SAKURAを爪弾いて

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「さくらって、嫌い」 その言葉に目を丸くした。 「さくらはお前のことだろう」 「違うよ、木の桜の話」 窓の外を見やる。空に溶けているような庭木の花の色は、まだ咲き染めたばかりだ。 「何?何が嫌いなの」 顔を寄せて、共に空を眺める。しばらくして、ぽつりと呟く声が漏れた。 「…この前観た映画、家族で桜を見に行った次の日に、映画に出てくるおばあちゃん死んじゃったの」 その前に読んだ本も、その前もそうだったと指を折っている。誰かの死の前後には、必ず桜のシーンがあると言いたいらしい。 「じいちゃんは桜と一緒に死なんでよ?」 少し怒ったような顔で、上目遣いに見上げてくる。とても可愛くて、心がふわふわ、空気中を舞っている感覚。 「そうだなあ」桜を見ながら呟いた。 「咲良のためにも、まだ死ねんなあ」 風に乗って、花が揺れる。 白く新しい鉄製のベッドは、下が収納スペースになっている。量販店の、安いと評判のメーカー。別売りの収納ケースを買って並べ、中に漫画を陳列させている分には便利だった。 マンションの一室に詰められた新しいベッドに、新しい机に、新しい部屋。新しい空気。 ここに来て2ヶ月、あのホコリ臭さは徐々に薄れた記憶になっていく。 4月なんかにエアコンをつけるのもどうかと思うが、窓を開けると注意されるし、前の家と比べてすぐ暑くなる。ごうごう鳴る機械音は、去年の真夏を思い起こさせた。 アイスをかじる。扇風機をつけて、楽譜に目を落とす。ピックをこねくり回す。かじりながら楽譜を見るなと、横から伸びる手の上に溶けて滴り落ちた。 仰向けになりながら、カーテンを開けないままの薄暗い部屋で目をつぶった。少し早いけど家を出ることにしよう。この閉鎖的な空間だと、思い出したくないものまで浮かび上がってくる。 エアコンを消して荷物をまとめ、部屋から出た。私に気づいて、顔を上げバツの悪そうな顔をする母親と目が合う。 「あ、咲良ちゃん。これから教室?」 「うん」 「いってらっしゃい」 横を通り過ぎようとすると、「無理しないでね」と声が飛んでくる。 私はそれに、ガチャリと返事をした。 高層マンションと雑居ビルに挟まれた、小さい喫茶店。駅前の商店街を抜けると、見えてくる。 「おはようございます」 「あら、咲良ちゃん。今日は早いね」 喫茶店の時の顔をしたマスターが、厨房から顔を出す。夕方の教室の時間より、確かにかなり早く来すぎたかもしれない 「すみません」 「いや、丁度よかった。こちら、今日から新しく入会する方だよ」 「新しい人?」 荷物を下ろしながら、カウンター席の方をみやる。人の良さそうな、背の高い、イケメンおじいさん。 「こんにちは。三吉さん、だね?」 名前を知られていると思わなくて、顎を突き出すような失礼な会釈をしてしまう。 「はい」 「君が三吉さんか。そうかそうか…」 まただ、影がチラつく。まだ2ヶ月しか経ってないといえど、思い出すと胸が苦しくなる。 「はじめまして、藤沢です」 深々とお辞儀をするおじいさんにハッとして、慌てて頭を下げた。 「あ、どうも三吉で、」 目を見張って、思わず言葉を途切れさせた。 おじいさんの横の、ギターケースに目がいく。淡い桃色の缶バッチ。 「…真幌のこと、覚えてくれてるかな?」 新しいギターケースについた桃色の缶バッチは、まだ記憶に新しい、彼女のバッチだった。 同じギター教室に通う藤沢真幌さんは、別の中学だったけど同い年の女の子だ。特に目立つ訳でもなく、話したこともほとんどない。 それでも二週間前、不慮の事故で亡くなったと聞いたときは、他人事ならが驚きを隠せなかった。 しかもギター教室の帰り道で、教室はしばらく休校していた。 「今日体験に来られた藤沢さんです。藤沢さんは先月まで通われていた真幌さんのおじいさんで、真幌さんの使っていたギターで参加されるということです」 人の少ない教室で、まばらな拍手が起こる。 「私はギターのことはさっぱりなのですが、何卒ご指導よろしくお願いします」 藤沢さんは、また深々とお辞儀をした。喫茶店が閉まった後の店内は、すっかり大人たちの道楽の場と化している。前にマスターがそう言ってた。 また大人が増えたなと思う。 「咲良ちゃん、咲良ちゃん」 練習の合間、坂下さんのおばあさんが声をかけてきた。 「どう思う?彼」 「彼…ああ藤沢さん」 彼と言うには年が行き過ぎていると感じたが、坂下さんとは同い年くらいだろう。 「そうよ!だって、この前真幌ちゃんの葬儀があったばかりでしょ?そんな急に、孫が習ってたからってここに習いにくる?」 「さあ…やってみたくなったんじゃないですかね。現にここ、私より年上の方達ばかりですし」 お葬式には、私も教室の生徒として参列した。煙たいお香の匂いが鼻をかすめて、思わず目頭を抑えていたら、気分が悪くなってきて早めに引けた。 「孫がやってたの見て、自分もとか。そしたらここが一番行きやすかったとか。理由はなんでもありますよ」 坂下さんは「さすが若い子、考え方が柔軟よねえ」と私の肩を強めに叩いて、別の人のところへ行った。 坂下さんは悪い人では無いけど、いかにも噂好きという感じが苦手だ。無理に否定も同調もしないと、一定の距離は保てるが、あからさまに飽きられると少し傷つく。 「咲良ちゃん、咲良ちゃん」 次いでマスター(ここでは先生だが)が、私の横に並んだ。 「どうかな、彼」 「先生自ら噂話ですか」 「え?いや、違うよ。仲良くなれそうかなって話」 ちらりと、横目で藤沢さんを見やる。まだ新品に近いギターを、大事そうに抱えている。 『藤沢さんのおじいさん、ですか』 手作りのラミネートされた、桜模様。彼女の缶バッチのことを聞くと、にっこり柔和な笑みを返された。 『真幌のこと、覚えていてくれたんだね』 皺だらけの手で、ケースを優しく一撫でする。 『まあ、同い年だったので』 同世代の子のほとんどは、近くにある大手楽器メーカーが運営している教室か、独学が多いらしい。個人でやっている教室に通う私と真幌さんは珍しかっただろう。 『あまり話したことは無かったんですが』 『そうかい。まあ、あの子は話すの苦手だしなあ』 カウンターのコーヒーを持ち上げて一服する藤沢さんの隣に、色違いのカップが置かれた。 『あ、頼んでないです』 『今日はサービス。それより咲良ちゃん、藤沢さんにギター教えてあげてよ』 教える? 『ギターやられてたことないんですか?』 『うん。このギターはね、真幌が高校の合格祝にって言っててね』 自分のギターじゃなかったのか。私のギターはお下がりだから、すっかり彼女もそうだったのだと、勝手に決めつけてたのかもしれない。それにしても、あの子が自らギターを始めようと思ってたのがなんとなく意外だ。 『教室に来られてるなら、それはマスターの仕事ですよね』 『僕ももちろん先生だから教えるけどね、教室に早く馴染んでもらうのも大事でしょ?簡単な基本コード使えるようになれば弾き語りとかもできるようになるし、9月の発表会までに練習すれば、発表会はお好きな曲で参加できますよ』 『発表会をやられてるんですか?』 私は、入り口に積まれているチラシを一枚取ってきて、藤沢さんに手渡した。 『半年に一回、市民ホールを借りてやるんです。他の個人でやられてる教室が集まって』 『へえ…でも、私が好きな曲と言うと、古すぎて誰も知らないかもしれないなあ』 苦笑いを浮かべる藤沢さんに、マスターが説明する。 『みなさんご自分の好きに演奏されるので、毎年レパートリー豊富ですよ。子供のピアノ教室の生徒さん方も参加で、合唱なんかもあったり、演奏体制も割と自由なんです』 『そうなんですか』 『というか咲良ちゃん。発表会をやるんですって、あなたまだ参加したこと無いじゃない』 『あれ?三吉さんも初心者なんですか?』 藤沢さんが目を丸くして、私のギターに目線を移した。 『私、こっちに引っ越してきたばかりなんです。前からアコギは弾いてたんですけど、やる場所が無くて』 『ああ、そうかい。前はどこに住んでたの?』 『岡山です。海沿いに工業地帯があって、その近くの』 『僕も初めて聞いたよ。じゃあ前は、外でも家でも、いくらでも場所があったってことなのね?』 そうですね、と頷く。昔に建てられた瓦屋根の家、他の家よりこじんまりとしてたけど、外も公園が近くにあって、マンションの箱の中で窮屈に生活してる今とは違い、いつでも演奏出来てたんだなと思い出す。 『話は逸れたけど、咲良ちゃん、どうかな?簡単なコード教えるサポート』 私は少し首を捻った。春休みが始まる前に引っ越してきて、あと3日したら高校生になる。ここに通い続けるためには、父が言っていた、勉強とギター練習を両立させないといけない。自分の練習と学校のことで手一杯になるかもしれない。 それに… 『今練習してる曲、リズムとるのが難しくて苦戦中なんです。こっちの生活も慣れてないし…』 そう言って、やんわり断ったはずなのだが。 「なんで私なんですか?もっと上手な生徒さん、他にいるじゃないですか」 「謙遜しないでいいのにー」 「事実です」 突っぱねる私を気にする様子もなく、先生は腕を組み直した。 「こういうのは上手いだけじゃだめなのよ。それにうちの生徒さん同士じゃね、教えてる内に雑談始めちゃうんだから。咲良ちゃんくらい年離れてる方がいいの」 咲良ちゃんも馴染みやすいでしょ?とも、先生は思ってくれているのかもしれない。ここでは話しかけられることはしばしばあるけど、それだけだ。音楽は一人でやっていたいなんて、いっちょ前な理由を建前に、私は上手くコミニュケーションを取れていない。 「今日はありがとうございました」 「いえいえ。昼の間にも、またいらして下さいね」 先生と藤沢さんが入り口で言葉を交わしているのを横目に、帰路へ着こうと折りたたみ傘を開いた。天気予報、ちゃんと見ててよかった。 「三吉さんも、また来週からよろしくね」 「あ、はい。どうも」 不意を突かれて、引き気味な挨拶をしてしまう。 「あ、咲良ちゃん。傘持ってたんなら、藤沢さんと途中まで一緒に帰ってあげてよ」 「え!?お店の置き傘は?」 「他の生徒さんの分、はけちゃった」 じゃあまた来週ねー!と、先生は明るく送り出し、早々に奥へと引っ込んだ。ぽつんと、二人で取り残される。 「あ、あの、この傘小さいんで、よかったら貸します」 「いいの?」 「私駅までなんで」 一旦閉じた傘を、半ば無理やり押し付ける。とにかく、早く帰りたかった。 「…いや、いいよ。私も家が駅の近くだからね」 「そう、ですか」 「でも、せっかくだし少し話しながら帰りませんか?今は小雨になっているし、私のことは気にしなくていいよ」 そう言って、藤沢さんは歩きだす。先生もこの人も坂下さんも、強引と言うか、謎の圧が見える。 気づかれない程度のため息をついて、私も傘を仕舞いながら藤沢さんの隣に並んだ。 「今日はありがとうね」 「え?」 「来た時話してくれたおかげで、緊張しないで済んだから」 濡れていく髪を、おもむろにかき上げる。その仕草がなんとなく様になってて、若いときは更にイケメンだったんじゃないかと思わせる。 「緊張されてたんですか?」 「そりゃそうさ」 孫がいた場所だからねと、遠くを見ていた。ああ、そうだ。坂下さんみたいな人もいるだろうと、警戒してたのかもしれない。 「真幌は、あそこに馴染んでいたかな?」 真幌。私は眉をひそめた。 「馴染んでいたとは思います。私は輪の中に入るのが苦手だったけど、彼女は楽しそうでしたよ」 ある程度年配になってきた人たちには、若くて愛想のいい人ばかり好かれるようになる。まだ子供で、ニコニコしてて、コミュニティの真ん中にいた彼女の姿は、少し羨ましくもあった。 「そうかい、それはよかった」 藤沢さんは、なぜか少し恥ずかしそうに笑う。 他愛のない話をしてる内に駅に着き、それじゃあと手を振って別れた。背負うギターケース、その隅にさりげなく付いていた、あの子の缶バッチ。 何を考えて、ギター教室に通おうと思ったのだろう。しかも、わざわざ彼女が行ってた場所に。 藤沢真幌さん。亡くなってからというもの、彼女のことばかり考えてしまう夜が増えた。生きてる内は、ほとんど無関心だったというのに。厳密に言えば、彼女自身のことでもない。 見えない形のない恐怖ばかりを怖がって、いなくなってから押しつぶされ、ひたすら体を縮こませる。 私は自分のことばかりで、答えが出ないと分かってるのに、まだ同じ場所で立ち止まってばかりだ。 「おじいちゃん、なんか変わってない?」 じいちゃんは、自分の顔を指差しながら聞いてきた。 「じいちゃんはいつものじいちゃんでしょー?」 「そうだけどなあ。咲良、よお見てみ」 そう言いながら、顔をずいずい近づけてくる。 首をひねってしげしげと眺めるけど、目も鼻も眉毛も、いつもどおり白くて薄いし、頭は、外の光のおかげでツルピカ。だから、こっちの眉ばかりどんどんひそめていってしまう。 「よくわからんよお」 「じゃあヒントな」 これ、じいちゃんはひょいと、持ってた機械を目の前に近づけた。 「おうちのなかだから、おなまえかかんでいいでしょ」 「お前、幼稚園で習わんかったんか?自分のものには名前書かんといけんだろ」 「じいちゃんしかつかわんじゃん」 ほっぺたを膨らませるじいちゃんを見つめて、ごめんねと笑った。 「じいちゃん、おひげそったのね」 「学校はどうかな?三吉さんはこっちの中学じゃないって聞いてたから、馴染めるか心配してたのよ。お母様から事前に電話があってね、最近、習い事のお友達が亡くなったって。少し早めに引っ越してきた理由も知ってるから、えっと…そうそう、1月のことよね。こんな短期間に辛いことが2回も起こるなんて…私も一応、あなたの担任だから。今は色々辛いかもしれないし、悲しかったりすると思う。でも…そうね、何かあったら話に来てね。え?そりゃあ、周りの子達が余計に思い出すようなこと言ってたら、聞いてて辛いでしょう。そう、意図せずともね。まあ、あれね。 二人共、三吉さんのことを空から見守ってくれてると思うから」 うわあ、マスターと同時に声が漏れた。 