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第九章【帰ろう】
碓氷は僕たちと別れた後、予定通り辻吉理沙の住所へいったようである。
しかしマンションの敷地内には入ったものの、部屋の前にいく勇気は出なかったらしい。そもそもその部屋に辻吉理沙が住んでいるのか分からないので、当然である。
碓氷がそのマンションの近くをうろうろしている間、碓氷の母から電話があった。
碓氷の母には、何かしらの予感があったのだろう。
昨夜は辻吉理沙の生死を聞かれ、そして碓氷は本日「友だちと東京へいく」と家を出たわけである。
碓氷と母がどれくらい電話で話していたのかわからない。しかし短い時間ではないだろう。
様々な話をする中で、碓氷は辻吉理沙が最近結婚したこと。そして名字が変わったことを知ることになった。さらにはその電話で、実父の話も初めて聞いたらしい。
そのため少し混乱しているので、一人で帰りたいと僕たちに連絡をくれたのだった。
結果として辻吉理沙という人物はもう存在しないが、旧姓辻吉理沙は今もどこかで生きている。
そして僕たちが遺書だと思っていた手紙は、辻吉理沙から碓氷の実父へ宛てた手紙だったはずであると碓氷は教えてくれた。
◆
僕たちは碓氷の連絡をみた後で、深く息を吐いた。
「歩道橋にいたのは、碓氷くんの本当の父親だったのかな」
「そうだね。身長も大きかったわけだし」
「生きてるのかな」
「生きてて欲しいとは思うけど、これ以上は首を突っ込める領域じゃない気がする」
僕がいうと、美羽は「それもそうだね」といった。
「でも、なんで辻吉理沙はパスポートも同封したんだろう。新婚旅行とかもありそうなのに」
僕はいった。
「よくわからないけど、名前も変わるし、有効期限も迫ってたし、なんかちょうどいい区切りだと思ったんじゃない?」
残酷だなと思いつつも、それは一理ありそうだった。
僕たちはすぐに帰る気になれず、もう一度飲み物を買った。
きっと僕たちは東京から帰ったら、こうして顔を合わせて勉強をする機会はないだろう。東京に来ている事実よりも、美羽と一緒に勉強をしている事実の方が、僕にとっては忘れがたい思い出になるのだろうと思った。
帰り難いと思いつつも、美羽に「帰ろうか」と言われると、うなずく以外の選択肢はなかった。
東京駅まで戻ると、日中よりもさらに多くの人が駅の中を歩いていた。どうやら帰宅時間に差し掛かっていたようである。僕たちはぎゅうぎゅう詰めにされた電車にどうにか乗り込み、ただ静かに呼吸をした。
しかし二十分もすると人はずいぶん減っていき、僕たちは座ることができた。
窓の外は昼の気配が薄れており、世界は夕暮れに染まっていた。
電車が地元に近づくに連れて、やはり人の姿は減っていった。
「あの遺書を読んだ時、もしかしたら自分みたいだなって思ったのかも知れない。それが誰に向けたものでもないんだけど」
「うん。僕も、少しだけそう思った気がする」
だからこそ僕たちは、あの遺書に関わろうと思ったのかも知れなかった。
「歩道橋から人が飛び降りそうに見えたのは、もしかしたら私がそうしたかったのかも知れない」
「え」
「死にたいとか、そんなこと思ったわけじゃないよ。でもお母さんに大学の話をしてる時に、自分の一つの季節が終わったような気がしたの。その自分が、どこかに飛んでった感じがしたのかも」
「どこに飛んでいったんだろう」
「国道の、もっと先の方だと思う」
「戻ってくると思う?」
「どうだろうね。自分がこれからどんな人間になるのかも想像つかないし」
「どんな人間になっても、僕はたぶん美羽が好きなままだよ」
美羽は僕の言葉について深く思考することを早々に放棄して「ありがとう」といった。それは会話を切り上げたい時の、美羽の常套句であることを僕は経験から知っている。
「美羽が大学に落ちて欲しいって思うくらいには好きだよ。そしたら、あと一年は近くにいられるから」
「愛が重い」
美羽は呆れた感じで笑った。
「でも誠に応援されないと合格する気がしないから、ちゃんと応援して」
「そのつもりだけど、指定校ってほとんど合格するんでしょ。僕が応援しなくても大丈夫だよ」
僕が反抗的なことをいったせいか、美羽は肩で息を吐いた。
「誠が私を好きだっていうのは、家族愛みたいなものでしょ。私とキスしたいとか思う?」
「思うよ、ときどき」
美羽は「え」というと、その頬はみるみるうちに夕焼けよりも赤くなった。
「でも美羽を困らせる気はないから、大人しく失恋するよ」
僕はそういって、青色に染まっていくピンク色の空を見つめた。
美羽は僕と同じ景色を見つめながら、静かに口を開いた。
「一回くらい、してみようか?」
「え?」
僕は思わず美羽を見つめた。
「私が大学に合格したらね」
「わかった、全力で応援する」
僕が力強くうなずくと、美羽は笑った。
電車は僕たちを乗せて、どんどんと現実へと、あの町へと帰っていく。
明日になってしまえば僕たちはいつものように学校にいき、何事もなかったかのように日常に戻るだろう。東京にいったことは夢のように遠くなり、急速に過去になる。
そして美羽がこの町を去る日は、あっという間にやってくるだろう。
しかしそれについては、悲しみに暮れることはないような気がした。
――傷ついたことは事実だけど、愛された記憶もちゃんとある
――私はそれを忘れない
僕も彼女と同じく、なにかに愛された記憶の片鱗で生かされていくんだと思う。
いつかのように海底に沈んでいくような悲しみに出会っても、きっとどうにか生きていける。そう思えた。
窓の外は、いよいよ夕闇が迫っていた。
車窓からは、次第にぽつぽつと街の灯が見え始めた。
星空が海底におりてきたような、そんな光たちだった。
【 了 】
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