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第一章【歩道橋】
私は長い間、あなたを恨んでいたのかも知れません。
でもそれは、とても的外れなものでした。
◆
私の部屋からは、海が見える。
よく晴れた朝は、太陽とそれを反射する水面で遮光カーテンの端が黄色に染まる。カーテンを開けると直視できないほどの、世界がきらきら光っている。
部屋から見える景色は気に入っているし、この海沿いの町が嫌いではない。
それでもいつの頃からか、私はこの町で生き続けることは難しいのだろうと感じていた。
私がこの町に住み続ける限りは、守られているような、見張られているような、そんな視線たちから逃れることはできない。
それは潮風と同じくこの町から切り離せないもので、時に心地よく、時に不快でたまらなくなる。
◇
八月の夕暮れは、夜の気配が濃くなっても気温は下がらないままである。
暑さと重力に負けて、クリーム色のアイスが静かに重心を下げはじめた。
残り一口になったアイスを口に含んだ後で、私は携帯電話を見つめた。画面には「少し話せる?」という母からの連絡が映し出されたままになっていた。
私は小さく息を吐いて、日に焼けたベンチから立ち上がった。
アイスの棒をゴミ箱へ入れてから、私は母に電話を掛けた。
「美羽? 今どこにいるの?」
母の声はいつもより大きく感じられた。しかしそれは、私が緊張しているせいかも知れなかった。
「図書館。もうすぐ帰るよ」
私は母と通話をしながら、人の少なくなった公園を後にした。
公園の防護柵を出ると、車の音が轟々とうるさく感じられた。この国道は常に交通量が多く、トラックなども頻繁に通っている。
それでもよく通る母の声は、しっかりと私の鼓膜を揺らしていた。
国道を横切る歩道橋を上り始めると、私の心臓は次第に速くなっていった。それは階段を上る動作や、暑さのせいだけではない。やはりどうしても、緊張しているせいだった。携帯電話を持つ左手は、じんわりと汗をかき始めた。
それでも私は、どうにか口を動かし続けた。
歩道橋の階段をのぼり終えると、生暖かい風につつまれた。
私の視線は自然と遠くへ向いた。ずっと遠くまで国道が伸びており、その先にはピンクと紫色が入り混じった雲が浮いている。
それを横目に見ながら、できるだけ丁寧に自分の気持ちを母に伝えた。
高校三年生の夏休み中である現在、半年後の自分を想像することはむずかしい。しかしそれを、できるだけ明確に想像しなければならない。私は今、そんな時期に差し掛かっているのだった。
現実から目を背けたい気持ちがあるせいか、私はひたすら遠くを見つめていた。
不意に視界が遮られたことで、自分以外の人間が歩道橋にいることに気がついた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに国道と夏の夕暮れが視界に戻ってきた。
歩道橋の階段を下りながら母の言葉に耳を傾けていると、自分の緊張が次第に溶けていくのが感じられた。
歩道橋の階段を下りて少し歩くと、ほとんどすぐに市立図書館の敷地になる。
その敷地内に入る頃、見てはいけないものを見てしまったような、見過ごしてはいけないものを見過ごしてしまったような、そんな不安が胸にじわりと広がっていった。
しかし私は無理にその不安から目を背けて、母との会話を続けた。今は他の何かに気を取られている場合ではない。自分にそう言い聞かせた。
そして図書館の駐輪場に着く頃、母との通話は終了した。
長く鬱屈としていた案件だったが、それが一歩前進したわけである。しかしこの電話は、ほんの通過点に過ぎない。これからはもっと重要で面倒なことが、次々とやってくる。
それらに思いを馳せると、不安と希望が入り交じる。
駐輪場に停めた自分の自転車を見つけると、私は鞄のポケットに入れた鍵を探った。
そうしている間に、先ほどの妙な胸騒ぎはなんだか? と考え始めた。
それは漠然とした将来の不安などではなく、すぐ近くに危険が迫っているような、そういう類の胸騒ぎだった。
私は何に危険を感じたのか?
その答えを探るべく、周囲を見渡した。特に不審な人や物はない。
しかし歩道橋が視界に入ると、そこで何かがあったように思えた。
歩道橋には誰かがいた。
その誰かは、歩いていたわけではななかった。
立ち止まっていた。
そこを私が通り過ぎた。
その人は、歩道橋の手すりを覗き込んでいなかっただろうか。
覗き込むというよりも、身を乗り出していなかっただろうか。
どこまでが真実で、どこまでが思い込みなのかはわからない。
しかしそう思えてしまうと、もうダメだった。
私は自転車の鍵を探すことを中断し、歩道橋へ戻った。
国道には相変わらず、ひっきりなしに車が走っている。
もしかしたら先ほどの誰かは、歩道橋から飛び降りたのかも知れない。
ほんの少しそう思っていたので、私は一旦胸を撫で下ろした。
歩道橋を見上げても、そこには誰もいない。青い案内標識の影にも、誰かがいる様子はなかった。
それでも私は、歩道橋にのぼらずにはいられなかった。誰かがいたと思われる場所には、白い洋形封筒が落ちていた。
先ほども落ちていたのかも知れないが、確認するすべはない。
その封筒には宛名も住所も記載されておらず、差出人の名前もなかった。切手が貼られていた形跡もないので、郵便物ではないようである。封がされていた痕跡はあるが、すでに開封済みであった。
私はそれほどためらわずにそれを開けた。
封筒の中には朱色のパスポートと、一枚の手紙が入っていた。
パスポートの持ち主は、辻吉理沙とあった。
パスポートを確認した後で、同封されていた手紙に目を通した。
その間、やけに強く風が吹いていたように思う。
手紙を読み終えた後で、私は静かに視線を上げた。
ピンクと紫色の雲が浮いていた空は、いつの間にか青い雲だけになっていた。
自分が手にしているものは、おそらく辻吉理沙の遺書である。
そう理解した。
それらしき人がまだ近くにいないだろうかと、辺りを見渡してみた。しかし国道沿いの歩道には、犬の散歩をしている人、三人で下校している中学生、自転車に子どもを乗せている人、それくらいしか見当たらなかった。
それでも私はしばらく、歩道橋に佇んでいた。
歩道橋の下からは、轟々と車の流れる音が絶え間なく聞こえていた。
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