「弦、錆びまくってますよ」 「あ、そうなの?」 「こりゃ指が痛いわけだ。初心者は痛いと練習続かないでしょう」 奥に引っ込んだと思ったら、絆創膏を一枚、藤沢さんに手渡していた。 「ありがとうございます。このくらいの痛さ、普通なんだと思ってたもんだから」 「定期的に換えたほうがいいですよ。1ヶ月がベストだというのは、よく聞きます」 豆が潰れた跡に、丁寧に巻いてく指先。年齢より若く見えるこの人でも、年相応の手。皺だらけの手。 「真幌が大切にしてたものまで、気が回らなかったな」 教えてくれてありがとうね、藤沢さんはギターを撫でる。人が老いるのと同じように、物にも同じ時が流れている。 「少しだけ気になったんですけど、」 マスターが、カウンターから少し身を乗り出した。 「真幌ちゃんのギターって、彼女の合格祝っておっしゃられてましたよね?なんでやりたくなったのか、ご存知なんですか?」 「うーん…詳しくは知らないんですが、前から興味があったみたいで」 真幌さんの両親が離婚したのがきっかけで、2年前から一緒に暮らしていたらしい。彼女は口数が少なく藤沢さんも勝手が分からなくて、あまり深い話をしたことが無いと説明してくれた。 「元々、離れた土地に住んでたもんだから、会ったこともほとんど無かったんですよね」 「そうだったんですか。いやあ、孫が持ってたギターで習いに来たって、聞いてたもんだからね」 「ああ、いや、それはね…」 なぜか妙に歯切れが悪そうに答える。訝しげに見つめてたら、柔和な笑みに切り替わった。 「私もギター、やってみたかったものですから。それに、物は使わないと悪くなるって」 「分かりますー!」 ビンテージ物もいいんですけど、定期的に使わないとねえ、マスターはコップを磨きながら楽しそうに話しだした。なぜか急に、藤沢さんが愛想笑いを浮かべてるように見えた。 「咲良ちゃんのは、かなりの年代物だよねえ」 「あ、そうらしいですね」 「しかもレアなんですよ!もう日本にほとんどあるのか無いのかっていう」 「へえすごいね!どこで買ったものなの?」 「さあ…これ貰い物なんで」 話している内に、教室の生徒さんが店内に集まってきた。 「じゃあ、そろそろ始めましょうか」 マスターから先生の顔になる。準備を手伝うために、机を出したり、譜面台を取りに外の物置場へ向かった。 坂下さんが丁度入るとこだったらしい。軽く会釈して横切る。 そういえば、この前坂下さんを嗜めるために言ったこと、意外に間違ってなかったんだなあ。 「じゃあ、また来週ね」 「ありがとうございました」 先生にいつもの挨拶をした後、振り返ると藤沢さんが待ってくれていた。ここ数日前から、見慣れた光景になっている。 「最近、仲良くなってきてる感じ?」 「特に会話も無いんで、そういう訳では」 少しワクワクした様子の先生に動じず、私は返す。 初日に話しながら帰ったことがきっかけなのか、教室があった日の帰りは、駅まで二人で帰っている。 「ちょっと咲良ちゃん、ちゃんと距離縮めてよー」 「なんなんですか?馴染んでもらうんだったら、坂下さんとかの方が適任でしょ。一緒に帰るのは、方向が同じだからってだけですし」 「坂下さんじゃ気押されちゃうじゃない。藤沢さん、最近頑張ってらっしゃるから、弾けるコード増えてきたんだよね。だから咲良ちゃんは、弾き語り教えてあげてよ」 出た、謎の圧。 「待たせてるみたいなんで、もう帰ります」 まだ何か言いたげな先生を振り切って、藤沢さんに駆け寄った。「お待たせです」 「藤沢さん」 声をかけても、反応が無い。ぼうっと眺めている視線の先は、夕日だ。西の空へと集まる光のグラデーションは、昼の青い空から緑へ、赤へと収束していく。 「あ、もう帰るかい?」 「はい。何を見てたんですか?」 「ん?ああ、いやあね、夕日がきれいだなって。それだけだよ」 私も、夕日を眺めてみた。低く棚引く雲のように、気持ちがたそがれていく。 「真幌も…一緒に見てくれているかな」 その言葉に、どくんと音が鳴る。 「じゃあ帰ろうか」 そうですね、悟られないように返事をして、帰路に着いた。影が伸びていくのと一緒に、どんどん日が落ちていく。 「三吉さんって、部活してないの?いつも早くにお店にいるだろう」 「ギターやるなら、部活やってる暇無さそうだなって。軽音楽部とか無いから」 「そうかい。まあ、いつも教室が始まる前の時間は、私は好きだけどね」 私が君と同じくらいの頃は、柔道をやっててね…話し出す藤沢さんの隣で、軽く相槌を打つ。 どくんどくんと、記憶を追い払おうと、静かに浅い呼吸を繰り返した。 馬鹿だ。 死んだ人が、まるで生きてるみたいに。 「咲良ちゃん、お母さんです。電話に出ないから、留守電を残しておくね。ごめんなさい。お母さん忘れてたんだけど、おばあちゃん達のお膳、これ聞いたらお供えしてもらっもいいかな。土日だし、まだ寝てるかもしれないから、起きてからでいいよ。あと、先生から聞いた?いくら平気そうに振る舞ってても、教室の子が亡くなったのはショックだったんじゃないかと思って。まだ1月からも、あまり時間が経ってないのにね。あ、じゃあお母さん、もう仕事戻るね。ごめんね。 でもいつまでも落ち込んでると、二人共悲しむと思うよ」 「あれ、今日藤沢さん来ないねえ」 「そうですね」 窓の外をぼうっと眺める。雲一つない、初夏の快晴。 「たまには自主練習でもする?」 「いや…お客さんの邪魔になっちゃうから」 毎週埋まってた席を見つめる。来なくてよかった、なんてひと呼吸した。やっぱりまだ怖いんだ。藤沢さんみたいな前向きな人。平然と生きていられる人。 俯いていたら、マスターが気まずそうにコップを拭いていた。 「ごめんなさい、今日いきなり暑かったじゃないですか。それで、ちょっと疲れて」 気を使わせないように笑うと、マスターはホッとしたような表情を浮かべた。 「そっか、じゃあお水持ってくるね」 そう言って、奥へと入っていった。 ギターを弾いてると本当に邪魔になってしまうからと、トートバックから楽譜を引き出した。 流行りのバンドの、青春を歌った曲。いかにも定番。テレビの特番でもよく流れてて、ここの生徒の人達でも知ってるだろう。 小さく唸って、椅子にもたれかかった。流行りのバンドの、流行りの曲。少しコードは難しいけど、自分なら9月の発表会までには仕上がるだろう。 ただ、やる気が起きない、それだけだ。毎日コードを鳴らしてるのに、鳴らしてるだけ。心の中で、ずっと空を切ってるような感覚。 『そんな意味ねえことやめとけ』 びりっと、何かが繋がったように声が響く。そういえば、昔同じようなことがあった気がする。 『まともに聴きもしないで弾こうとと思ってるなら、やめておけ。なんのために楽器があると思う。なんのために弾くと思ってる。それが分かんないってことなら、その曲に縁がなかったってことだ。癖になったら後悔するぞ』 私はなんだか悔しくて、でも友達が楽しみにしてるんだから、とかなんとか反論した気がする。 そしたら最後、なんて言ってたっけ。 『咲良、お前は、』 なにか聞かれたと思った、なんだったっけ。記憶のくせに、喉をつっかえて出てこない感じ。 一人思い出そうと動けないでいたら、ぼすっと軽い音が足元で響いた。 見上げたら、大人の女の人が立っている。 「あ!ご、ごめんなさい」 どうやら、お客さんが誤ってギターケースに足が当たってしまったらしい。 「あの、これ楽器…」 「ああ、大丈夫ですよ」 軽く蹴ったくらいだったらと、ギターケースに手を伸ばす。見慣れた傷の跡、側面のざらつき感。 見慣れた、ギターを弾く背中。 「…あ」 どくん、また嫌な音をたてる。 「え!?壊れちゃってましたか?」 どくどく、毒がめぐるみたいな音。手が細かく震えだして、浅い呼吸を繰り返す。 何やってるんだ私は。 お客さんがあたふたしてしまっているじゃない。 (いない人のこと、思い出すなんて) 大丈夫ですよって言わなきゃ。 (今、どうしてるのかな) そうだ、中身を、 (何を考えてるのかな) いや、その前にケース、 (いや、何も感じてないんじゃないのかな) 落ち着け、とにかく (小さな箱に、入れられて) ギターなら大丈夫ですよって。 (顔に布、かけられて) 気にしないでって。 (火の中で、燃やされて) 心配ありませんって。 (骨になって) 大丈夫って。 (埋められて) (私もいつか、あそこへ行く) 「大丈夫ですよ」 ビクッと、体を縮めこませる。頭上から、マスターの声が聞こえた。 「軽く足が当たっただけなら、ケースの中なので」 「え、でも…」 「咲良ちゃん、大丈夫だからね」 もうそろそろ閉店なので、お会計よろしいでしょうか。お客さんは私を心配そうに見ながら、ドアの方へと向かった。 マスターの話す声が、遠くで聞こえる。背中にびっしょりかいた冷や汗。意味もなく、つばを飲み込む。 気持ち悪い。床に手をついても、しゃがみこんでしまっても、逃げる場所がない絶望感。また思い出す。 「咲良ちゃん」 戻ってきたマスターは、腰が抜けた私の背中に手を置いてくれた。 物置場の前の段差に腰掛けて、とりあえず息を吸う。鼻の奥が縮こまって、頬にじわじわ、熱が戻ってきた。 ぼんやり見上げる空は、少し西へと傾き始めている。 「はーい、どーぞ」 裏口から出てきたマスターは、お店で見たことないマグカップを持って、私の隣に座った。 手渡されたそれは、ほんのり温かい。一口喉に流したココアが、緊張をほぐしていく。 「ごめんなさい」 「いいんだよ」 背中をさすってくれる、骨ばってる少しゴツゴツした手。少しぬるくなった風が、近くの川の匂いを運んできた。 「あの、お客さん…」 「もうすぐ教室の時間でしょ?誰もいなかったから大丈夫だよ」 優しい笑みを向けられて、ようやくほっと息が漏れた。 「ギター蹴られて、びっくりしちゃったの?」 「そう、ですね」 「そっかそっか」 マスターは、膝に片腕を乗せた。「貰い物だって、言ってたもんねえ」 「…あのギター、誰に貰ったものなの?」 びくりと、肩を震わす。さすってくれる手が、ゆっくりと止まった。 小刻みに揺れるマグカップの水面に、目を落とした。 「よほど、大事な人なんでしょう」 優しく、心配そうな目線を寄越してくる。昔から感じてきた目線と重なって、短く喉を鳴らす。 「…祖父の、です」 優しい目の奥の光。自分が一番大変なのに、久々に会ったら心配そうにする、あの視線。 ゆっくりと息を吐く。視界が滲んで、声が震えた。 制服に着替えて自室を出たら、喪服に身を包んだ母が泣いていた。 私はその姿を、白々しいとなじったのを覚えてる。 親戚は少なかったから、大きな会場での式は簡単に終わった。 両親は式後、早々に控室へと戻り、火葬場へ行く準備をしていて、私は一人、会場に残っていた。 たくさんの花に囲まれて、遺影が笑っている。今より髪が、まだある時のだ。 棺桶の中を覗いてみると、またすぐ起きてくれるんじゃないかと思うくらい、じいちゃんは自然に瞼を閉じていた。最後に会ったときより、頬がこけているような、顔が青白すぎるような、それでもじいちゃん本人に変わりは無いようで。 頬に手を伸ばす。ひんやりとした空気を感じて、すんでんのところで手を引っ込めてしまった。触らなくても分かるくらいに、冷たい。 火葬場へ棺桶を運んで、大きなオーブンのような機械に入れられていった。ガラス越しにはもう、じいちゃんの姿は見えず、そのまま灰になっていく。 焼き終わった後の姿は、脆い骨の塊と、燃えた花の残骸。お骨拾いをしながら母は肩を震わせ、横で父が神妙に遺影を抱える。 親からの温もりを知る前に、じいちゃんの骨の冷たさを知った。 お墓参りには何度も行った。何度も手を合わせて、じいちゃんがそこにいると信じてお供えをした。 『こういうのは、形だけでいいから』 けれど母はそう言って、私のお供えしたお菓子を袋に戻す。 『おじいちゃんも、見守ってくれているといいね』 そのくせ母は、空を見上げてそんなことを呟く。 私はよく分からなかった。結局は生きてる人の都合のいいように事を済ませているくせに、まるでまだ生きてるかのように呟いて涙ぐむ。 綺麗事ばっかり並べて、小さい時から私をじいちゃんに押し付けてたくせに。じいちゃんが病気になってから、一度もこっちに来たこと無いのに。それなのに死んでからあれこれと世話を焼いて、死んでから褒めて、涙を流して、ありがとうなんて言って、薄情な人だ。 無機質な、つるりとした墓を見やる。 もう生きてないこの人に、なにを言っても届かないのに。 ”届かないのに”?じゃあ私のやってることは? お骨拾いを思い出す。焼き立てで、骨自体はまだ熱かった。けど確かに冷たかった。無機質で、スカスカで、熱いのに温かくない。 じいちゃんの魂がお骨に残ってるなんて、お坊さんは言ってたけど。そう信じて、何度も声をかけてきたけど。 この姿で、魂が残ってるわけない。それ以前に、焼かれて灰になったんだから、意識があるはずもない。 天国から見守ってくれてるなんて、ただの幻想だ。 でもそれじゃあ、じいちゃんは今どうしてるんだろうか。 それからのことは、朧げで思い出せない。気づいたら自室から出てこれなくなって、来る日も来る日も布団の中で、必死に嗚咽を噛み殺していた。 死んだ後、人はどうなるのか。本当に天国という場所で暮らせるんだろうか。生きてるときと同じように過ごせるのだろうか。 思わず母の前で呟いた。そしたら、強く抱きしめられた。 『かわいそうに。おじいちゃんは私達のことを見ていてくれてるはずだよ。大丈夫。高校からは家族で一緒に暮らそうね』 違う。そうじゃない。何度話しても、伝わらない。私が知りたいのはあなたたちの思い込みじゃなくて、事実の話だ。諦めて話を合わせた後、急に我に返った。 誰も死んだことがないから、そんなの分かるはずがない。分からないから、思い込みに縋るんだ。 背筋が凍る。知らない世界は怖い。私もじいちゃんと同じように、いつか必ず死ぬ。 その後は?意識が遠のいて、その後。永遠に寝たまま?暗闇の中?誰もいない世界で、一人で眠り続けるの? そんな事を毎日考えた。遠い未来の終わりを想像しては、震えて胃液を吐き出す。 親戚を、母を散々心の中で馬鹿にして。