第六章【一時間四十分】

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第六章【一時間四十分】

 色んな痛みを伴ったことは事実ですが、私はあなたと過ごせて幸せでした。 ◆  碓氷と話した日の夜、約束通り連絡があった。  そこには、辻吉理沙は生きていること。両親に内緒で辻吉理沙の東京の自宅にいってパスポートを返したいと思っていること。  その二つが書かれていた。  辻吉理沙が生きているなら、大袈裟にせずにパスポートを返したい。そう思っていたし、今もそう思っている。だからこそ碓氷の提案には賛成だった。  しかし突然現れた実の息子にパスポートを返されたら、どんな心境になるのか想像もつかなかった。しかも同封していた遺書も見られたことは、容易に想像がつくだろう。  どうしたものかと考えてみるが、見ず知らずの他人よりも碓氷の気持ちを優先させたかった。  ――辻吉理沙がいたのは、偶然なのかな  きっと偶然ではないのだろう。  碓氷は辻吉理沙に会ったことはないといっていたが、逆については分からない。  もしかしたら定期的に碓氷の様子を確認していたのかも知れない。  そう考えると、碓氷の中で辻吉理沙に会ってみたいと思う気持ちが膨らんでも不思議ではないように思った。  しかし辻吉理沙がパスポートに書かれた住所に住んでいる可能性は、それほど高くないようにも思う。それでも碓氷はパスポートを返しに、東京へいくといっている。会いにいくといっている。  その住所に辻吉理沙がいなくても、そこにいく行為に意味があるのだろう。  私は日頃から「どこか遠くへいきたい」なんて、漠然と考えている。  ちょっとしたきっかけさえあれば、このまま通学する電車を下りずにどこへでもいける。そう思ったことは、一度や二度ではない。  しかし多くの人間がそうであるように、ちょっとしたきっかけなんて私には訪れなかった。  しかし碓氷には、それが訪れたわけである。 「わざわざ聞いてくれてありがとう。とりあえず、生きてるならよかった。東京には一人でいくの?」  聞き慣れた電子音とともに、誠の文面が映し出された。  そして私も慌てて、碓氷にお礼の言葉を伝えた。こういう些細な違いが、私と誠の大きな差である。 「一人でいく。本人にパスポートを返せるかわからないけど、パスポートを受け取ってもいいですか?」  それは私に向けられた言葉だった。 「いいよ。もし迷惑じゃなければ、私も近くまで着いていきたい」  出過ぎた真似をしている自覚はあった。  しかし私は、拾った遺書とパスポートの行く末を見届けたかった。  それからすぐに「いいんですか?」と返信が来た。  了承してくれたと受け取って問題ないのだろう。私もすぐに「もちろん!」と返信した。 「ありがとうございます! 心強いです!」 「いついくの?」  碓氷と誠の文章は、ほとんど同時にやってきた。 「明日いこうと思ってた」  ずいぶん急だなと思いつつ、私は「明日でいいよ」と返信した。  こういうことは時間を置くと冷静になってしまうものである。 「二人がいくなら、僕もいきたい。明日、一緒にいく」  私の返信から約二分後、誠から返事がきた。  その理由が誠らしくて、なんだか気が抜けた。 ◆  翌朝、私はいつも通りの時刻に家を出た。  そして碓氷との約束の時間まで、駅のベンチで誠と時間を潰していた。 「え。二人の高校って夏休みも、授業があるの?」  駅にやってきた碓氷は、制服姿の私たちをみて面食らったようだった。 「授業といっても、出席日数には換算されないから大丈夫。まあ授業は進むけど」 「なにそれ」  碓氷は短く笑った。たしかに他校生からすれば、意味のわからない理屈である。 「でもサボらせたってことだよね。悪いことしちゃったな」  碓氷は申し訳なさそうにいった。 「午前授業だし、自分で決めたことだから大丈夫だよ」 「三年生は授業といっても、過去問を解いて自己採点するくらいだから」 「そういってもらえると、ありがたい」  ほどなくホームには、ゆっくりと電車が入ってきた。  登校時間とずれていることもあり、電車にはいつも以上に人がいなかった。  そのため私たちは問題なく、横一列に座ることができた。誠は必然的に真ん中である。それから私は忘れないうちにと、碓氷にパスポートと遺書を渡した。 「ありがとうございます」  碓氷はすぐにそれらを鞄にしまった。  私たちの最寄り駅から東京駅までは、電車で一時間四十分ほどである。  つまり私たちの高校の最寄りから、一時間ほどで東京駅に到着する。たったそれだけの距離であるが、私にはいつも果てしなく遠い距離に思えていた。  高校の最寄り駅を通り過ぎると、ようやく日常から切り離された気になった。 「いつもの電車で東京に向かうのって、なんだか変な感じだな」  誠はぽつりといった。 「ぼくは二人に学校をサボらせて、本当の母親に会いにいくなんて変な感じ」  それはそうである。 「辻吉理沙の話題を出した時、親になにかいわれた?」 「会いたくなったのかって聞かれた。でも、聞いてみただけとしか答えなかった。だから、それ以上なにも言われなかったよ。ぼくが必要以上に不機嫌な態度をとったせいかも知れないけど」 「変なこと聞いてもらってごめんね」  私がいうと、誠も「ごめん」といった。 「え、全然。ぼくが気になったから聞いてみたかっただけだし。それに家だと不機嫌なことが多いから、親も気にしてないと思う」  親が気にしていないということはないだろうと思いつつも、それは心の中で留めた。 「家だと不機嫌なの? あんまり想像できないな」 「親がうるさいから、不機嫌なこと多いよ。