第五章【ここにいて】

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第五章【ここにいて】

 何年もそうしてくれて、感謝しています。本当にありがとう。 ◆  美羽たちと別れた後、僕は予定通り食事会へと向かった。  食事会は想像していたほどは、不快ではなかった。  しかし帰り際に「医学部にいくなら、今から勉強がんばんないとな」と声をかけられた。そうかと思えば「お金があるんだから、何年浪人しても大丈夫か」と笑った。  伯父たちはお酒が入っていて上機嫌だったが、僕は少しも笑う気になれなかった。  こんな大人の軽口には、日常的に触れていたはずである。  でもそこにはいつも美羽がいて、その受け答えのほとんどを彼女に任せていた。美羽は誰かに声を掛けられると「ありがとうございます」と、笑顔で返していた。なんの感情もない、愛想のいい笑顔でそういっていた。  僕も伯父らの言葉に「ありがとうございます」と笑顔を返せばよかったのかも知れない。  そんなことを、帰りの車の中で思った。  祖父が生きていた頃は、伯父たちはうちに寄り付かなかった。  顔を会わせる機会は数年に一度くらいだった。  それでも伯父たちの印象はいいものではなかった。 「じいちゃんは、怖いだろ? でも俺たちが子どもの頃は、もっと怖かったんだぞ」  伯父たちはなぜか、得意げにそんなことをいった。それを聞かされる僕としては、祖父の悪口をいわれているようで嫌だった。  さらに伯父たちは、祖父がいかに厳しくて、理不尽だったかを話し始める。自分たちがいかに不遇だったかを語った後で「誠、お前は苦労するかもな」と、締めくくるのだった。  僕が伯父たちが来るのを嫌がると、父は苦笑した。 「兄さんたちは、元々は悪い人ではないんだよ。年の離れた父さんには、いつも優しかったんだ。でも兄さんたちがいうように、おじいちゃんは兄さんたちには厳しくてね。兄さんたちも色々思うことがあるんだと思うよ」  祖父の棺桶を前にして、顔を真っ赤にして泣いていた伯父たちの姿を僕は今も覚えている。大人の男の人もこんな風に泣くんだなと思った。  父がいうように、伯父たちも悪い人ではないのかも知れない。  そう思ったのも束の間で、遺産相続の件で伯父たちの印象は最悪になった。  最終的に遺産相続は何事もなく終えたが、祖父の遺言書の存在を知るまでに両親らは合計で十キロくらい痩せたようだった。 「親父は死んでもなお、俺たちに辛く当たるんだな」  遺言書の存在を知ると、深く落胆した。  その後どんな話し合いが持たれたのかは分からないが、祖母は伯父たちにも少しだけ祖父の貯金を渡したようだった。祖母にとっては父と同じく実の息子で、負い目のようなものがあったのかも知れない。  そしてそれ以降、つまりは遺産相続が終えて以降、伯父たちは盆には必ず顔を出すようになった。おそらく遺産相続の際に、なんらかの約束をしたのだろう。  そして僕は伯父たちに会う度に、なんともいえぬ気持ちにさせられるのだった。  確かに祖父は厳しい人だったかも知れない。しかし愛情が欠落している人間でもなければ、冷たい人でもなかった。  心の中で伯父たちにそう反論する度に、弟の(たけし)が生まれた日のことを思い出す。  祖父は毅を腕に抱いて、自分の持てるすべての愛情を注いでいるような目で毅を見つめていた。祖父のこんな柔らかい表情は初めて見るように思った。  そんな僕の視線に気づいたのか、祖父は照れたように笑った。 「誠は、将来医者になるか?」  祖父は毅を腕に抱いたまま、僕にきいた。  その質問に深い意味はなかったと思うが、僕は少し緊張して答えた。 「うん。おじいちゃんと、お父さんと一緒に働く」  当時小学六年生だった僕はそう答えた。 「そうか、楽しみだな」  祖父はそういって微笑んでくれた。  祖父が急逝したのは、それから一年後のことだった。  後でわかったことであるが、遺言書が書かれたのは毅が生まれた一ヶ月後のことだった。  毅が生まれた直後に、祖父は自分のいない未来に思いを馳せていた。反して僕は、祖父と働ける未来を本当に信じていた。  あの時に戻れるなら、僕は祖父を抱きしめたいような気持ちになる。  祖父の死によって、僕が見ていた世界は小さく崩壊した。  僕は知らぬ間に色んな人や物に守られていて、それらに目を向けなくても生きていくことができていた。  しかし祖父の死によって、僕の生活はいかに脆い場所にあるのかを知ったように思う。僕の幸福だった子ども時代は、静かに終わりを告げようとしていた。  それが決定的になったのは、祖母が脳梗塞で倒れた日だったと思う。  祖母が倒れた日のことを思い出すと、今も薄暗い廊下にいるような気持ちになる。  そして耳の奥で、不安を煽る音が鳴り響く。  その日は雨が降っていた。  初夏にも関わらず、冷たい雨が降る日曜日だった。天気予報では梅雨冷えであるとか、そんなことをいっていた。  高校生になったばかりの僕は、部屋で黙々と勉強をしていた。  そうしている間に、なんの前触れもなく不安を煽るような大きな音が携帯電話から聞こえ始めた。  携帯電話の画面には「毅ちゃんがSOS操作を行いました」と通知されていた。  それは毅に持たせている防犯ブザーが鳴らされたことを意味していた。毅の現在地は、同じ敷地内にある祖母の家を示していた。  試しに鳴らしてみたのだろうか? 一瞬だけそんなことを考えた。しかしこの通知は、本日学会にいっている両親にも届くはずである。祖母と一緒にいるのに、そんなことはしないだろう。  僕は数秒の遅れを取り戻すように、祖母の家へと走った。  