当の自分は、死んだじいちゃんそっちのけで、死を怖がって。毎日毎日、恐怖で押しつぶされていく。 乾いた喉が、布団の中で自嘲した。 一番薄情なのは、私じゃないか。 「そのおじいさんは、もういないんだね」 こくりと、頷く。 マスターは、それ以上何も聞かなかった。ただただ、背中に手を置いていてくれた。 藤沢さんは、怖い。身近で死んだ人がいて、あんなに平然と生きられるのだろうか。自分に降りかかる恐怖に、一度だって怯えたことは無いのだろうか。 そもそもこの世にいる人達は皆、本当の意味で死を分かっているんだろうか。分かってないから、死を軽く扱えるんだろうか。 考えすぎて頭が痛くなってくる。せっかくほぐれてきた緊張も、ぶり返したように体が硬直した。 「ごめ、ごめんなさ、い。今日はもう帰、」 すると、マスターが力強く、私の肩を反対側から掴んだ。 「大丈夫、大丈夫だよ」 ゆすりながら、言葉を繰り返す。 「とにかく大丈夫だから」 何が大丈夫だと、言ってくれてるんだろか。言葉の真意が分からない。 また母のように、何か勘違いされている気がする。 食い込むくらいの力で、膝の上の拳を握る。 「何も、大丈夫とかでは、無いですよ」 「そうかもしれないね。でも、僕が出来ることは、これしかないから」 握った拳の上から、大きな大人の手が重なった。 「大丈夫。僕も、藤沢さんもいる。先のことは分からないけど、絶対大丈夫だから」 「一人じゃないよ」 マグカップを持った手の震えが、止まる。頭の中で、何度もその一言を反芻した。 心の中で、何かが溶け出していく。無意識に上がった肩から、徐々に力が抜けた。 「また三人で、いつものように話をしよう。いつもみたいに笑おう。咲良ちゃんの居場所は、ここにあるからね」 あたりがオレンジ色になっていく。 頭にのぼった血が、ようやくじんわりほどけていく感覚。 「…辛いよね。慣れてない土地に引っ越したり、顔なじみの人がいない学校に行くことになったりさ」 一緒に、空を眺めた。 「辛い時は、いつでも話していいんだよ。自分だけが我慢すればいいなんて、思っちゃだめだ。ここにも、新しい居場所を作ればいいんだから」 ぐっと奥歯を噛んで、涙をこらえた。視界のぼやけた先の世界は、穏やかな、夕焼け。 こわごわした気持ちが、夕焼けに溶けていく。 ゆっくり、重ねてくれた手が離れていった。 「落ち着いた?」 こくりと、うなずく。 「このマグカップ、かわいいでしょ?」 話題を変えて、明るくマスターが話す。テディベアが、大きなハートを抱いてるイラスト。 「…かわいい」 「でしょー!貰ったものなんだけど、くまがかわいくって、お気に入りなの」 「お店では、出さないんですか?」 「だって、かわいすぎるじゃない」 うふふ、乙女みたいに笑うのが素敵で、私も口角が持ち上がってくる。 「ほら、早くね。ココア、冷めちゃうから飲んじゃいなさい」 でかけてた鼻水を、容赦なく袖口で拭う。それを見ながらマスターは苦笑して、肩を掴んでた手を離して、私の頭をかき混ぜた。 ちびちび飲むココア。ぽつりと、溢れた一粒のしずくが落ちていく。 ようやく飲み終わったカップを、マスターに渡す。受け取ってくれた後も、教室が始まるまで、隣に座っていてくれた。 学校の先生も母も、私を気にかけて声をかけてくれた。 少し前の方から、手を伸ばして、引っ張ってくれる優しさを与えてくれた。 けど与えられるだけじゃ、私は両側から抱えきれなくて零してしまう。 立って立って。私達と歩こう。引っ張ってあげるからって。上から伸ばされた手だけじゃ、とても力が入らない。 そんな私を見つけて、隣に座ってくれたんだ。 私は心配されたかったんじゃない。誰かにずっと、「一人じゃない」って。その一言が欲しかったんだ。 6月。しとしとと、雨粒が落ちる。 4月に久々に教室に行ったときも、雨だったと思い返す。 傘を閉じてお店に入ると、見慣れた二人の、久々の談笑。 「こんにちは」 と言っても、もう4時半だ。 「あ、咲良ちゃん。今日新しい豆仕入れたんだけど、飲んでいく?」 「じゃあ、お願いします」 マスターはうきうきした様子で、奥へと引っ込んでいった。 「三吉さん、こんにちは」 何週間ぶりかの挨拶を返される。思い出して、顔が引きつった。 「こんにちは」いつもより離れた席に座った私に、藤沢さんは一瞬、不思議な顔をした。 「私も新しい豆、さっき飲んだところなんだ。いつもよりフルーティーで、香りが引き立っていたよ」 「そうですか、楽しみですね」 無愛想ぎみに返しても、藤沢さんは気にすること無く笑顔だ。そこまで気にする必要も無かったかと、少しホッとする。 「ギターの練習どうですか?」 緊張がほぐれ始めて、なんとなく話しかけてみる。今更席を変えるのは、恥ずかしかった。 「最近は休みがちだったけど、なんとなくコツが掴めてきたって感じかなあ。でも痛さはましになってきたかも」 「Fコードは?」 「それはまだ。やっぱり、難しいからねえ」 へにゃっと、溶けたように話す。Fコードは基本コードだが、初心者には難しいだろうなと、固くなってきた人差し指を擦る。 「Fができれば、なんだって弾けるようになりますよ」 「そこに来るまでが、きっと難しいんだろうなあ」 コーヒーカップをもって、一服。これ、やっぱりおいしいよ。 「三吉さんレベルになると、なんでも弾けるようになるのかな」 「いやいや、私なんてまだまだですよ。コードが押せても、ストロークが単調になっちゃって」 「謙遜しなくてもいいのにー」 「事実です!」 笑って言い返す。ああ、この軽さだ。顔なじみの無いクラスメイトや、気を使う母親もいない、この軽さ。教室が始まる前のここでの会話が、私は好きなのかもしれない。 「はい、これねー」 いつの間にかマスターが出てきて、目の前にことんと、カップを置いた。金縁の装飾のカップの中から、香りがふわりと、空気中に舞っていく。 「随分、二人共仲良くなったんんじゃないのー?」 「それが、今日は席を離されてしまって」 「あ!いや、ごめんなさい」 「いいのいいの。おじいさんの加齢臭、気にせず飲めるでしょう?」 マスターが声を上げて笑う。「おじいさんなんて、まだまだ全然お若いじゃないですか!」「何を言ってるんだマスターは」「じゃあ僕も『おじいさん』に入りませんか?」「君はまだ『おじさん』!」 「そっちの方が、なんか嫌ですよ!」 笑いながら、話が止まらない。いい年して、くだらない話ばっかりしている二人がなんだか微笑ましくて、私もクスクス、笑いが零れる。 「はあ、笑った笑った。そんなことより、冷める前に飲んじゃってよ」 藤沢さんも、いつもより少し離れた席で興味津々な顔をする。「では、」私は指先でそっとカップを持ち、一口流した。 「いつもより苦い…ですね」 「え、そう?淹れ方よくなかったかな」 「あ、マスターの加齢臭のせいで、味分かんなくなっちゃった?」 びっくりして横を見ると、いつにも増して、声を上げて笑い出していた。いつもの大人の雰囲気とは裏腹に、皺が寄ったおじいちゃんの顔。「ちょっと、やめてくださいよー!」そう言いながら、マスターも笑っている。 「咲良ちゃん、ちゃんとおいしいよね?」 「大丈夫ですよ、気にしてませんよ」 「そのフォロー、本気で言ってくれてる?」 「あ、でも、ちょっと香り分かんないかなあ」 「咲良ちゃんまで!」 冗談ですよ、言いながら私も笑いを抑えていた。あたふたするマスターが、なんだがかわいい。自分でも、ずっと笑ってるし。 同級生じゃない友達。大人の友達。笑いながら、そんな感覚に気づく。 ここが私の青春のように、キラキラ輝いている。 「あ、そうそう三吉さん。少し教えてもらえたらと思ったんだけど、」 「はい?」 笑いすぎて涙目になってる藤沢さんは、トートバッグから楽譜を引き出す。 「ここのコードチェンジね、拍数も少ないし指が動かしにくいんだ。コツがあったら、教えてくれるかい?」 指差したところは、バレーコードを使うパート。私も単純だ。この人と距離を取ったほうがいいと思ってたはずなのに、すっかり忘れて調子に乗っていた。 『藤沢さんにギター教えてあげてよ』 「いいですよ」 いつもの席に戻ろうと、私は立ち上がった。 「じいちゃん、これ」 縁側に足を放り出しているじいちゃんは、おっと片眉を上げてみせた。 「懐かしいの持ってきたなあ。でも、勝手に物置に入っちゃいかんと言ったばかりだろう」 「ごめんなさあい。戸開けたら出てきたんだもん」 「あそこの戸はな、おじいちゃんの大事なもんいっぱい入っとるんよ」 「だからごめんってえ」 つるりとした表面を撫でようとして、ぴたりと手を止めた。少しざらつく。 「手が白くなる」 「埃被っとったか。拭いたらまだ使えると思うぞ」 なぜだか慣れたようにひっくり返して、真ん中の大きな穴から、大きな爪のようなものをころんと出す。 一弦一弦音を調整した後、ギターを構えて弾き語りをし始めた。有名なよく知ってる名曲。 空中に埃が舞って、あたりがキラキラと輝く。 実物を見るまで「かっこいい」と思っていたものが、今日は「きれい」だと思った。かっこいいもきれいも同じように見えて、きれいは見た目の雰囲気だけじゃない、感じる全てが詰まってる。 思わず、夢中になっていた。 「どうだ」 「すごい、超きれい」 「きれいってなんだ。かっこいいじゃないんか、そこは」 苦笑いを浮かべて、じいちゃんは私の頭を雑に撫でる。ぼさぼさになった頭に手をやって、ギターを眺めた。 私も、「きれい」になりたい。 「じいちゃん、これ使わんならちょうだい」 ストロークを鳴らす右手。弦を押さえて、豆が潰れて固くなった左手。真夏に差し掛かった頃、藤沢さんの手は、日に日にギタリストの手になっていた。 「毎日練習続けてる成果ですね」 「そうかな?そう言われると、嬉しいねえ」 はにかんだように、藤沢さんは笑う。教室が始まる前、なんとなく一緒に練習することが多くなった。 桜がテーマの曲。昔から愛されている、昭和のフォークソングだ。 「いつもありがとうね。おかげで、発表会までに仕上がりそうだ」 「あ、これ発表会でやる予定だったんですか?」 「そうだよ」 パラパラと、何も気にせず楽譜をめくっている。3月ならまだしも、9月だ。半年に一回あるんだから、3月の発表会でもいいと思うんだけど。 不思議に思っていると、奥からひょっこり、マスターが顔を覗かせた。 「二人共、練習熱心だねー。感心感心」 ことり、いつもの定位置のカウンターに置いた。 「今日は暑いし、ジンジャーエールをどうぞ」 ワクワクと、両手でグラスを持つ。程よい生姜の風味が、口の中で淡く弾けた。 「どうですか?曲の方は」 「だんだん難しいコードにも挑戦できるようになってきてね、この曲なら、発表会ではいいものを披露できそうです」 「それは楽しみですねえ」 ニコニコ、マスターも笑顔になる。でもピタッと手を止めた。 「今練習してるのって、桜のテーマの曲ですよね?有名な」 「そう!この曲、奥さんが好きだった曲なんですよ。初めて弾き語りするなら、これがいいと思ってね」 「うーん…そうですか…」 腕を組んで首をひねるマスターを見て、藤沢さんが顔を曇らせる。 「ああ、いや、選曲は素敵だと思いますよ。ただ…9月の発表会なので、皆さん秋の曲を選ぶ方が多いんです。それぞれ曲選びは自由なので、桜の曲でももちろんいいんですが…」 マスターは言葉を濁すけど、私はなんとなく分かった。初心者が周りとは違うジャンルの曲をやるとなると、どうしても目立ってしまう。藤沢さんに無駄なプレッシャーを与えてしまうことを、心配してるんだ。 藤沢さんの方を見る。顎に手を当てて、うーんと唸った。 「季節感か…そこまで考えて無かったなあ…そうか、それもそうですね。すみません」 もしかして、この曲をやめる気なんだろうか。次の言葉が出る前に、思わず私は勢いよく手を上げた。 「私も一緒にこの曲やります!」 「ええ!?」 マスターが驚いた声を出し、藤沢さんが目を丸くする。 「ここ最近ずっと教えてたので、私も弾けます!」 「いいのかい?三吉さんは発表会用の曲、別に練習してただろう」 トートバックの中にある譜面を思い出す。流行りのバンドの、青春を歌った曲。 「私のはいつでも弾けますから。せっかく初めての曲って決めてたのに、もったいないですよ」 「じゃあ、咲良ちゃんは一緒にデュオしたいってこと?」 こくりと頷く。デュオってことは、一緒に二重奏をするということだ。 「…いいや、そこまでやってもらう必要ないよ。言ってくれるのは嬉しいんだけどね、」 藤沢さんは諦めたように言う。やっぱり、別の曲に、 「で、でも」 私は焦って、藤沢さんの前で立ち上がってピースを作った。 「二人でやれば、恥ずかしさは半分です!」 勢いよく喋ったせいで、店中に声が響き渡る。静まり返った店内で、お客さんが一斉に私に注目した。マスターと藤沢さんは、びっくりした顔で口をあんぐり開けている。 急に恥ずかしくなって、熱くなってきた顔をバッと下に向けた。 「す、すみません…」 居心地悪く席に座り直す。お客さんの視線が散り散りに離れていった。 二人は口を開けたまま私を呆然と見つめて、、、二人同時に吹き出した。 「笑わないでください…」 「いやあ、ごめんごめん。咲良ちゃんがあそこまで大きい声出すの、初めて見たもんだから」 「いつもクールな三吉さんが、あんなね…」 マスターが肩を震わせ、藤沢さんもクツクツ、体を折って笑う。どんどん顔がほてって、お店のエアコンじゃ効かないくらいに汗をかいた。 私は拗ねて、そっぽを向きながらジンジャーエールを流し込む。急に流れた炭酸が、喉にバチバチっと衝撃を与え、思い切りむせた。 「恥ずかしさは半分、ね…」 藤沢さんは、笑いすぎて出た涙を拭う。 「季節感が外れた曲だと、プレッシャーがかかるだろうってこと?」 「まあそうですね…僕もそれを懸念してたんですが」 「そうかそうか」 むせて二重に恥ずかしくて、縮こまる私の肩を藤沢さんがぽんっと叩いた。 「じゃあ、お願いしようかな」 「え、いいんですか?」 「何言ってるの、自分で言ったんでしょう。怖気づいて諦めるより、一緒に演奏する方がいいよ」 マスターの方も、「二人がそれでいいなら、そうしようか」と、優しい言葉をかけてくれた。 