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第七章【水たまり】
あなたといた頃の自分が、一番好きでした。
◆
碓氷を見送った後、僕たちは地元にもあるコーヒーチェーン店に入った。
店内はそれなりに混雑していたが、僕たちは窓側に面した二人席をすぐに確保できた。たったそれだけのことで、自分たちがここにいることを許されたような気持ちになった。
窓越しには、様々な人々たちが闊歩していた。その人々はまるで僕たちなど見えていない様子で、すぐ側を通り過ぎていく。あまりにも全員がそうなので、自分が透明人間になったような気分だった。
「なんか、落ち着くね。せっかく東京に来たのに地元にもある店に入るところが、情けない気もするけど」
美羽は窓に目を向けて、ストローに口をつけた。
知らない人たちが目の前を通り過ぎていくことを「落ち着く」といっているのか、この店に入れたことをそういっているのか、僕には判断がつかなかった。しかし僕は「うん、落ち着く」と同意した。
自分たちは今、東京にいる。その自覚はあれど、目の前に美羽がいることで僕はずいぶん落ち着いていた。
「やっぱり、碓氷についていけばよかったかな。なにもできなくても、見知った顔がいると安心するから」
「うん、同じこと考えてた」
しかし僕たちができることはすでになく、ただ碓氷を待つことしかできなかった。
「勉強道具持ってきた?」
飲み物が半分になる頃、美羽はいった。
「うん。鞄の中は時間割に合わせてきた」
「勉強でもしてようか。一応受験生だし」
移動する気になれなかったので、僕はすぐに了承した。
「一応というか、普通に受験生だよね」
僕はつまらないことをいった。
「そうだよ。誠も来年は受験生だよ」
「僕はまだ実感はないよ。一年以上先の話だもん」
「地元の医学部にいくの?」
「いけたらいいけど、どうだろう。大学だけは、地方の国立になる気がする」
美羽は「そっか」といった後で、僕を見つめた。
彼女の表情があまりにも切実だったので、僕は思わず目を逸したくなった。傘を三本持って僕を迎えに来てくれた時も、美羽はこんな顔をしていたように思う。
「私、東京の大学にいく」
僕の心臓は一拍跳ねた。
美羽はいつも自分だけで考えて、そして完結する。
「もう、決めたの?」
そう聞くのがやっとだった。
「うん。指定校推薦でいきたいところがあったの。今の成績なら問題ないっていわれてる」
指先は、感覚がないほどに冷えていった。
僕は美羽から目を逸して、汗をかいたプラスチックカップを見つめた。それらの水滴は、祖母が倒れた日の窓を彷彿とさせるものだった。
「さみしいけど、そんな予感はしてたんだ。美羽はこの町からいなくなるんじゃないかって」
「長期の休みには帰ってくるよ」
美羽は薄く笑った。
「誠は北川病院を継ぐんでしょ?」
「うん、そのつもり」
「遼平も、うちの旅館を継ぎたいっていってるの。そういう話を聞くと、なんだか救われるような気がする。二人があの町にいると思うと、うれしいから」
美羽は窓の外に視線を向けた。
「僕はきっと、あの町でしか生きられないんだ。おじいちゃんが死んだ時も、おばあちゃんが倒れた時も、そう思ったんだ。あの町の人は、親切だから」
美羽は僕の言葉を肯定するように「そうだね」といった。
「私はその親切に触れる度に、なんだか後ろ暗い気持ちになるの。あの町にいると、なんだか息苦しく感じる自分が嫌になったの。きっと」
美羽は視線を落とした。
プラスチックカップの底には、小さな水たまりができていた。
それがどうしてか、彼女が流した涙のように思えていた。
「知らない町に住むのって、寂しかったり、怖かったりしない?」
「うん、平気だよ。そういえばあの時も、お母さんに同じこといわれた気がする」
美羽はそういうと、僕を見つめた。
「あの時って?」
「図書館の歩道橋を渡ってた時。三者面談が近いから、お母さんと電話してたの。お父さんと三人で話す前に、ちょっと話そうって。その時に指定校推薦を受けたいって、初めて話したの」
「電話ってそれだったのか。そんな大事な会話してたら、他の人なんて目に入らないだろうね」
「まあ、そうだね」
「おばさんにも、平気って答えたの?」
「そうだね。寂しいと思うけど、平気だって答えた」
僕は真意を問うように、美羽を見つめた。
「寂しいとは思うけど、私はたぶん大丈夫。私は結局、あの町にしっかり育ててもらえた気がするから、どこにいてもなんとかやっていける気がする。それなりに傷ついたことは事実だけど、愛された記憶ちゃんとあるし、守られてた自覚あるから、私はそれを忘れないと思う」
恥ずかしげもなくそういうことを口にできる美羽は、僕よりもあの町が好きなのかも知れなかった。
――あの町にいると、なんだか息苦しく感じる自分が嫌になったの
「地元を出ることに迷いはないんだけど、心残りがあるとすれば誠だけ」
美羽は小さくいった。
「病院の廊下で青白い顔をした誠を、今も時々思い出すの。私も誠にあんな顔をさせるとしたら、それだけが心残りかな」
「僕はあの町で色んな人を見送るんだなって、覚悟はできてたよ。たぶんずっと前から」
僕はプラスチックカップから落ちた水滴たちを、静かに拭いた。
「でも僕がずっとあそこにいたら、迎えに来てくれる?」
「すごく待たせると思うけど」
「僕はきっと、あの場所にいると思う。でも、それが少しうれしいんだ」
それから僕たちは、黙々と勉強した。
そして時間を忘れた頃、碓氷から長い文章が送られてきた。
そこには先に家に帰ってほしいという旨と、辻吉理沙はもうこの世に存在しないことが書かれていた。
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