だから最近は、あんまり部屋から出ないかな。今日も、誰とどこにいくんだってうるさく聞かれた。友だちと東京にいくとだけいったけど」  嘘をつかずにきちんと行き先を告げているのは、碓氷の長所なのだろう。自分をごまかせないからこそ、家族に不機嫌な態度を取るのかも知れない。私の友人にも親とはあまり話さないという者はいるが、人間性に問題があると思ったことは一度もなかった。 「誠の家は、勉強しろとかうるさくいわれない?」 「いわれないかな。うちはまだ弟が小さいし、そっちで手一杯なんだと思う。それに親になにかいわれても、あんまり気にしないかも」  誠はさらりと怖いことをいった。  そういうところが、誠に強さを感じる所以なのかも知れなかった。 「気にしないの? イライラしない?」 「親に対してだよね? 別にないかな。なにかいわれたら、まあそうかなって思うくらい」  碓氷は未知の生物に出会ったような顔で、誠を見つめた。 「そんなに変?」  誠は私をみた。 「どうだろう。私の親も、うるさい方じゃないから。でもなにか言われたら、気にするとは思うよ」 「なんか二人って、そんな感じがするかも。うまくいえないけど、すでに半分大人って感じがする」  碓氷のいう「大人」という単語に、どんな意味が込められているのかはわからない。それでも彼のいわんとしていることは、なんとなくわかるように思った。  しかし私と誠から感じられるそれは、きっと似て非なるものである。  私はいつしか、諦めるということを覚えた。しかし誠については私とは正反対に、現状を受け入れる力が身についているように思うのだった。 「誠は大人だなって思うよ」  私は碓氷の意見に同意するようにいった。 「大人だったら、伯父さんの愚痴なんていわないよ」  誠は情けない声を出した。 「おじさん?」 「うん。親戚のおじさんというか、お父さんのお兄さん。なんか苦手なんだよね。距離感がつかめないというか。会うと必ず、変な気持ちにさせられる」  碓氷にも心当たりがあるらしく「あるよね」と、深々といった。 「親戚って、妙に失礼な人いるよね。僕も目の前で、碓氷さんがもらった養子は女みたいだなっていわれたことある」  誠は「うわ」といい、私は「最悪」といった。 「どこを切り取っても、失礼だな。なに考えてるんだろ」  誠を顔をしかめた。 「なにも考えてないんでしょ。言いたいこといっただけ」  私は吐き捨てるようにいった。 「なんだか二人が辛辣で、安心する」  碓氷は愉快そうにいった。 「今いったのは、いわれた中でもかなり失礼な言葉だけどね。でもうちの親戚は、みんなそんな感じだよ。だからお母さんは、早く子どもを作れとかいわれたりしたんじゃないかな」  碓氷はさっきとは打って変わって、悲しそうにいった。うるさいとはいいつつも、親のことは好きなのだろう。  私たちはゴトゴトと鳴る電車の中で、時々話したり無言になったりしながら少しずつ近づいてくる非日常を感じていた。 「そういえば中学の植田先生、事故したって聞いた?」  碓氷はいった。教師らの噂は、すぐに学校関係者には広がるものである。 「うん、入院してるんだっけ」  誠はいった。 「植田先生って、なんの先生だっけ?」  私はきいた。 「英語の先生だよ。父親がアイルランド人の、彫りが深い先生」 「あー、いたような気がする」 「美羽たちの学年は、英語は誰だったの?」 「三年間、猪原先生だったよ。学年主任だったから」 「猪原先生ってどんな先生だっけ?」 「白髪のボブの先生。男の」  二人は「ああ」と声を揃えた。 「職員室で自分の爪噛んでる人だ」 「毎日コンビニで、でっかい牛乳買う人だ」  見た目に特徴のある先生は記憶に残りやすく、噂にもなりやすい。  私たちは東京駅に降り立つと、暑さと人の多さに閉口した。  駅のホームは数えきれないほど存在しており、ホームの屋根の間から見えるビルたちは全貌がわからないほど大きかった。私たちは色んなことに圧倒されながらも、どうにか地下鉄に乗って辻吉理沙の住所の最寄り駅へと向かった。  地下鉄に十五分ほど揺られると、目的の駅に到着した。  出口はいくつかあるらしかったが、私たちはなにも考えずに近くの階段をのぼって地上へと逃れた。  そこには当たり前のように見知らぬ街が広がっていた。とにかく建物が高くて、私たちは口を開けていちいちそれらを見上げていた。 「普通に歩いてたら、ここに駅があるってわからないね。地下鉄の駅って、みんなこんな感じなのかな」  少し歩くと、誠は出てきた地下鉄の出口を振り返った。  いわれてみれば、なんの前触れもなくぽっかりと駅が現れるのは不思議な感じだった。 「なんか、落とし穴みたいじゃない?」  誠はいった。 「ちょっとわかる」 「ね」  長く歩いたわけではないが、地元とは質の違う暑さがじわじわと私たちの体力を奪っていき、私と誠は終始どうでもいい会話をしていた。  碓氷は緊張しているらしく、地下鉄を出てからは無口だった。  しかしほどなく「あの」と、遠慮がちに口を開いた。 「ここまで来てくれてありがとう。ここからは、一人でいってみる」 「わかった。じゃあ僕たちは、この辺の適当な店に入ってるよ。なにかあったら連絡して」 「うん、ありがとう」  それから碓氷は携帯電話を片手に、辻吉理沙がいるかも知れない住所へと歩き始めた。  碓氷の後ろ姿を見つめていると、彼は何度かこちらを振り返って手を振った。遠くからでも、彼の緊張が伝わってくるようだった。  私たちは碓氷が見えなくなるまで、何度も手を振り返した。
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