さっきとは違う意味で、じわじわと顔が熱くなっていく。 「私、頑張りますね」 「いやいや、頑張るのは私の方だから」 苦笑しながら、よろしくねと、手を差し出してきた。私はそれを、ぎゅっと握る。 そんな私達を、マスターは微笑ましく眺めている。 「二人共、本当に仲良くなったねえ」 そう言われても、もう気後れしなかった。どうでもいいことで笑ったり、楽しそうにギターを弾いてたり、言葉を受け止めてくれたり、私の中で像が結びついていく。 なんだか違うようで、似ている気がした。 思い出して辛かったものが、ふいに見えてくる。居心地のいい縁側の窓から、色んな景色が見えてくる、あの場所。 ジンジャーエールの氷が溶けて、カランと音をたてる。今年の夏は、暑くなりそうな予感がした。 お盆は毎年、家族で迎え火をして、最終日に送り火をするのが恒例だ。といっても今年はマンションで、それに結局休みが取れなかったと、母の謝りのメモが置いてある。父の方は無いが、言う必要が無いと思われてるのだろう。 去年までは二人でお盆を過ごしていたけど、今年は一人だ。何をしていたか思い出しながら買ってきた、きゅうりとなす。あと割り箸。 7月の最終日。かなり早いけど、作りたい気分に駆られてしまった。割り箸をきゅうりに突き刺す。最後の4本目を刺し終わると、携帯が鳴った。 喫茶店の番号。不思議に思って通話マークをタップする。 「咲良ちゃん?朝早くにごめんね」 「いえ全然。今週からお盆終わるまで休みですよね?」 壁掛けのカレンダーに目線を移す。確かお店も休みのはずだ。 「そうなんだけどね、暇だったら来ないかって、藤沢さんが」 「確かに暇ではあるんですけど…」 教室も、お店も休みの日。なんでだろうと考えたけど、藤沢さんもいるのなら、曲の練習のことだろう。最近は夏休みの課題に追われて、全然ギターに触れてなかったのも、気にしていた。 「そうですね。まあ…じゃあ行こうかな」 一人できゅうりとにらめっこしてるのもなと思い、特に考えず返事をした。 「そっか、分かった。じゃあね、来る前にお花買ってきてくれる?スーパーにあるの、何でもいいって」 「花?」 「そう。 今日真幌さんの、お墓参り行くんだって」 雲一つ無い、快晴。墓参り日和なんて言いたいこの空も、昼前になったら熱の暴力を助長させる。 こめかみから滴る汗を、必死に拭った。 「大丈夫ですか?」 「ああ、大丈夫です。ありがとう」 菊の束と線香を持つ私の前を、マスターと藤沢さんが一段一段、階段を上っていく。 やがて、ここだよと、藤沢さんが立ち止まった。割と小さめな細長い石。『藤沢家之墓』と達筆で掘られている。 「僕、実はお墓参り久々で。お恥ずかしいことに、何も分からないんですが」 「基本的にはお花とお供え物を供えて、線香を立てて両手を合わせる。それくらいかな。あ、三吉さん、ありがとうね」 そう言って、藤沢さんは私から菊と線香を受け取る。 花を差し込み、線香に火を付けた。生ぬるい風が、頬を撫でていく。 マスターは私達を見よう見まねで、手を合わせる。 山の上にある墓地だから、街の景色がよく見えた。駅からお店も、いつもは離れて感じる距離が、ここからなら一望できる。 「二人共、今日はありがとうね。真幌も喜んでくれてるといいんだけど」 「そうですね。せっかく教室に通ってきてくれていたのに、ちゃんと話す機会があまりなくて。色々知れたらいいなと思っていた矢先でしたから、お墓参りくらいしか出来ませんが」 「そんなことないよ。毎週休まず通ってたみたいだから、あの子なりに楽しんでたんだと思います」 無言の時間が続く。近くの森林から聞こえるアブラゼミの鳴き声、まとわりつく汗の感触、線香の匂い、夏の太陽の眩しさ。 「真幌、こちら三吉さん。少しだけ会ったことがあるだろう」 ふいに名指しされ、慌ててお墓に意識を戻す。 「ひ、久しぶり。真幌さん」 話しかける。生きてる人と、同じように。 もちろん返事は返ってこない。 「私にギターを教えてくれる、第二の先生。すごく上手。真幌は知ってるだろう」 これ、好きだったよなあ。袋から油の染みた紙のコロッケを取り出して、藤沢さんはお墓に乗せた。 煙が、糸を引くように、空を流れる。 お墓参りは、不思議だ。去年までじいちゃんも、おばあちゃんのお墓の前で、あれやこれやと話しかけ、お供え物を山ほど積んでいた。 もういないのに、まだ生きてる人みたいに話す。話しかけても、返事が来ないと分かってて、なんで。 去年は何も思わなかったことが、お腹の中で大きな塊を作っている気がした。 「咲良ちゃん、大丈夫?」 頭上から声が降ってきて、我に返る。 「今日暑いから、疲れてきた?」 「あ、いや、全然大丈夫です」 このわだかまりを吐き出したら、嫌な空気を作ってしまう。振り払うように首を振って、気持ちを落ち着かせた。 「二人共、見て」 藤沢さんは私達に、お墓の石の塔の真下を指し示す。小さくて、狭い場所。体を縮こまらせても、多分入れない。 「真幌はね、ここに入ってるんだよ」 石の引き戸の、中。光が差さない、暗い部屋。 こんな小さなところに、自分と年が変わらない子が入ってる。 しかも、骨。肉体は無いんだ。 「骨壷ってね、大事な部分だけしか取らないんだ。そしたら少ししか無いんだよねえ。真幌は特に、背は低い方だしさ」 骨壷。じいちゃんの時のお骨拾いを思い出す。 火葬場の従業員の人達から、一つ一つ骨の種類を教えてもらいながら壺に入れてた気がする。 歯、腰骨、肋骨、頭蓋骨の欠片。全部じゃなかった。 そう、全部じゃなかったんだ。 「真幌ちゃーん。先生ですよ。久しぶりー」 目の前の風景が遠くなる。暑いのに、背筋が冷えた。永遠に眠ってるなんて話じゃない。眠っている感覚なんて、きっと無い。自分が自分であることも、分からない。 今までなんとなくしか考えてなかったことが、現実味を増していく。 「私も長くないからね、真幌も寂しいと思うから、早くここに入ってあげたいけどね」 早くここに。 「何言ってるんですか。それを言ったら、僕もあと少しですよ」 「マスターはまだ若いよ。あと半世紀もあるんだから」 「半世紀なんて、生きてたらすぐですよ」 二人の会話が遠い。愛想笑いも、相槌すら、私は打てなかった。 早くここ入ってあげたい。なんでそんな簡単に言えるんだ。早く死にたいって、思ってるみたいに。怖くも無いような素振りで。 ふと気づいて、目の前に並ぶお墓を、一つづつ目で追った。この中にいる人達は、私が当たり前に感じているものを、何も感じずここにいる。私達には暑く感じる今も、セミの音も、線香の匂いも、目の前にある地平線まで続く青空も、何も分からない。 足元に伸びる影も、作ることさえできない。 「咲良ちゃん、疲れたみたいなので、早いですけど降りましょうか」 動けないでいる私を気遣ったのか、マスターが藤沢さんに声をかけた。 「ああ、三吉さん疲れたか。暑い日に連れ出してしまって悪かったねえ」 謝りながら、帰り支度を始める。ちょこんと置かれたお供え物が、回収されていく。 じゃあ帰ろうか、階段を降り始めた。 コロッケの入った、レジ袋。骨太い、血管が浮き出る皺だらけの手の下で、ゆらゆら揺れている。 「三吉さん、今日のお礼ね。ありがとう」 藤沢さんの車に戻る途中、自販機でスポーツドリンクを買ってもらった。熱中症だと思われたのかな。私はお礼を言って、勢いよく流し込んだ。汗をかいた体に、ぐんぐん染み渡る爽やかさと共に。 飲み込めない気持ち悪さが、喉の奥で激しくもがいた。 玄関のドアを開けると、いつも気まずそうな母と目が合う。気持ちを落ち着かせようと寄り道していたら、かなり遅くなってしまった。 「おかえりなさい。ごはんもう出来てるからね」 「うん、ありがとう」 チラチラと、伺うような目線。リビングへ戻ると、父が新聞を読んでいた。 机の上にあったきゅうりと割り箸は、もう片付けられている。 「あ、お盆の準備してくれてたのよね。ありがとうね」 うん、無言でうなずきながら、荷物を自室の外から投げ入れた。 「ただいま、お父さん」 「ああ」 顔も上げず、父はそれだけ口にする。いつもの返事だからと、おかえりの一つもない。 この家での生活は、半年たっても違和感ばかりが募る。夜遅くに帰ってしまった時のじいちゃんは、どんな顔をしていただろうか。 こんな遠い土地に私を連れてきたというのに、母も父も、私に興味が無いのだろうかと、毎日勘ぐる。母の妙な視線も、腫れ物を扱うように、いつも私を恐れているみたいだ。 雷を落とすじいちゃんを思い出して、私はまた唇を噛んだ。息を深く吸って、頭から消していく。 テレビをつけようと、リビングのリモコンに手を伸ばした。先にご飯をよそってからにしようと思ったが、静まり返るリビングは、なんとも気まずい。 雑に広げられた書類の上のリモコンを手にとる。電源ボタンを押しながら、おもむろに眺めてみた。きっと父の書類だ。保険関係かもしれない。 そう思って見たら、意外にも母の名前だった。いつもより興味を持って眺める。土地の、、、権利書? 「え?」 土地の、権利書。 岡山…じいちゃんの家の住所だ。 どかして、下に重なってた書類に目を走らせる。 0がいくつも並ぶ、一番上に書かれた、査定結果という文字。 「お母さん、これ…」 嫌な予感が当たったように、振り返って見た母は、お皿を音を立てて取り落としていた。 慌てたように走り寄ってきて、私の手の中のものを奪い取る。 「さ、咲良ちゃん。これはあなたに関係ないことだから、心配しなくて大丈夫よ」 「え、でもこれって、」 「大丈夫。大人の話だから、ね。ご飯できたよ。席に座って」 必死に話を逸らそうと、私の手首を掴んだ。土地の権利所、査定結果の紙、動揺する母。 大体の察しはつく。 「私には何も言わず、売ろうとしてたの?」 自分で驚くほど、感情の無い声が響いた。 「私もあの家に住んでたのに、大人の話って、卑怯じゃないかな」 「咲良ちゃん、あのね、」 「大人じゃないから、必要ないって思ったってこと?」 吐き出して、我に返る。私は今、何に対して怒ってる? 母が、小さく息を漏らした。 「仕方ないの。あの家はもうかなり古いし、咲良ちゃんはここに住んでるでしょ?相続はせず、そのまま売るのが一番いいのよ」 ごめんね。手首を握ってる手が、急に力を無くした。 「そうだよね、咲良ちゃんに何も言えなくてごめんね。ショックだったよね」 声が、震えている。私を見ずに、視線がさ迷っていた。 相続にはお金がかかるって、聞いたことがある。それに私はここに来てしまって、あの家で住むこともないかもしれない。なるほど、確かに大人の話だ。分かった。うん。了解。 自分の中で十分納得のいく答えだ。 「そっか」 なのに私は、その一言を絞り出すのがやっとだった。分かったよ。卑怯って言ってごめん。確かにそうだよねって、早くご飯食べようって、言えばいいのに。 燻って、煮えたぎらない何かを、丸め込むのに精一杯。 探るような目で私の顔色を伺いながら、安堵したように母は笑った。 「ありがとう。じゃあ、ご飯にしようね」 理解してくれただろうと、握る手をそっと離していく。綺麗に伸びた爪。長い指の、柔らかい手。 これが、ぬるさなのか。 「なんで、私に言ってくれなかったの」 じいちゃんだったらな。ふいに考えが頭をよぎって、ぽつりと呟いた。 「私、あそこにずっといたのに」 じいちゃんだけじゃない、私の家でもあるのに。十六というのは、口を挟めないほど子供なのだろうか。 俯く私の視線の先に、キッチンから戻ってきた足が見えた。 「これはね、あなたを動揺させないためだったの。ただでさえ、慣れない環境で生活が始まったのに、家のことまで抱える余裕無いんじゃないかと思って」 勝手に売られる方が、よっぽど嫌だよ。 「新しい場所でも友達作って欲しかったから、前の場所のことを思い出させたくなかったの」 それはあなたの都合でしょ。 「ずっと離れて暮らしてたけどね、ここで一緒に暮らすって決めたあなたを応援したかった」 一緒に暮らそうねって、そっちが言ってきたんじゃない。 私が決めたんじゃない、私が空気を読んだんだよ。 「でも、ごめんね。確かにお母さんが悪かったね」 ぎゅっと、何も感じない温もりで抱きしめられる。 「お母さん、これでも色々考えたの。こっちに慣れてきて、おじいちゃんのことを忘れられた頃に話すつもりだったのよ」 忘れた、頃に? びっくりして、思わず腕を振り払った。 「わ、忘れた頃にって、何。じいちゃんのこと、私が忘れる日が来るの?」 やっと口が動いた。母はしまったと顔を強張らせ、ごめんねと、再び私を抱きしめようとする。 怖くなって、私はその腕を叩き落とした。 「やめてよ、抱きしめて、うやむやにしようとしないで」 「違うよ。さっきは言い方を間違えてごめんなさい。でもね、違う。私は、おじいちゃんのことで苦しんでるあなたのことを想ってるだけなのよ」 「同じでしょ」 「ううん、違うの。そんなこと言わないで」 払おうとする私を無視して、無理やり腕の中に閉じ込められる。熱いのに、温かくない。 その冷たさ。 「大丈夫、怖かったね。おじいちゃんのことで、まだ気持ちの整理ついてないよね。辛いね。しんどいよね。 一人になって、かわいそうに」 腕が、強張る。母の一言が、体中の神経を麻痺させる。 一人になって、かわいそう。 私は、まだ、生きてるのに。 「咲良ちゃん?」 口が金魚みたいに、ぱくぱく動いた。 死んだら、一人になるんじゃないの? じいちゃんが死んだから、私は一人になったの? 生きていても、私は一人なの? 生きてるのに? 死んだって、同じ? 何も変わらないの? どういうこと? 「…咲良ちゃん、ごはんにしよう。ね?」 多分、母が言いたいのはそういうことじゃない。 分かってるのに、一言が、突き刺さって。 動けない。 どうしよう。 「はい、座って。大丈夫?」 腕をほどいて覗き込んでくる母から、顔を背けた。心臓が、忙しく鳴り響く。 どくどく、本当に毒が流れてるみたいだ。 「母さん。ご飯は、」 「うん、すぐ準備する。咲良ちゃん、座っててね」 母は焦った様子で、キッチンに戻る。凍りついている私の横を、父が通り過ぎた。 