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第八章【遺書】
私は長い間、あなたを恨んでいたのかも知れません。
でもそれは、とても的外れなものでした。
あなたに届かない言葉を、どれだけ思い浮かべたかわかりません。無意味であるとわかっていても、それはもう癖のようなものでした。
ずっとあなたを想っていたはずなのに、あなたがどれほど苦しんでいたのか、私は少しも知りませんでした。
あなたの方が私よりもずっと真剣に現実と向き合ってくれていたんだと思います。
何年もそうしてくれたこと、感謝しています。本当にありがとう。
色んな痛みを伴いましたが、私はあなたと過ごせて幸せでした。
あなたといた頃の私が、一番好きでした。
これは、私の最後のわがままとして受け取って下さい。
あの時あなたが側にいないまま、想像を絶する痛みを味わった幼い私への供養とさせて下さい。
そしてこれを読んだら、私のことは忘れて下さい。
すでに伝わっている通り、辻吉理沙という人間はもうこの世に存在しません。
今までありがとう。
さようなら。
◆
本当に死のうとしたわけではなかった。
ただ少し、魔が差しただけだった。
辻吉理沙。
その名を忘れたことはない。
しかし思い出すことは、久しくなかった。
彼女の妊娠が発覚したのは、中学三年生の秋だった。
自分と彼女だけで、どうにかできる問題でないことはわかっていた。しかし何も決断ができなかった。そして混乱の中にいるうちに、中絶可能期間は過ぎていた。
彼女の妊娠が周知されてからは、様々な人に責められ、罵られた。
そして彼女と会うことも、連絡を取ることもできないまま、引っ越しが決定した。あとになって知った話であるが、彼女の家族も地元を離れたらしい。
どうにか彼女と連絡を取れないかと試みたが、彼女のSNSなどはすべて消されており、それらを辿ることもできなかった。
新しい土地に引っ越して、何事もなかったかのように高校に入学した。
そして数ヶ月が経った頃、彼女の子どもは死産だったと聞かされた。
死産という言葉の重さをどう受け止めていいのかわからなかった。ただ、自分と彼女を繋ぐものは永遠に失われたことは理解できた。
深く傷ついているはずの彼女に会いたかった。傷つけたのは自分であるにも関わらず、自分だけが彼女を癒せるはずだと信じていた。
彼女と連絡を取りたいと懇願したが、もちろん許可されなかった。相手の親にも「もう忘れてもらって構わないから、娘とは関わらないで欲しい」といわれているのだと、両親は説明した。
せめて死産だった子どものお墓だけは教えて欲しい。そう食い下がると、埋葬されたお寺だけは教えてもらえた。
それ以降はお盆とお彼岸、そして命日と思われる日は、お寺で手を合わせることが恒例となった。
大学に進み、その間に何度か恋愛もした。
しかし自分はまだ、どこかで中学生の辻吉理沙に繋がれたままだった。あんなに愛した人も、あんなに傷つけた人も、きっともう現れない。そう思っていたし、それに抗う気もなかった。
大学卒業が近づくと、教師になってはどうかと親に勧められた。親には多大な迷惑を掛けた自覚があるので教師になれというなら、それもいいような気がした。そしていわれるがままに、実家とは微妙に離れた学区を志望することにして教職に就いた。
気づけば教員になって、十年が経過していた。
その日はなんの前触れもなくやってきた。
めずらしく両親に呼ばれ、実家を訪れた。そして両親は「黙っていたことがある」と話し始めた。
辻吉理沙の生んだ子どもは、死産ではなかったこと。
その子どもは、こちらの遠縁の養子になっていること。
今更この話をするのは、辻吉理沙が最近結婚したからであること。
彼女の結婚で、こちらの禊も終えていいと思ったこと。
それらを話してくれた。
禊とはお寺に通っていることだろうかと、少し時間を空けて理解した。
そして両親は「これを預かっている」と、白い洋形封筒を差し出した。
辻吉理沙自身には「生んだ子どもが死産である」と、自分に伝えた事実は伏せられていたらしい。しかし彼女の両親は結婚を機にそれを白状し、そして自分が頻繁にお寺に通っている事実も伝えたようだった。
それを受けて彼女はひどく憤ったらしく、何日も塞ぎ込んだとのことである。
しかししばらくして「これを渡して欲しい」と、この手紙が渡されたのだった。
手紙を経由してくれるなど、当時では考えられなかった。ずいぶん時間が流れたものだと他人事のように思った。
すぐにそれを開封する気にもなれず、封筒を開けないままで帰路についた。
しかし気持ちがそわそわして、冷静ではいられなかった。
たまらず途中の公園で車を止めて、その手紙を開けることにした。
そこにはパスポートが入っていた。
たったそれだけのことで、気持ちが一気に過去へと引き戻された。
妊娠が発覚した当初、父の祖国であるアイルランドに逃げようなんて夢みたいな話をしたことがあった。その時のことを、鮮明に思い出した。彼女もそれを覚えていたのだろう。そして名字が変わる前の自分を、こうして差し出してくれたのかも知れなかった。
パスポートの証明写真に映る彼女は、当時の面影があった。
そしてパスポートの他に、一枚の手紙が入っていた。
それを読み終えた後、なにを思えばいいのか分からず、ただ公園を歩いた。
そして轟々という音に誘われるようにして、歩道橋に上った。
歩道橋から見える美しいはずの夕焼けを見ても、少しも心が動かなかった。このままこの思考を止めても、なんの不満もない。
そう思って、手すりに体重を乗せた。きっと足も上げたと思う。
その時に、背後から誰かの話し声がした。
人の気配にどきりとしたが、その少女はこちらの様子には気付いていないようだった。
髪をすっきりと一つにまとめた少女が、背筋をピンと伸ばして誰かと通話をしていた。その少女と誰かの会話を頭の片隅で聞きながら、少女が歩道橋から下りていくのを見守った。
少女の会話を無意識に頭の中で反芻させていると、しんとしていた心がゆっくりと動き出した。
自分の子どもは今、どこでどんな風に生きているのだろうか。
もう少し冷静になれたら、子どもについても聞いてみよう。そんなことを思いつつ、歩道橋を下りて公園の駐車場を後にした。
そしてその帰り道、事故を起こした。
結果、大腿骨骨折という重傷を負った。
◆
入院している間は、度々生徒が顔を出してくれた。
情けなくもありがたく、今の自分の日常は決して悪いものではないと思った。
退院を翌日に控えた午後、その人物は一人で病室に現れた。
「こんにちは」
声を聞かなければ、きっと性別がわからなかっただろう。
「ああ、久しぶりだね」
その人物は何年か前に、授業を受け持った碓氷宗輔というひどく美しい生徒だった。
担任でもなかった卒業生が、こうして見舞いに来てくれるとは思っていなかったので少々驚いた。
「植田先生。ぼくのこと、覚えてますか?」
碓氷は大きな目で、こちらを見つめた。
「もちろん覚えてるよ。碓氷くんだろ。ずいぶん背が伸びたね」
身長のことをいわれたのがうれしかったのか、碓氷は照れたように微笑んだ。
病室の窓からは、柔らかな風が吹いていた。
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