その後のことは、断片的にしか覚えていない。  毅の泣き叫ぶ横で、祖母が倒れているの発見し、僕は救急車を呼んだのだろう。  気づくと、病院のベンチに座っていた。  毅はコアラのように僕に抱きついたまま、泣き疲れて眠っていた。そして僕自身も、毅にすがるように抱きついていた。  病院の廊下はうす暗く、全身が暗いものに浸っていくような感覚があった。  僕はそれから逃れるようにして、毅を抱いたまま病院の廊下をうろうろと歩いた。少しでも明るい場所にいきたかった。  歩いているうちに、ここが北川病院であることを理解した。  そういえば救急車で病院に着いた際に「ご両親には、こちらから連絡しておくから!」と誰かがいってくれたように思う。  外の雨はますます強くなっており、雨音と自動販売機の機械音が廊下に響いていた。  僕は大きな窓の近くのベンチに座り、ひたすら窓を見つめていた。  窓の上の方にある小さな雨粒が、下に落ちていき、別の雨粒と合流する。次第に大きな雨粒となり、その重さでするりと窓の下へと落ちていく。  その様子を何度も、何度も見ていた。  そうしているうちに僕自身も雨に浸水されたらしく、心の奥はしんと冷たくなっていった。  祖父をなくした時、世界にはこんなに悲しいことがあるのかと呆然としていた。  しかしこんな日は、これから何度もやってくる。それを回避することはできない。僕はそれを覚悟していたはずだった。  海底のような日曜日の病院の中で、呼吸をすることも億劫だった。  僕はいよいよ息苦しくなり、毅をそっとベンチへ寝かせた。  胸にあった暖かさが消えたことを寂しく思ったが、抱えていた重さに解放されたことにほっとした。そして誰かが死ぬというのは、こういうことなのだろうか。なんて冷えた心で考えた。  そして僕はまた、窓の外の雨粒を見つめ始めた。そうするうちに、雨音に混じって足音が近づいていることに気が付いた。  視線を向けると、そこには傘を三本持った美羽がいた。  なぜここに美羽がいるのか、すぐには理解できなかった。しかし僕は、泣き出したいほど懐かしい気持ちになった。 「あ、あのさ。おばあちゃんが、倒れたんだ。家で、倒れてたんだ」  僕は美羽に向かって、馬鹿みたいにいった。 「うん」 「今、手術中で。だから、終わるのを待ってるんだ」 「うん、わかってる」  美羽は本当にすべてを理解しているような声色でいった。  そういえば救急車が到着した際にも、近所の人が色々声を掛けてくれたように思う。現在毅に掛けているブランケットも、誰かが渡してくれた物だった気がする。 「ご飯買ってきたよ」  美羽はそういって、ビニール袋を差し出した。 「お母さんに頼まれたの。きっとお昼もなにも食べてないだろうからって」 「おばさんは?」 「旅館を長く抜けられないから、私だけ病院に送ってくれた。それに大人がいると気を使うだろうからって」  美羽の声はしんとした廊下に、静かに反響していた。  祖母が倒れてどれくらい時間が経過したのか、僕にはわからなかった。そもそも時間が流れていることさえ、頭からは抜け落ちていた。 「おばさんたちは、あと一時間もすれば到着するみたい」 「あ、そうか。お母さんたちが、来てくれるんだ」 「おばさんたちが来るまで、一緒に待つよ。邪魔なら帰る」  美羽の声は、いつものように淡々としていた。  それが僕をどうしようもなく安心させた。 「ここにいて」 「うん、わかった。誠と会えたこと、おばさんたちに連絡していいかな」  そういえばポケットに突っ込んだままの電話は何度も振動していた。しかし毅から手を離して、携帯電話を見る気にはなれなかった。もしかしたら僕は、ここにいてくれない両親に苛立っていたのかもしれない。  きっと両親は僕と連絡が取れないことを、美羽に伝えたのだろう。自分のことばかり考えているせいで、色んな人に迷惑をかけていたらしい。 「大丈夫。自分で連絡する」  美羽が来てくれたことで、僕はようやく頭が動くようになった。 「まずは、なにか食べたら?」  僕はいわれるままに、買ってきてくれたパンを口にした。  なんの味もしないとか、そんなことはなかった。ふんわりと甘い香りが鼻を抜けた。同時に鼻の奥がツンと痛くなり、涙がこぼれそうになった。  僕は慌てて「やっぱり今、電話してくる」と、パンを持ったままその場を離れた。  そして思い出したかのように、病院の廊下で泣いた。  怖かった。祖母が倒れたこと、毅が泣き止まないこと、祖母が手術中であること、周りに寄りかかれる存在がなかったこと、それらすべてが怖かった。  それらの恐怖を目の当たりにして、僕は一人では何も出来ないことを思い知った。  色んな人が助けてくれて、どうにか僕をここまで運んでくれた。僕はそうしようもなく、この町に生かしてくれている。そう思った。  その時の感覚は、今も強く残っている。  あまりにも強く残っているので、僕の一部は今も病院のどこかを彷徨っているようにさえ思う。 ◇  家に着くと、僕は早々に風呂に入った。  伯父たちと会った日は、ひどく消耗する。  思い出したくないことや、考えなくていいことで、心が支配されてしまう。  幼い美羽がこんな感覚を味わっていたと思うと、どれほどの疲弊だったのか想像することも難しい。僕と遼平が鈍感な子どもでいられたのは、間違いなく美羽のおかげである。  勉強もあまり手につかず、僕はくたびれた気持ちのまま、ベッドに横になった。  いつものように携帯電話を枕元に置くと、碓氷から連絡が来ていることに気がついた。
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