手が、冷たい。 涙が出そうなのに、声を出したら震えそうなのに、それを全力で飲下すしかできない無力さ。 私には、それしか許されないのだろうか。 父は隣で聞いてたはずなのに、何も言わず、箸の音だけ響かせている。 それがあまりにも無機質で、無情。 ふいに私に、目線を寄越してきた。 邪魔物を見るような目。異物を嫌悪するように、眉をひそめる。 視線で、体が裂けるように熱くなる。 あの日言ってもらえた、『一人じゃないよ』。 分からなくなってきた。 どうせ、死んだら必ず孤独が待ってる。 永遠に、ただ眠るだけの日々。暗い中、光が差すこともない世界。 生きるって、色も形も分からない恐怖が、いつか来るのを待つだけじゃないか。 私はもう、一人ぼっちだ。 死んだって同じだ。 私を心から理解してくれた、あの背中はもういないのだから。 過去も未来も今も、混ぜ合わせてもただの黒。なんの意味もない、死の先の、黒。 「藤沢さん、お休みの間、何かされてたの?」 「あ!それ、私も気になるわあ」 休憩時間、すり寄る坂下さんたちの真ん中で、藤沢さんが囲まれている。 「いやあ、ずっとギターの練習ですよ。あまり出かけることもないので」 「ええー、せっかくのお盆に、ご家族とお出かけとかされなかったの?」 「家には私一人なので。一人で出かけるのも、なんだかね」 へらりと、藤沢さんが笑う。坂下さんが一瞬、顔を強張らせたが、すぐ別の話題を振っていた。 それを遠くから横目に、私は無心にピックを弾く。 発表会まであと一ヶ月を切ったというのに、中々休みの間ギターを触れなかった。そのツケが回ってきたのか、前より微妙に、ぎこちなくなってしまった気がする。 家を出るギリギリの時間まで練習しても、感覚が元に戻らなくて焦ってきた。 指の豆を擦る。硬さが薄らいでる気がして、妙に落ち着かない。 対して藤沢さんは、教室が始まってからというもの、同年代の女の人達に囲まれている時間が増えてるようだった。 元々顔が整っていて、和やかに話す人だったけど、真幌さんのことで遠巻きにされていたらしい。 「ナスですか!ええ、とても好きですよ。そうめんのつゆの具に使ったりするんです」 「まあほんと!よかったわー、田舎の親戚からいっぱい届いて困ってたのよ。来週もってくるから、たくさん食べて頂戴」 「ええ、ぜひ」 にこやかな笑みを向けられた坂下さんは、うふふと猫を被って笑う。 最初は目を光らせていた坂下さんも、今では藤沢さんの一挙手一投足を褒めるようになっている。 まだ再開して二週間、先週は周りの扱いの変化に不思議がった私だが、それより自分の練習にかかりきりになっていた。 歌詞をぶつぶつつぶやきながら、ひたすら弦に指を滑らせる。持ちすぎて手汗をかいても、気にせずネックを掴む。滑りそうなピックを、必死につまんで擦る。 昔から、何か悩み事があるたびギターを弾いてしのいできた。 休みの間は課題に追われていて弾けなかったけど、弾けば吹っ切れられることを、私は知っている。 何度も何度も、そうやってきた。 この前の恐怖からは、これで書き消せばいい。 「はいダメー」 ふいに横から伸びてきた手に、ネックの弦を抑えられた。 「ピック弾きすぎ。下手したら弦切れるよ」 先生が厳しい顔で言う。注意されたのは初めてだ。気まずくなって、思わずネックを掴む手が、力なく膝に落ちた。 黒くなった指先。内出血か、青くなってる。 「弦も押さえすぎ。いいことだけどね、咲良ちゃん上手なんだから、そこまで力入れなくていいでしょう?」 弦も錆びてるねー。先生はしゃがみ込んで、まじまじと観察しながら弦を撫でる。 いつもかかさずやっていた手入れも、最近は雑だった。薄く埃を被り、表面はざらつく。一ヶ月で換える弦も、7月からそのまま。 「さては弦、換えるのさぼってるでしょ。僕のがあったと思うから、取ってくるね」 言い残して、先生は裏口の方へ向かっていった。ドアを閉める音が聞こえて、私は両手でピックをつまんだ。 久しぶりに人に怒られた気がして、少しだけショックを受けた。コネ回すピックの先端が内出血に当たって、短く息を漏らす。 『一人じゃないよ』 息を深く吐いて、天井を仰ぎ見る。 ダメだ。今の私は、人の善意を素直に受け止めきれない。 あの日も、動揺した私が邪魔で、とりあえず言ってみただけなんじゃないか。 父のあの冷たい視線。あれと同じ感情を持っていたんじゃないか。 誰かの温かみも、たった一人の冷たさで消せてしまうみたい。 「そうそう!真幌ちゃんね、コロッケ好きって言ってたわあ」 響き渡る声に、思わず振り返る。坂下さんたちの、あの話し声だ。 「商店街にあるでしょ?老舗のコロッケ屋さん。何回かここの帰りに買ってるのも、見たことあるのよ」 「ピンクの包み紙のお店でしょ?春限定だったっけ」 「あそこね、私が教えたんですよ。昔から好きでね」 「そうなのー!やっぱり!ああいうお店、藤沢さん好きそうだものねえ」 相変わらずよく通る声で話す坂下さん。あまり聞きたくないような話題に気づき、イヤホンでも差しとこうと、ポッケを探った。 すると、坂下さんの隣にいたおばあさんが、目を輝かせて身を乗り出す。 「じゃあ今日、真幌ちゃんのお土産に買っていきましょうよ。私らでさ」 …は。 体が、岩になったように強張る。瞬きを忘れて、探る手がぴたりと止まった。 「あー!それいいねえ!真幌ちゃんには、久しぶりにいっぱい食べて欲しいものねえ」 「そうよお」 「そんな…いいんですか?」 「まあまあ、私らが勝手に言ってるだけだからさ」 「ありがとうございます。…あの子も、きっと喜びます」 目を潤ませて、藤沢さんが輪の中心で笑う。 それが、もう昔のような私の記憶の中の彼女と目が合ったように見えた。 通い始めだった頃、愛想よくできない自分とは真逆に、楽しそうに談笑する彼女がどこか羨ましかった。 遠くから眺めて、私もあそこに混ざれたら、いくらかは楽しいかもしれないと。 寂しく眺める私の背中を、誰かがぽんと押した。 馴染みのある、大きな手。豆ができて、ごつごつする指の感触。 振り向けば、じいちゃんがニカッと歯をむき出しにして、笑って… 「そうだ!真幌ちゃんって、家ではどんな子だったの?」 大きな声に、我に返った。じいちゃんがいたはずの場所は、無地の壁。 「どんな子かあ…普通ですよ。ここでも変わらなかったんじゃないかな」 「そうー?あの子とっても愛想よかったけど、家でもよく笑う子だったの?」 「うーん、そうですねえ…」 心臓が波打つ。ズボンのベルトがお腹に食い込んで、その下で不穏な音を立てた。 「ああ、そうですね。最近のことは、深く知っている訳ではないんですが」 どうしよう、聞きたくない。急いでイヤホンを探し出して、耳に突っ込んだ。でも遮音性が低くて、嫌でも耳に入ってくる。 「毎日練習してたのは、よく音が漏れれて知ってました。ギターが欲しくてお小遣いをコツコツ貯めてたみたいなんですけど、娘がせっかくだからと高校の合格祝に買ってあげてて。年末かな?冬休みにギターを始めて、人が多いのは苦手だからって、前一緒に見つけたチラシを思い出してここに通い始めて」 耳鳴りと共に、藤沢さんの話声が入ってくる。わけもわからなくなって、私はギターを掴んだ。 嫌だ。聞きたくない。やめて。 強く強く、ピックを鳴らす。 「あんまり話す子じゃなかったけど、好きな人の話になると止まらなくて。アーティストさんで、その人のCDとかよく聞いてて。いつかその人のライブに行きたいって言ってたなあ」 左手が痺れてくる。それでも、なんとか繋ぎとめようと、必死に指を動かした。 「ここでの話も、少しですが聞いてます。よく可愛がられていたようで、とても嬉しかったですよ。帰りにコロッケを買って帰るのが好きなのか、ゴミ箱に包み紙が積まれてましたね」 汗ばむ手。滑らないよう、ピックを持ち直す。 「高校が始まるの、とても楽しみにしてたんです。軽音楽部に入って、好きなだけギターやりたいって。文化祭でライブするんだって。それで、どうしても自分の買ったギターも欲しくて、お小遣いは貯め続けてたみたいです」 弦が爪に引っかかって、白く削れた。それでも、気にせず鳴らす。 「でもね、一回楽器屋さんに行ってみたら、色々ありすぎてわけわかんないって目を回してましたよ。その、好きなアーティストさんのギターが赤いものだから、それと同じのが欲しいと。そしたら、10万もするんです。もうびっくり。こんなにギターって高いんだ!ってね」 ピックがついに弾け飛ぶ。指だけ、とにかく擦る。 「でもどうしても欲しかったみたいなんです。それで、やっとお金が貯まったって。いやあ、すごい嬉しそうでしたよ。あの顔」 ふはっ、漏れた笑い声。 一瞬目線を上げると、愛しいような寂しいような、丁寧な手つきでギターを撫でて。 瞬きが、止まった。 「…あっちでも、元気でやってくれてるといいんですけど」 バチン。 「咲良ちゃん!」 腕を引っ張られる。驚いて目線を上げると、先生が眉をひそめて、私の手元を見た。 片手には、換えの弦。 「弦切れてるよ」 弦… 今更頭を振って、確認した。5弦が無い。上の方が弾けて当たったのか、左手が赤くなっていた。 震わす私の手を無理やり剥がして、先生はポケットから出したハンカチをあてる。 「換え持ってくるって言ったでしょう。下手したら怪我するって、知ってるんじゃないの?」 「ご、ごめんなさい」 「消毒液持ってくるから、おとなしくしてなさい」 ため息をついて、ハンカチを巻かれた。腕の中のギターも、引きずり出される。 「今日はもう練習なしね。来週持ってきたら換えてあげる」 私に有無を言わせず、ケースのチャックを閉められる。そのまま、カウンターの方へ行ってしまった。 頭がぼうっとする。 「三吉さん、大丈夫だったかい」 右隣に、藤沢さんが腰を下ろした。ぎょっとして、思わず肩をすくませる。 抱える、ようやく使い込まれてきた、飴色に光るギター。 「弦が切れるところ、初めて見たよ。結構音が大きいんだねえ」 距離を取ろうと、気づかれないように座り直した。 「今日は熱心に練習してるみたいだったから、声かけられなかったんだ。最近、教室始まる前の時間も来なくなったよね。調子よくないの?大丈夫?」 「いえ、あの、全然」 「そう?それならいいんだけど…」 さっきの先生の声で集まっていた視線が、ようやく散り散りになっていく。不審な顔で眺める坂下さんと目が合う。けど、その瞬間そらされた。 「たまには休憩するのもありかもしれないね。今日はもうしないの?」 「…えと、先生が、来週弦換えてくれるって」 「そうか、でもそれまで練習できないのか。それは痛いなあ…。あ、近くの楽器屋さんに持っていったらどう?きれいに張ってくれるんじゃないかな」 「そうですね…」 俯いて、ピックを握りこんだ。手の平に食い込んで、痛くなるほど握りこむ。 この痛みが無くなったら、頭がおかしくなりそうだ。 生きてる、私は生きてる。大丈夫。 大丈夫、大丈夫。深く息を吐く。 ずっと顔を上げない私を、藤沢さんが心配そうに覗き込んだ。困ったような、白くなりかけた眉毛。 けどすぐ、「そうだ!」と表情を明るくした。 すると、抱えていたそれを私の膝に乗せた。 「え。ちょ、」 「これ、あまり高いのとかでは無いけど、よかったらこれで練習してよ」 にっこりと、笑みを浮かべられた。 「あの、藤沢さんの、」 「私は帰ったらやるさ。今は三吉さんが使っていいよ」 目の前でしゃがみ込んで、期待の目を送られる。恐る恐る、端っこを撫でた。温かい。表面に、まだ体温が残ってる。 「…どうかな?」 どうかなって、 「…いい、ギターだと思いますが」 「そう?よかった」 はにかむように、ほわっと笑う。 「あの子、かなり念入りに手入れしてたんだよ」 すとんと、血が落ちていく。 「ありがとうね。きっと真幌、喜んでくれてると思う。なんてったって、あんな素敵なギター持ってる三吉さんが言ってくれたからね」 指先から血の気が無くなっていく私をよそに、藤沢さんが「おーい」と周りを呼んだ。 「なにかいね、藤沢さん」 「三吉さんがね、真幌のギターで練習してくれるんですよ」 「へえ。じゃあせっかくだし、一曲弾いてくんないかしら」 坂下さんの、さっきとは打って変わった、期待の目。 「今度発表会でやる曲でもさ。なんだっけ、春っぽい名前のねえ」 「その曲じゃなくても、この子上手だから何でも出来るでしょ」 「じゃああたしの好きな曲、リクエストしていい?」 わらわらと、さっきまで藤沢さんと話してたおばあさんたちが、私を取り囲む。 「赤い真珠とか、どうかねえ」 「若い子がそんな古いの知ってるわけないでしょ」 「それもそうかあ…」 「藤沢さんのギターなんやし、藤沢さんがリクエストしたら?」 「私ですか?そうだなあ」 抱えるギターの表面が、冷たくなっていく。残ってた体温が冷めていく。 喉に何かがつっかえる感覚。飲み込んでも、どんどん気持ち悪さが貯まっていく。 「何でもいいですよ。三吉さんなら」 「それ言ってたらいつまでも決まらんわあ」 「じゃああれは?最近テレビでよくやってる…」 「ああ!あの流行ってる、青春の曲ねー」 坂下さんが、訝しげな顔をした。 「咲良ちゃん、何してるの」 煩わしいような、苛立ちを込めた目。あの日の、父の目。 「せっかく貸してくれたのに。もっと愛想よくできないの?これじゃ、真幌ちゃんが可愛そうじゃない」 真幌。 「そういえば、真幌ちゃんのギターで来られてるって、最初の時先生言ってたわね!」 真幌。 「とても大切にされてたのねえ。真幌ちゃん、本当にギターが好きだったのね」 真幌。 「じゃあ、真幌ちゃんが好きだった曲弾いてあげて!その好きなアーティストさんの!」 真幌。 「きっと喜んでくれるわよ」 「藤さわさん、だれか分かる?」 「ねえ、咲らちゃんも」 「早くはやく」 「ほら、さくらちゃん」 「さくらちゃん」 「ほら」 「ぴっくもちな」 「ねえ」 「はやく」 「どうしたの」 「ねえ」 「え?」 「あれ」 「なにしてんの」 「ちょっと」 「まって」 「さくらちゃん」 「え」 「ちょっと」 「そんなことしたら、まほろちゃんかなしむでしょ!」 「三吉さん…?」 ぼたり、涙のように落ちたそれは、汗だ。 