美羽の習性のようなものである。そしてそんな姿は、僕以外に見せることは少ない。こういう時の美羽を、僕はひどく愛らしく思う。  碓氷に連絡を入れると、ほどなく返信がきた。 「今日なら何時でも大丈夫だって」 「私も、学校が終われば何時でも平気。でも誠、今日は食事会でしょ?」 「うわ、そうだ」  完全に忘れていたので、僕は大袈裟に絶望した。それが面白かったらしく、美羽は短く笑った。 「でも夕食だし、六時までなら大丈夫。そんなに長く話すこともないと思うし、五時くらいに中学校集合でいいよね。暑い中、外に出たくないでしょ」  僕たちは、午後五時に中学校に集合することが決定した。  初めてみた遺書の生々しさ、僕たちはそれに当てられたままだったのだと思う。  きっと僕たちは辻吉理沙のその遺書に、自分たちの深淵をみたのだった。 ◆  午後五時になる少し前、僕と美羽は中学校に到着した。  そして僕たちは駐輪場で碓氷を待つことにした。駐輪所くらいしか大きな日陰がなかったためである。  日中に温められた空気は校庭を彷徨っており、駐輪場から見えるグラウンドは砂漠のようだった。  五時になる少し前、碓氷が自転車に乗って現れた。  碓氷は中学の時に比べて、背も髪も伸びていた。多少の変化はあれど、彼の中性的な印象は相変わらずで、容姿端麗という言葉が似合う姿だった。  碓氷は僕の姿を発見すると、すぐに笑顔を見せてくれた。それから互いに「背伸びた?」なんて言い合った。碓氷とは中学卒業以来の再会だったが、自然に会話ができることをうれしく思った。むしろ当時よりも僕たちは饒舌だったかも知れない。僕たちが再会を喜びあった後で、美羽と碓氷は「初めまして」と挨拶を交わした。 「碓氷は美羽のこと知ってた?」  僕は聞いた。 「知ってるよ、目立つもん。弟は柔道部ですよね?」  美羽は一応先輩であるが、碓氷に緊張した様子はなかった。  碓氷も遼平と同じく彼女が途切れないタイプの人種なので、知らない異性に気負うようなことはないのだろう。  短い談笑をした後で、僕たちはさっそく本題に入った。 「これが拾ったパスポートなんだけど。親戚の人で合ってるかな?」  美羽はそういって、碓氷にパスポートを渡した。 「ありがとうございます」  碓氷はパスポートを受け取ると、真剣な眼差しでそれを見つめた。  その眼差しがあまりに実直だったので、僕と美羽は思わず視線を合わせてしまった。  碓氷の長いまつ毛が、彼の大きな瞳に影を落としている。僕たちはその姿を、黙って見つめていた。  それから碓氷はぱらぱらとパスポートをめくり、最後のページで手を止めた。そして再び真剣な眼差しで、それを見つめた。  碓氷がパスポートから視線を上げた時、僕は静かに緊張した。 「この辻吉理沙って人、たぶんぼくの母親だと思う」  予想外のことをいわれたので、僕と美羽は「え?」と声をそろえた。 「ぼく、今の両親の養子なんだ。聞いたことなかった?」  碓氷は何でもないことのようにいった。だからこそその言葉に、重みが感じられた。 「知らなかった」  僕は正直に答えた。 「つまりこの人が、碓氷の本当のお母さんってこと?」  僕は確かめるようにいった。 「うん。名前しか見たことないけど、そうだと思う。僕は本来は、両親にとって遠縁の子どもなんだ。でも本当の母親は若すぎたから、僕を養子に出したらしいんだ」  碓氷は再びパスポートに視線を落とした。  単純に計算すると、辻吉理沙は十五歳で碓氷を出産したことになる。自分たちの年齢より下だと思うと、すごく変な感じだった。 「自分が養子だってことは、ずっと前から知ってたの?」 「うん、小学生の頃から知ってた。辻吉理沙の名前を知ったのはいつだったかな。でもこの漢字を読めるようになった頃だろうね。会いたければ、会わせることもできるっていわれてた。でも面倒そうだったし、一度も会ったことはないんだ。だから、顔も初めて見た」 「いわれてみれば、少し似てるかもね」  失言かもしれないと思ったが、碓氷は「そうかな?」と笑った。  パスポートを目にしてから、ずっと表情が硬かったので僕はほっとした。 「うん、そうだね。少し似てるかも知れない。これ、どこで拾ったんですか」  碓氷は美羽を見た。 「市立図書館の歩道橋。そこで一昨日(おととい)拾ったの」  美羽はそういうと、僕に視線を向けた。  その意図は一切分からなかったが、判断を任せるという意味で僕はうなずいた。 「そのパスポートを拾った時に、これも拾ったの」  美羽は封筒に入れたままの手紙を碓氷に渡した。  会ったこともない実の母親の生死を、碓氷が知っているとは思えない。さらには生死を問うたところで、その理由を聞かれるのは明白だった。美羽は碓氷に遺書を見せた方が話が早いと判断したのだろう。  僕自身も、碓氷はその遺書を見る権利があるように思えた。 「この人、自殺したんですか?」  それを読み終えると、碓氷はいった。 「歩道橋の近くで事故はなかったし、私がそれを拾った時点では生きてたと思う。でも今も生きてるかは分からない」 「もしこの人が死んでも、僕には連絡は来ない気がするな。もう何年も話題に出てきてないし。いや、でも、どうなんだろう。さすがに教えてくれるのかな」  当然であるが、碓氷も混乱しているようだった。 「でも、この人の生死は気になるし、親に聞いてみようかな」  それは思いがけぬ言葉だった。  きっと僕も美羽も、碓氷を経由して辻吉理沙の生死が確かめるのは酷であると思っていたためである。 「そういう話題を出しても大丈夫なの?」  僕はいった。 「ちょっと変な雰囲気になるかも知れないけど、問題ないと思う」  ちょっと変な雰囲気というのは、家族にとっては大問題なはずである。しかしそれを差し置いても、碓氷は辻吉理沙の生死が気になるのかも知れなかった。  それから碓氷は「ありがとうございました」と、美羽に遺書とパスポートを渡した。 「私が持っていてもいいの?」 「僕が持っているのも変だし、それを家に持ち帰る方が怖いですよ。もし見つかったら、大騒ぎになるかも知れないし」  碓氷の言う通りであった。 「親には、遺書とかパスポートのことはいいません。ただ辻吉理沙の生死だけ聞いてみます。この人の生死が分かれば連絡するんで、それまでは美羽さんが持っていて下さい」  美羽は深くうなずいた。 「あ、でも。住所だけ、写真を撮ってもいいですか」  美羽は「もちろん」と、住所のページを開いた。 「辻吉理沙が東京に住んでるとか、そういう話は聞いたことあった?」  僕はいった。 「うん、東京の人だっていってた気はする。今もここに住んでるのかな」 「それがいつ書かれたものかわからないけど、その可能性はあると思う。僕たちはこの辺に住む人かなって予想してたんだけど」  僕はそういった後で、目の前の疑念を無視できなくなった。 「これって偶然なのかな」  声に出してしまうと、二人の視線がこちらを向いた。  二人の大きな目を見つめた後で、これはいわない方がよかったかも知れないと後悔した。 「いや、やっぱり、なんでもない」 「気になるからいってよ」  碓氷は失笑した。 「碓氷が住むこの町に、辻吉理沙がいたのは偶然なのかな」  校庭のグラウンドには、行き場をなくした熱い風が舞っていた。
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