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「いや、もちろんあくまで噂だから、ね、落ち着いて」
私のバグっている声量に、二宮部長はもう大慌てで席を立ったり座ったりしている。このセリフは聞く人が聞けばコンプライアンス違反である。最近のコンプラに関心の強い部長はそれも相まって慌てているのだろう。別に二宮部長に恨みはないので、ここで助け舟を出す。
「その件について、真実を聞かれたことがないので釈明する場も無かったものですから。この書類を確認してください」
持参した書類の中から封筒を広げ、中身を二宮部長の前に差し出す。
「私が当時交際していた男性が既婚者だったことは事実です。ですが、私はその事実を知らず、知った段階で関係を清算し、奥様とのやり取りもこの書類にある通り完了しております。
事実はこの書面の通りですが、現在流れている噂は業務に無関係であり、これ以上支障が出る場合はコンプライアンス委員会への相談を考えています」
二宮部長が目を白黒させながら目を通している書類は、あの日、弁護士さんに差し出された書類……では無く、何度も何度も話し合いの上作り直された書類だった。
最初に三山夫人の弁護士から差し出された書類には、私から夫人への嫌がらせなど身に覚えのない事項まで書かれていて、慰謝料は払うが事実と異なる書類にサインは出来ないと話し合ったのだ。
結局、三山夫人は私から受けたという嫌がらせの証拠を出すことは出来ず、辰己が私に既婚者であることを隠していたという事実を記載することが出来た。
証拠になるかわからなかったが、私は全てをつまびらかに説明しようと三山夫人や弁護士に、辰己と準備していた結婚式や披露宴準備の書類やアルバムなどを提出した。悲しかった。幸せな気分で準備していたものが、とても滑稽に見えた。
「はぁ……これは大変だったね、でもねぇ……」
部長が書類を机の上に戻し、コツコツと机を指で叩く。
事実がどうであれ、印象が良くないものはダメなのかもしれない。はぁ、と私も溜息をつきそうになった時。会議室のドアが前触れも無く開いた。
「おい、廊下まで聞こえてるぞ」
「花田さん!?」
花田さんはノックもせず乱入してきて、つかつかと部長に近づいた。そして、部長の前にあった書類を持ち上げる。何勝手に読んでるんですか!?
えっ、ちょっと、え!?と今度は私が椅子から立ったり座ったり手を伸ばして取り返そうとするが、届かない。花田さんが『三山……』とか言っているが、読み上げないでもらえますか!?
「──部長、いいんじゃないですか?」
「花田くんまで」
読み終わったのか書類がヒラヒラと私の頭上で揺れる。もう少し大事に扱ってほしい。これは私の印籠なのだから!
「これもう結婚詐欺じゃないっすか。慰謝料の額、見てくださいよ」
「大変だったね、森田さん……」
ぐっ……と詰まった声が会議室に響く。私の声だ。
「こいつ、結婚資金貯めるって毎日毎日せこせこ弁当や水筒持ってきてたのに……それがこの慰謝料でパアですよ」
「そういえばそうだね。あんなに頑張ってたのにねぇ……」
うぅッ……これも私の呻き声だ。
花田さんの憐れみを含んだ声がボディーブローに入った。パンチが重い。
「ま、まぁ、可哀想だと思うけどね、花田くん。周囲は納得しないかなぁって」
「今こいつ嫌われまくってますもんね」
もう勘弁してください。
瀕死の私をチラリとも見ずに、花田さんは二宮部長を真っ直ぐ見つめている。
「逆に今までの八方美人さが抜けて、嫌われることを恐れない強さが出てきたと思いませんか。俺は前より昇格させてもいいとすら思っています」
二宮部長は花田さんの言葉を噛みしめるように、確かにねと顎を擦り目を閉じた。これは部長の前向きに考える時のスタイルである。そしてチラリとこちらを見て「さっきの堂々とした様子は一皮剥けたようだったよ」とチクリと刺された。花田さんも勝ちが見えたのか、畳みかけるように二宮部長を安心させる決め台詞を放った。
「まあ、結婚詐欺に合うようなマヌケ、俺が面倒見ますから。大丈夫ですよ」
それを聞いた部長は納得したように何度か頷き、花田君がそこまで言うなら、頑張ってみなさい。と承認した。
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