噛み締めた歯の隙間から、荒い息が出入りする。 右手から、ピックが滑り落ちた。 「咲良ちゃん!」 お店の方から引き止める先生の声を振り切って、商店街を駆け抜けた。 まばらに行き来する人たちが、私の方をぎょっとして振り返っていく。 駅まで走りきって、一回立ち止まった。行き交う人達と、かすかに聞こえる電車の音。車のクラクション。 おぼつかない足をごまかすように、自宅の方面を目指してまた足を振り上げた。 風を切って、指に痛みが走る。 そんな小さな痛みを我慢して、走り続けた。 藤沢さんの、深く傷ついた、あの表情が脳裏に焼き付いて、消えない。 あの痛さより、この痛みなんてずっとマシだ。 あんな顔、見たくなかった。 して欲しくなかった。 指の痛さより、知りたくなかった。 でもそうさせたのは、私だ。 アブラゼミの音。 エアコンの寒さに、布団の中で身を縮こませる、午後9時半。 指のささくれを剥がす。何も食べてない胃と頭に、きしむ痛みが続く。 「咲良ちゃん」 部屋のドアが、控えめにノックされた。 「ごはん出来てるよ。食べたくなったら、おいで」 優しく、でも恐る恐るかけられた言葉。 返事も出来ず黙ったままでいると、父との話声が聞こえ始めた。 体制を変えて、仰向けになる。丸い照明。薄いカーテンから、夜の不思議な明るさが差し込む。 藤沢さんの、目を見開いた、えぐられたような表情。 身を返して、枕に顔を埋める。 手、震えてたよなあ…。 肩を上下させてた私の手を、ネックごと上から握ってくれた、あの手。 思い出して、爪を食い込ませるくらいに拳を作った。 見えてる景色が、映画を見ているような感覚になるときがある。 現実なのに、夢の中のような。私の見えてる世界は、本当に私が生きてる世界なのか。 私は今、生きているって言っていいのだろうか。 私が死んだら、この世界ごと無くなればいいのに。ずっとそう思ってる。 それでも、誰かが死んでも、世界が続いていくことを私は知っている。 胸の前で拳を作った。 人間の心臓のサイズは、自分の拳と同じくらいらしい。いつかの授業で聞いたことを思い出す。 こんなに小さいものが壊れるだけで、人間なんてすぐ死んでしまうんだ。 手がわななく。足が痺れる。熱を戻そうと、必死にこすり合わせた。 鈍い頭の痛さを感じて、上半身を起こす。なんだかもう、涙すら出てくる余裕も無い。 スタンドに立て掛けたギターに目線が止まる。真ん中から切れた弦が、頼りない線で伸びている。 傷ついた顔。目を見張る先生。周りの人達が、顔をしかめた。 …もう、あそこには行けないかもしれない。 あの人の、大切な人の物を、私が傷つけた。 しかも、それが亡くなった人の物で。 謝れる本人も、もういなくて。 謝ったって、絶対届かなくて。 どう顔を合わせていいか、もう分からない。 今更視界が滲んできて、慌てて口の中を噛んだ。 やめろ。今の私に泣く権利なんてない。 一滴ですら、零しちゃいけない。 私より、辛い人がいる。 血の味が広がっていく。 零れないように、上を向いて飲み下した。 チカチカ、何かが光って見えた。 「…え?」 溜まった涙を、袖口で拭う。ギターにもう一度、目を凝らす。 カーテンから漏れる、夜空の光。影を作る、手近のカーテンを開けてみた。 光の量が増えて、照らし出される。真ん中の空洞の、その奥。 無理やり力を入れた足をベットから下ろして、よろよろと歩み寄ってみた。 チカチカ…というより、チラチラ。ギターの内側で、光を反射して輝く。 空洞に手を突っ込んで、それをゆっくり剥がしてみた。思ったより薄くて、硬い。きれいに剥がれてくれる。 取り出してみると、よく見えないカピカピしたもの。一緒に、小さめのメモ用紙が貼られていた。 なんだこれ。もしかして、先生が貼ったものなのだろうか。 それにしては、紙の質感が違う気がする。それに、下のほうが雑に破かれてる。 ひっくり返してみたけど、暗くてよく見えない。部屋の明かりのスイッチを押してみる。 蝉の音が一瞬、消えた。 勢いよく部屋のドアを開けた私を見て、母は驚いた顔をした。 「あ、咲良ちゃん起きた?ご飯食べる?」 声が出ないまま、黄ばんだセロテープが付いたままの紙を膝の上に乗せた。 「何?これ」 「…あ、あの」 テレビから流れる、バラエティの笑い声。父の視線が、頬に刺ささって、上手く話せない。 スウェットの裾を、親指で伸ばす。 「…これ、おじいちゃんが書いたの?」 頷いた。 「そう…ずっと持ってたの?」 「違う。さっき、その、ギターの中に入ってるの見つけて」 「ギター?」 「うん」 「そっか…」 母はそれだけ言って、口を閉ざした。眉を寄せて、小さなメモ用紙を見つめる。 脈が早く波打って、汗ばんだ手を揉み合わせた。 「あの、私…私に、あの家を、下さい」 迷う必要は、無かった。 むしろ、こんなことで迷いたくない。 「咲良ちゃん」 困ったように、瞳を揺らす母の目。必死に、その目にしがみついた。 じいちゃんが望むなら、私があそこを守りたい。 私の帰る場所、あの縁側、空模様。思い出して、舌を噛む。 「…お願い、します」 深く頭を下げた。汗臭い匂いが、鼻をかすめる。 エアコンの寒さに、今更ながら鳥肌を立てた。蝉の音が、ずっと遠くから聞こえる。 「お願い、します」 もう一度。妙に頭が冴えて、興奮で唇が震えた。 テレビの音が、ぷつと切れる。 「…迷う必要が、あるのか?」 思いがけない方から声が聞こえて、頭を上げた。母に手のひらを向けてきたのは、父だ。母はおずおずと、手元の紙をそこに乗せた。 私と、同じことを思ってた? 父はその紙に目を走らせて、そして、小さく鼻息を立てた。 「お前、こんなものを遺言書だとでも言うつもりか?」 冷たい、あざ笑うような声。血の気が引く。 「これ、ただのTODOリストだろう」 「で、でもそこに書いてて、」 「遺言書っていうのはな、規定に則った書式で書いたものでないと。これは、裁判所でまず認められない」 「裁判所…?」 なぜ、裁判所の話になるのか。言葉を失い、片目が痙攣した。 「お父さんの遺産の相続権は、母さんだろ?お前が欲しいなら、贈与権であの家を貰うことになるが」 「あの、私は、売るのをやめて欲しいって、話で」 しどろもどろに答える私に、父は「金は?」と鋭い目を突きつけた。 「か、お金?」 「税金と、その家と土地の維持管理費」 紙を指で挟んで、空中を泳がせる。 「建物なんてあるだけで痛むし、植物は土地に生えて荒れる。それをお前が管理出来るのか?するだけの金がその時どきで用意出来るのか?中途半端にして、不動産からのクレーム対応は親頼りなのか?」 「バイト、とか」 「そんなことにかまけてる時間があるなら勉強しろ。なんのために学生やってるんだ」 それからな。まくし立てるように続く。 「売らずに相続する場合、その土地と家に発生する相続税を払わなければならない。お前が貰うにしろ、結局贈与税が発生する。それを払う金があるのか?」 「ちょ、貯金が」 「どれだけかかるか分かってるのか。それに、お前の口座の貯金をかき集めたとして、大体はこっちが出したものだろう。方針に反対するなら自分の金で出せ」 それとも、今の貯金が全て自分の金だと言い張るのか? 「…母さんが大人の話と言ったのは、そういうことだ」 母の方を見やった。俯いて、肩を震わせる姿。 何も言わず、ただこの時間が過ぎていくのを待ってるみたい。 大げさなため息が、聞こえる。 「もういちいち口出しするな。ここに住む以上、自由は許すが我儘を受け入れるとは言ってない」 我、儘。 こわごわ、父の方を振り返る。 「言うなら言うで、説得材料を作ってから来い。俺は疲れてるんだよ。なんの計画性も無しに話をしにくるな」 寝る。邪魔だというように、私の肩を軽く押しのけた。 テーブルの端に乗せられた、小さな私の希望。いとも簡単に、エアコンの風で落ちていく。 希望は、我儘だった。 あの人にとっては、ただの紙切れと同じだった。 話すらまともに聞いてくれない程、私の考えは甘いのか。 黄ばんだセロテープは、もう張り付かない。古びて硬い。 押された肩が、熱を帯びて震える。 痛い。 「なんだ」 不快そうに眉を寄せたその人は、手首を掴んだ私を睨んだ。 「…一緒に暮らそうって、そっちが言ってきたんじゃない」 あの日、言えなかった思いが零れていく。 「こっちに引っ越すことだって、そっちが勝手に決めんたじゃない。何も私の気持ち聞かないで、私が何も言わないことをいいことに。じいちゃんが病気になっても、全然来ないし。私のことも、仕事仕事って丸ごと押し付けて。何もかも、私達今までそっちの言うことに合わせてきた」 全身が、震える。千切りたいくらいに、指先が食い込んだ。 「もう押し付けられるほど、私は子供じゃない。なのに、また勝手に決めていくの?じいちゃんが残してくれた意志が、ここにのってるのに。無視するの?今まで反論されなかったから、今回も同じだって言うの? 私の考えが甘いのは分かった。でも私の意志が、そこに無いなんて言ってない。 …通り過ぎていかないでよ。話すらまともに聞かずに、見なかったふり、しないでよ」 声が涙で潤って、最後は尻すぼみに小さくなる。 「今無理でも、この先私が受け継いでもいいようにして欲」 「全部、親のせいか」 鼻でなじる。その息が、腕にかかる。 「じゃあ、引っ越しなかったら、お前どうやって生きてくつもりだった?お前らの生活費、今まで誰が稼いできたと思ってるんだ?先のことまで考えられないから、お前はまだ子供なんだよ。反論されなかったから決めてきたとは、体のいい言われようだな。お前らにとっての最善を決めてきたやったんだ。否定するなら、それは我儘になるだろう」 離せ。耳の奥で響いてるように、遠く聞こえる。 ここまで言っても、何も届かない。どんなに言葉を作って打ち返しても、相手には跳ね除ける気しか無いんだと実感する。 上からねじ伏せられる。怒りで頭が冴えていたはずなのに、強い対戦相手を前に身動きが取れなくなっていた。 力が抜ける、掴んでた手首が抜け落ちた。 私の手汗を、袖口で拭う。その人は最後に、こう吐き捨てた。 「思春期ってやつは、厄介だな」 振り返りざまに付いてくる視線。大きな背中。見慣れてた丸いものじゃない、大きな背中。 あの背中は、もう無いのに。 一生見れないのに。 最期に残した言葉を、発することも出来ないのに。 いつかの母の言葉が、頭の中でこだまする。 『こういうのは、形だけでいいから』 『おじいちゃんも、見守ってくれているといいね』 目の前の肩を、無意識に引っ張っていた。 思ったより軽い音が響くその裏で、母が小さく悲鳴を上げた。 手の平に伝わる熱は、燃えるように熱い。 「…お前、親に手を出すとは何事だ」 こいつの頬が、赤く腫れている。 「手を出して、何か変わるか?」 「うるさい」 上からしか物が言えない人間にする、精一杯の反撃だ。 「思春期って、一言で片付けられる程軽くない」 「それは、人を叩いていい理由にはなるって、そう言いたいのか?」 どこまでも、冷徹に告げる。 私の怒りは、この男の前では全て空振っていく。 「お前は、自分のことは棚に上げるつもりか」 私の心は焼き続けてるのに、対してずっと心の中で笑われてる気がした。 うるさい。ばか。幼稚な言葉しか頭の中で作れない。 お前なんか大嫌い。おまえなんかいなくなれ。 なんであんなたみたいな人間が生きてて、じいちゃんが死ななきゃいけなかった。 消えろ、アホ、クソ、 おまえなんかーーー もう一度、片手をかざす。 勢いよく振り下ろそうとした手を、今度は掴み取られた。 「お前も結局、同じことをしてるくせに」 言い放たれた、その一言。 「は?」 さっきまでの熱さが、一瞬冷える。 目の前の相手が、不敵な笑みをを浮かべた。 「あのギター。お父さんのだったんだよな」 どくん。 息が詰まった。 「反論されなかったから決めてきた、さっきそう言ったな。お前も反論されないのをいいことに、使ってるじゃないか」 熱かった手が、冷えてわななく。 「お父さんは使っていいって言ったものなんだろうな。絶対そうなんだよな。じゃなきゃ、言わないよな」 理論攻めとは違う、静かな、呆れたような半笑い。 重みに耐えきれなくて、掴まれた手首が離されて、落ちた。 そのまま、背中を向けてドアノブに手をかけている。 母が、声を殺して、啜る音。 落ちた手の重さ。 溜め続けてた、マグマの熱さ。 内側から引っ張られるような、燻る痛み。 働かない頭で、にらみすえることしか出来なくて。 冷静にとか、落ち着いてとか、分からなくなって、血が抜け落ちる。 出したらいけないって、思ってたけど。負けだって、思ってたけど。 とうとう、一粒こぼれ落ちた。 「死ね」 無視して、ガチャリと返事をされた。 暑くて湿る地面を、跳ねながら走る。途中で傘を閉じて、商店街を抜けた。 雑居ビルの奥から見える、小さなお店。 ドアの前まで行って、あ、と声が漏れた。 CLOSEの札が、雨に打たれてかたかた震える。定休日だったことを忘れていた。 先週電車に乗らずに家に帰ったから忘れてたが、昨日、イヤホンの片方を無くしてるのに気がついた。 あと1週間したら学校に行くまでの電車の時間が始まる。気まずい足を、なんとかここまで走らせてきた。 ドアノブに手をかける。押しても引いても、僅かな可動域。 入り口のポストに入れてくれてないか覗いて見たけど、何も入ってなかった。 別に今日でないと取りに行けない訳でもない。今週も教室はあるだろうし、明日になれば店も開いてるだろう。 治りかけのささくれに雨粒が入り込んで、染みていく。 今日は、もうしょうがない。 そう思えないまま、その場で立ちすくんだ。 日に日に不安ばかりが募っていくのに。早く用事を済ませたかったのに。 今日忘れ物だけ取りに行ったら、もう二度と行かないつもりで来た。 許されたとしても、私がこれから取り繕える自信がない。 『一人になって、かわいそうに』 かわいそうじゃなかった。私は、一人にならなきゃいけなかった。 『一人じゃないよ』 温もりに、甘えなければよかった。 転がる石ころを蹴りながら、来た道を戻っていく。 お昼前の油の匂いが、雨の臭さと一緒に漂う。 「…三吉さん」 止まった石ころの前で、水の音がばちゃりと鳴った。 老舗の、コロッケ屋の話を思い出す。昔から、好きだって言ってた。 足先から追って、目線を上げる。 夏真っ只中に、揚げたてのコロッケが湯気を立てる。衣が一欠片、静かに零れた。 なんだか気まずそうなその表情は、心配そうに瞳を揺らす。 「はい、どうぞ」 近くの公園の、屋根付きのベンチ。藤沢さんは2個買ったコロッケの片割れを、私に差し出した。 「…ありがとうございます」 受け取ると、隣に腰を下ろされた。ざくり、小刻みのいい音。 「今日は、いい天気だねえ」 曇り空を見ながら、藤沢さんは呟いた。 「私は、晴れた日の方が好きです」 「それは夏だからだよ。いつであっても、雨の日は特別さ」 かすかに口角が上がったその先は、どこまでも濁った白。 「…ごめんなさい」 言わなきゃいけなかった。 「ギター、本当にごめんなさい」 姿勢を変えて、藤沢さんに向き直る。 すると、少し困ったような顔で、私を見た。 「指の怪我は、大丈夫かい?」 視線の先のささくれ。隠すように、手を握りこんだ。 「私は、全然大丈夫です」 「そうかい。なにより、それが一番だ」 泣きたくなるような、優しい笑顔ではにかむ。居心地が、悪くなる。 「お…怒って、下さい」 疑問じゃない、願望だ。 「私、怒られると思って、来たんです。怒ってもらうために来たんです。許してもらいたくないんです。心配されたくないんです。他でもないあなたには、一番…」 藤沢さんの動きが止まった。 「ちょっと、待って」 「なんで私なんか心配するんですか。なんで笑ってくれるんですか。私がやったことは最低の行為で、自分のギターだったら一生恨む。絶対許さない。私、だって気づいてたのに」 浅く息を吸う。コロッケが、油染みを広げる。 「怒って下さい。もう二度と来ないでって言って下さい。…お願い。怒ってよ」 怒ってよ。お願いだから。 最低だって、なじってよ。 両側から頭を挟まれて、無理やり顔を上げさせられた。 「待って!三吉さん、知ってたの?」 驚いたような顔。半開きの口。 「誰にも言ってなかったのに」 私のことよりもびっくりして、唖然と目を見開いていた。 「…他は分からないけど、先生も多分気づいてると思いますよ」 「ええ!?なんで」 「見れば、そりゃ」 マスターとあんぐり口を開いた4月。錆びて黒い弦を思い返した。 換えたほうがいいですよって言ったのに、藤沢さんはあれからずっと同じ弦を張りっぱなしだった。 明らかに目に見えて錆びてたのに、分からない方がおかしい。 また言ってあげてもよかったけど、先生も気づいてて言わないんだと思っていた。 理由は、分かっていたから。 「でも、それを私が全部切った」 バチバチ、花火みたいに勢いよく響いていた。 力強く擦ったピックが、指先から抜け落ちた。 「私、分かってたのに。真幌さんと一緒に発表会出たいんだって、そのためにギターそのままで、使ってた弦も張り替えないで、切らないように慎重になってたって、知ってたのに」 「いや、それは私が悪かったよ。痛い思いをさせて申し訳ない」 「よくないですよ!」 挟まれた両の手を払いのける。 あの時引っかかったささくれ。食い込んで、剥がれたあの痛み。 「三吉さんは、そこまで悪いことはしてない」 「誰がどう言おうが、私が一番許せないんです!私だってギターが大事で、あそこに来てるみんながそうで。でも、藤沢さんにとっては真幌さんそのものだった。それを私が壊した!」 私が、今の彼女を、 「そうだよ」 真剣に私を見据える。 「私にとって、あのギターは真幌そのものだ」 両側から、腕を掴んで挟まれる。力強い痛み。皺だらけでも、大きな手。 「でも、『殺した』なんて絶対思っちゃだめだ」 息を呑む。同じように藤沢さんも、喉仏を動かした。 雨が、しとしとと音を変える。 ふいに見上げる。重たく淀んでいたのが、さっきより少しだけ白んできた空。 「…大体ね、何も知識が無かった私が良くなかったんだよ」 掴んでた手を、ゆっくり解かれた。 「3月から換えなかった弦が、9月までなんて普通は保たないんでしょう。どんなに気をつけていても。だから、三吉さんは悪くない」 「でも、」 残された物。そのものが、残してもらった最後の命で。 包み込むように触れて、ガラス細工のように優しく鳴らす姿が、この世と彼女を必死に繋ぎ止めようとしているように見えていた。 亡くなった現実を、恐れていた。見たくなかった。 後に続く言葉が、喉につかえて出てこない。 「…真幌のね、遺品を整理しようと思うんだ」 ぽつりと、空に呟いた。 「少し前に、教室を休んだ日があっただろう?あの日も、掃除をしないとなと思っていてね」 「遺、品」 「学校で使っていたものとか、部屋に置いてたものとか。でもね、なんだろうね。部屋に入った途端に、何もできなくなるんだ」 まだ生きてるのにって、頭の片隅で叫ぶんだよ。 「生きてるって、ずっと思いたかった。順当にいけば、必ず私が先に死ぬ。その通りにいかなかったなんて思いたくない。まだ私は、この子に何もしてあげられていないのに。自分の後悔を見たくなくて、あの子のギターにすがりついた」 膝の上のコロッケが冷めていく。それでも気にせず、藤沢さんは喋り続けた。 「私はね、薄情なんだよ。真幌は生きてるって思い続けて、最期を無かったことにしていた。そうすることで、自分とこの世を繋いでいた。そうするしか…出来なかった」 薄情。 私自身が思っていた言葉を、思いがけない人が口にした。 「お墓にいても、天国にいても、絶対どこかで生きてくれているって。いつかひょっこり帰ってくるんじゃないかって。私の側でなくても、どこかで必ず生きてるって」 つばを飲み込む音がした。 「この前帰った時、真幌に怒られるかなって、無意識に思ってたんだ。口数がただでさえ少ないのに、これ以上少なくなったらなあって。そこまで考えたら、急に現実に引き戻された」 『きっと真幌、喜んでくれてると思う』 空に言葉が、溶けていく。 「そう言ったのは、どういう意味だったっけ。帰ってお土産話をして、喜んでくれる顔を思い出して。ああ、あれは随分前に見た顔だった」 「…やっぱり、怒ってたんですよね」 「怒ってたっていうより、ショックだったかな」 だけどね、言葉を切って、私に向き直る。 「あの時弦を切ってくれて、助かったとも思ってるよ。繋ぎ止める弦が無くなって、しばらく放心してたけど。でも、思い出したんだ。死んだ人をここに留めちゃいけないって。生きてる人が、勝手なことしちゃいけない。送り出さないといけないってね」 思い、出した。 考えてることを当てたように、藤沢さんは小さく笑った。 「奥さんを亡くしたときも、同じ状態になってたんだよ」 あの時引き戻してくれたのは、真幌の存在だったんだ。 細く息を漏らす。 「もう、一人だったから。長らく時間がかかった」 「あの、でも、真幌さんのお母さんは」 お葬式の景色を、必死に思い出す。 「娘はね、家にはいないんだ。前に離婚がきっかけでここに越してきたって言ったでしょう。それから体調を崩して、入退院を繰り返してる」 もう油がへたったコロッケを、藤沢さんはひとかじりした。 しとしと降り続ける雨が、私達の間を埋めてくれている。 藤沢さんは、一人だった。 誰もいない家の中、必死に戦ってきた。 なんとか自分を繋ごうと、立っていようと。 そのやり方が、どうだったとしても。 死ぬことばかり怖がっていた自分が、馬鹿馬鹿しく思えてきた。 死んだという事実が受け止めきれなくて、まだ生きてて欲しいと暗示をかけて。 そんなの当たり前じゃないか。 大事な人だからこそ、死んでほしくなんてなかった。 この世で死んだその先のことなんて、分からなくても、どこかで生きてて欲しかった。 無数にある幸せの可能性を、まだ捨てきって欲しくなかった。 大事な人だからこそ、生きてるように振る舞っていたいんだ。 そうであって欲しいと、願いを込めて。 「そんなの、薄情なんかじゃないです」 死ぬという事実しか見えてなかった、何も見えてなかったのは私だ。 怖がって、まともに弔うことすらできなかった。 「私のギター、じいちゃんのもので。ずっと『貸してもらってる』って思って使ってたのに、じいちゃんが死んだら、もう自分のものとして使ってた。何も、文句言われないのをいいことに」 私の手の中は、もう冷めきっている。 「私みたいなのを薄情って言うんです。大切な人が死んだのに、自分も同じように死ぬんだよなって、初めて実感したら、それしか見えなくなってた。じいちゃんが死んだとか、もう会えないとか、そんなことより自分が死んだらってそれしか考えられなくなった。…じいちゃんのもの、勝手に使ってる癖に」 孫を亡くしたのに前向きに生きてる藤沢さんが苦手なんじゃなく、死ぬことに怯えない藤沢さんが怖かった。 「親が、じいちゃんの家を売ろうとしてたんです」 話が変わって、藤沢さんは少し目を瞬いた。 「岡山の?」 「はい。それも、黙ってるつもりだったみたいで。あの時は私、じいちゃんのために怒ってると思ってたんです。死んだ人は何も言えないのに、勝手に決めちゃってって」 ポッケからパスケースを出して、その中からじいちゃんの筆跡を探す。 引き出したそれを、藤沢さんに見せた。 「これ、ギターの中から見つけたんです」 「ギターの、中?」 「内側にセロテープで、貼り付けてて」 流れた筆跡で、四つの箇条書き。 きっと、死ぬ前にやりたいことなんて、リストにして作ってたのかもしれない。 その内の三つは、上から赤ペンで横線が引かれてた。 「それ見つけて、母に頭を下げに行ったんです。そしたら父が横から、金はあるのかとか、管理出来るのかとか、考えが甘すぎるって、言ってきて…」 『死ね』 自分の口で吐き捨てた苦さが、鮮明に蘇る。 「腹がたった。掴んだ腕、千切ってやりたいくらいに」 ため息をつくように、息を吐く。 「でも今更言える立場じゃなかった。結局は生きた人達に都合のいいように、死人を扱ってって。私も同じことしてたのに。じいちゃんのギター、勝手に使ってたのに」 私を追い詰めて、苦しませた父に死ねって言った。 でもあれは、自分にそっくり返ってくる。 してきたことに気づかないで、開き直って生きてきた自分に。 死ぬことを怖がってきた自分に。 言葉の重みを分かってたはずなのに、簡単に口からこぼせてしまったんだ。 なんだか寒くなってきて、身を縮こまらせる。 不意に、するりと私の手元から紙が引き抜かれた。 「…これ、下の方破れてるよね」 藤沢さんが掲げたTODOリスト。一番下の、赤線の引かれてない項目が指の隙間から覗いてる。 「多分、雑にノートから破ったんだと思います」 「この下って、何も無かったのかな」 「え?」 考えても見なかったことを呟かれて、思わず顔を上げる。 「横幅の長さからして、メモ帳くらい?ここから下は、何も書かれてなかったのかなって」 「さあ…どうだろう」 まじまじと紙を眺めていたら、藤沢さんがどこかイタズラっぽい笑みを浮かべた。 「この下の部分、探してきたらどうだろう」 「はい?」 破れた、切れ味の悪そうな端。 「夏休みが終わるのももうすぐだろう。なら、早いほうがいい」 「いや、ちょっと待って下さい」 引っ越すときに、身の回りの持ち物は大体運んできたはずだ。 探すんだったら今のマンションには絶対無い。だったら、じいちゃんの家にしか。 「ここから岡山って、どのくらいかかるかな」 やっぱり!スマホを取り出す藤沢さんに、私は飛びついた。 「岡山まで行けってことですか!?簡単に言わないで下さいよ!」 「交通費が無いってこと?」 「いや、そうじゃないですけど」 下の部分を探すって、どういうことだ。 じいちゃんのことだから、多分何も考えてない。白紙の紙が見つかるか、あるいはもう捨てたか。 そのために、じいちゃんの家に行くの? 「早いとこ明日でいいんじゃないかな。席も空いてるみたいだし。それにしても、新幹線一本で3時間あれば着いちゃうんだね。意外と早いんだなあ」 ここからなら電車乗って、その後新幹線…ぶつぶつ言いながら、器用に指先でスクロールしていく。 「藤沢さん。3時間って、結構きついですよ。暇持て余しちゃいますよ。大体そこからまた電車とバス使わないと着かないし、途中で疲れちゃいますよ。すごい長くなりますよ」 「何言ってるの。三吉さん一人で行ってきなさい」 「え?一人で!?」 愕然とする。いや、付いてこられても困るけど。 電車は乗り慣れてきたとはいえ、新幹線に一人で乗ったことも無ければ、田舎で交通機関をまともに使ったことが無かった。都会住みで毎日利用してきた藤沢さんとは、訳が違う。 「行っても意味無いかもしれないじゃないですか!なのにそんな、」 「意味が無いから行くんだよ」 スマホから顔を上げず、それだけ呟いた。 「よし」 満足そうに、藤沢さんはスマホの画面を私に向けてくる。 「朝からになるけど、これなら昼前につく。その後の電車なんかは、君に任せるよ」 8時前の、東京発の新幹線。 有無を言わせない行動に私は戸惑った。 「意味が無いから行くって…」 「ああ、間違えた。意味が無いために行く、が近いかな」 意味が、無いため? 頭にクエスチョンマークを飛ばす。 藤沢さんは掲げてたスマホを、ゆっくり下ろした。 「おじいさんは、まだ三吉さんに伝えれてないものがあると思う」 「なんで、そんな簡単に言えるんですか?」 「だって、このリストを残しているんだ。しかも、ギターの内側に貼っとくなんて、普通しないでしょ?」 挟んでた紙を、私に手渡す。じいちゃんの、見慣れた字。 「意味が無くても、それはそれでいい。それが一番いいけど、そうじゃなかったら。この先どこかで気づいた時、後悔するのは三吉さんだ」 「でも、大体の遺品整理は親がしてくれてて」 「じゃあ、よく思い出してみて。親御さん達が分からないこと、ずっと一緒に生きてきた三吉さんなら分かると、私は思う」 目線を外した藤沢さんの横顔を、見つめてみる。 視線の先の屋根の外側、雨が気づかぬうちに止んでいた。ただの、白んだ空になっていた。 「結局は生きた人達の都合のいいように、死人を扱ってって。さっきそう言ってたね」 私をまっすぐ見据える、真剣な目。 「伝えたいものがあるかもしれないのに、それを三吉さん達の都合で伝えられなかった。おじいさんのためにも、三吉さんにとっても良くないんじゃないかな」 「いや、でも何も無いと思うんですけど…じいちゃん、そんなタイプの人でもなかったし」 「それならそれで、胸を張って帰ってくればいいさ。収穫があるとか、意味とか、そんなに期待する必要は無い。ただ、見に行くんだよ。そのつもりで。そしたら、何か見えてくるかもしれない。おじいさんが本当は何を考えていたのか、何を見ていたのか。そっちの方が、重要かもしれないね」 『最後に残した言葉を、発することも出来ないのに』 頭の中で反響する。 私、父に怒った時もそう思った。 「私が、見つけてあげる?」 まだ、チャンスがあるのかな。 あの家に、あの縁側に。 じいちゃんの言葉が、まだあそこに。 「真幌はね、唐突に死んだんだ。だから何を考えていたのか、私のことどう思ってたのか、てんで分からない。でも、彼は死を分かっていたから準備できた。君と沢山話もできた。出来る限り、拾ってあげたらいいと思う」 雨が、またぽつぽつと音を立てる。 誰にも、明日生きてる保証なんて無くて。 どこで、何をしてて死ぬかも、その時にならないと分からなくて。 それでもじいちゃんは残してくれた。 近々死ぬ未来を見越して、私に教えてくれた。 握る紙が、湿気を含んで柔らかくなる。 小さな私の希望は、まだこの手の中にある。 「私、帰ってみます」 発したそれは、思ってたより遥かに重かった。 「うん」 すると、藤沢さんは勢いよく伸びをした。 「じゃあ私はその間、真幌の部屋を掃除しておこうかな」 少しスッキリして、それでも緊張したような面持ちで言う。 藤沢さんは家で遺品の整理。私はじいちゃんの家で探しもの。 違うようで似ていて、でも覚悟を決めないと出来ないものだ。 紙を、目の前で掲げてみせる。 もしかすると、私達の自己満足で終わるかもしれない。 何もないかもしれない。 それでも、このまま見逃す訳にいかない。 ずっと同じことを、繰り返していても駄目なんだ。 「三吉さん、膝の上のコロッケは大丈夫?」 「あ、ごめんなさい。話してたら夢中になって忘れてて…」 「そうかそうか」 カラカラと、藤沢さんは笑う。急いでかじったコロッケは冷めきって、むちゃりと音が口の中に広がった。 頬張りながら食べきって、包み紙を折り畳んだ。 それではと、私は傘の柄を持ち上げる。 「三吉さん」 藤沢さんが、私を呼び止めた。 「君が悩んで探してる間も、私はこっちで頑張ってるから。だから、何も気兼ねしないで行ってきなさい。私も、一緒に頑張るからね。 一人じゃないよ」 優しく、力強い声で、背中を押してくれる。 「いってらっしゃい」 「…いってきます」 柄を押し上げると、バンっと気持ちのいい音が、雨雲の下響き渡った。 「そんな意味ねえことやめとけ」 気が向かない、そう言ったらじいちゃんが、きっぱりと言い切った。 「まともに聴きもしないで弾こうとと思ってるなら、やめておけ。なんのために楽器があると思う。なんのために弾くと思ってる。それが分かんないってことなら、その曲に縁がなかったってことだ。癖になったら後悔するぞ」 あんぐり開いた口を、無理やりつぐむ。 「いっちょ前のミュージシャンみたいなこと言わんでよ」 「なんだその反応!俺だってなあ、ためになる感じのこと言ってみたっていいだろう!」 「はいはい」 窓の外に目を向ける。景色がゆっくり、横に動いていく。見慣れた風景。 「まあでも、言ったことに嘘はねえ。そんなことせんで、自分のやりたい曲やれや」 「簡単に言わんでよ。友達もみんな楽しみにしてるし、なんとなく気が向かないって、それだけの愚痴じゃんか」 じいちゃんは、呆れたように顔を歪ませる。 「お前なあ、大体俺のギターやろが」 「ずっと貸してくれてるじゃん。だったら、受験受かったらギター買ってよ」 「そんなん言うとるやつに自分だけのギターなんぞ、まだ早い」 まただ。ギター道というのはこういことだ!なんて豪語しておきながら、欲しい言葉は一向にくれない。 「もういい」 ぷいと、反対側に体を向けて座り直す。ポッケからスマホを取り出して、意味もなくいじった。 「私、みんなの期待に応えようって思って相談したのに。なんで頑張れって言ってくれないの?」 涙が溜まる声になる。ちょっとだけ、怒られた気分だ。 今日は笑って送ってあげようと思ってた気持ちが、みるみるうちにしぼんでしまう。 「じいちゃんのバカ」 子供っぽいような、小ちゃな反撃。 背中の向こうで、じいちゃんは大げさなため息をついた。 「咲良、お前は、」 生ぬるい風が吹き付ける。 8月も後半となればまだましだと思っていたけど、日差しは私の額を着実に焦がしていた。 息をつく。 「着いた…」 電車と新幹線。その後また電車に乗って、それからバス。そして歩き。 半年ぶりの家は、引っ越す前と変わりなく建っていた。 裏山から香る草木の匂いが、あの頃の記憶を引っ張り出していく。 思い出にふけっていると、スマホから着信音が目覚ましく鳴った。 お母さん、と表示された画面。迷わず赤いマークの方をタップする。 朝置いてきた手紙だけじゃ、大騒ぎになってるかもなと、誰ともなく苦笑した。 けど、明日には必ず帰るとも書いてきた。だからそんなに気にしなくてもいい。 怒られるのか、呆れられるのか、、、それも覚悟の上で来た。 自分に言い聞かせるようにうなずいて、雑草の茂る庭を一歩、踏みしめた。 古すぎて何回鍵を入れても、どうやったら開くのかまだ分かってない。やっとのことで玄関ドアを横に引き開ける。 途端、中から埃が舞って、問答無用で鼻へと入り込む。 一人でむせかえっていると、壁に吊るしてある鏡と目が合った。 輝きもなく、汗だくの私をかろうじて映す。 木の匂い。土のような、お茶っ葉のような、懐かしい匂い。 誰かが入って荒れた様子もない。きちんと掃除すれば、一応は元に戻るかもしれない。 「よし」 荷物を背負い直す。 土間に靴を脱ぎ捨て、小上がりの廊下へと足を上げた。 そのまま奥へと進んで、突き当りの部屋のドアを引く。大きな机に、座椅子。テレビ。向こう側の、横に広いキッチン。壁掛けのカレンダーは、今年の1月で止まっていた。 ざらつく机の表面を気にせず、どさりと上にリュックを下ろす。 チャックを開けて、中から道具をどんどん引きずり出した。 途中のホームセンターで買った、手持ちサイズのほうきと雑巾10枚セット、ワイパーのシート。家から持ってきたワイパーの棒。片手に持ってた青いバケツ。 せっかく来たんだ。掃除をした方が、探し物も、きっと見つかる。 バケツの持ち手を握りこむ。気合を入れて、裏口へと向かった。 洗面所の鏡をこすって10分。なんとか輝きを取り戻した。 口角を持ち上げて笑ってみせる。半年前より髪が少しだけ伸びて、背も心持ち高くなっている気がした。 鏡の両横の棚のドアを開けてみる。こうすると、三面鏡になる。 棚の方も掃除しようと、覗き込んだ。側の小窓から西日が差し込んで、眩しく目を凝らす。 二段ある棚の上には、電動歯ブラシのヘッド部分のスタンド。3つの内の2つが埋まってる。 スタンド部分に貼られたシールの、左から『じい』と『わたし』って、下手っぴな字。 その隣に伏せて置かれた色違いのコップ。青が『じい』で、黄色が『わたし』。 思わず笑みを零しながら、下の段に目をやった。 銀色に光る、『じい』のひげ剃り。 懐かしくって、手にとってみた。しっくりくるサイズ感。夏が始まる頃、私もこれで腕の毛を処理してた。 バレると怒られるから、入浴前に、お風呂場でこっそり… 記憶を数珠つなぎにしてると、根幹の部分を一気に掘り起こされる。 『じい』と『わたし』。これ書いたのって、いつだっけ。 おぼつかない筆使いの、大きな文字。 あれは、まだ小さかった頃のことだ。 『じいちゃん、おひげそったのね』 『おう。これからはイケてるおじいちゃんになるために、どんどん剃っていくからな』 『でもさあ、こんなむずかしいじだと、じいちゃんのかわかんない』 『難しい字とはなんだ。これはじいちゃんの名前やぞ』 『じいちゃんだから「じい」ってかこうよ。おともだちのなまえの「ちゃん」でしょ?』 『うーん…まあ、そうか。でも大きくなったら、自分の名前に書き換えるからな』 『はあーい!』 『じゃあお前も、自分のに「さくら」って書いときなさい』 『まだおなまえかけないんだけど』 『あ?そうだったか』 『でもね、「わたし」はかけるよ!ままにおてがみかくときにね、おえかきのしたにわたしってかくんだよ』 『おお、そうか!お前すごいなあ』 雑に撫でられた感触が、まだ髪に残ってる気がして、頭に手をやる。 自分の名前に書き換えるって言ってたのに、結局あれから十年間、ずっと『じい』と『わたし』だったんだ。 洗面台の、下の引き出しを開けてみた。色とりどりのタオルが、丁寧に丸めて敷き詰められている。 けれど、マジックの滲んだ『じい』と『わたし』が入り混じって、妙に全体が黒い。 無意識に使ってたから忘れてた。 じいとわたしが、ここでの生活の始まりだった気がする。 キッチンの蛇口を、雑巾で必死に磨く。 つるりとしたシンクの上の、赤と青の蓋の瓶。 『じいちゃん、それ塩だよ』 『しお!?砂糖だろこりゃ』 『赤いふたはさとうなの。早く取って取って!』 『まあまあ落ち着け。誕生日は終わるまでまだ時間ある。夕方にはなんぼ何でも、ケーキ出来るだろ』 『だからそれ塩!ねえちょっと待って、勝手に入れないで!』 『え?あ…』 リュックを下ろして机を拭く。 側にある棚の横。二股に分かれた、ボコボコのプラスチックの棒がぶら下がってる。 『ん?なあにこれ』 『それな、納豆がふわふわになる魔法のかき混ぜ棒なんだよ。ちょっと貸してみ』 『うわあ…!すごいね!おはしのときより、すっごくふわふわ!』 『だろー?食べてみるか』 『うん!』 『よーし…って、お前。ふわふわのとこだけ食うなよ。豆も食べんさい、豆』 縁側の側のちゃぶ台。 一箇所、目を凝らすと分かるくらいの、黒い染み。 『…あ、ごめんじいちゃん』 『だあから言っただろ!ギターにアイスが落ちたらどうするとこだったんだ!』 『ご、ごめんって…そんな怒らんでよ』 『あとお前、それ俺が楽しみにしとったアイスなんやぞ!』 『えー?じいちゃんカップアイスの方が好きって言ってたじゃん』 『これは期間限定のアイスなの!去年買えなかったやつの!』 『ミーハーだなあ…あ、ちょっとこれ、染みになっちゃう。雑巾取ってくる!』 玄関脇にある、青い模様の大きい壺。 中を覗くと、傘と一緒に、網目状に埃が絡んでた。 『こおら!今何時やと思っとる!』 『だって、もうちょっと遊びたかったから…』 『8時やぞ、8時!暗くなる前に帰ってこんかい!』 『楽しかったんだもん…ちょっとくらいいいじゃん!』 『いいわけねえだろ!明日も学校だぞ!』 『…この、く、クソジジイ!』 『はあ!?ちょ、お前傘振り回すな!』 階段を登りきって、足を止めた。 透かしガラス。一間しか無い二階の部屋の、この襖が好きだった。 『じいちゃん、これ使わんならちょうだい』 『これ?…いや、これおじいちゃんの大事なギターだからなあ。あげるのは、ちょっと』 『ええー?でも、ずっと使ってなかったんでしょ?』 『これはな、おばあちゃんが誕生日に送ってくれたギターなんだよ。だからなあ』 『えーー…うーん、そっか。分かったよ…』 『そんなしょんぼりするなよ…うーん…じゃあ、あげれんけど貸しはしてあげる』 『え、本当!?』 『貸すだけだからな?上手くなったら、自分の買ったらいい』 『うわあ…!やった、ありがとう!』 引手に手をかけてみて、また引っ込めた。 蒸し暑さの汗なのか、怖がってる汗なのか、背中を伝っていく感触。 勢いでここまで来てしまったとはいえ、いざ開けようと思うとブレーキがかかる。 ここを開けると、それこそ決定的になってしまう。じいちゃんが生きてたことそのものが。 亡くなった人が、この世にいた事実。死んでしまっても、時は止まらず進んでいく現実。 もう一度、引手に手をかける。 他の部屋は掃除し終わって、当時のまま残っている場所は、もうここしか無い。 だったら、探しているものも、ここしか可能性は無いんだ。 指先に力を込める。 大丈夫、大丈夫… 『一人じゃないよ』 そう、一人じゃない。藤沢さんも、きっと頑張ってる。 だから、大丈夫。 腹を括って、引手を勢いよく引っ張った。 目覚ましい、着信音。 襖は、下のレールに引っかかってガタついていた。 うんざりしてポッケからスマホを引き出す。また母だろうか。 もう薄暗くなってきた室内に、煌々と光る画面。 発信元は、母じゃない。この時間に、なんだろうか。 ためらいながらも、通話マークをタップする。 「はい」 「咲良ちゃん?僕だけど」 聞き慣れた声に、少し気まずいような気持ちになる。けど気にしてない様子のマスターは、手早く喋りだした。 どことなく、切羽詰まったような声色。 「あの、藤沢さんから聞いてるんだ。咲良ちゃん、今岡山なんだよね?」 「そうですけど…」 「じゃあ、こっちにはすぐ来られないか」 唸るような低い声。嫌な予感が、足下から湧いてくる。 「何かあったんですか?」 「…あのね、 さっき、藤沢さんが救急車で運ばれたんだ」 ひゅっと、喉を鳴らした。 「きゅ、救、急」 「電話で家に呼ばれたんだけど、行ってみたら倒れてて。意識はそのときあったんだ。頭を抱えて苦しそうだったから救急車を呼んだ。僕も付添で病院まで来てる。なんだけど、中々治療室から出てこなくて」 どくんどくんと、急に忙しなく鳴る心臓。 「わ、私今すぐ帰ります」 「いや、咲良ちゃんはそこにいなさい」 「でも」 「なんで岡山に行ったのか、電話で聞いたから知ってるよ」 なだめるようにマスターは言う。それでも、お腹の底で渦を巻く気持ち悪さは消えなかった。 「やることがあるんでしょ?大丈夫、僕がいるから」 私はその場で首を振った。蒼白になってる顔は、自分でも分かった。 「いや…いや、帰ります」 「今からじゃ遅くならない?」 「大丈夫です」 腕を持ち上げて、腕時計を確認する。7時すぎ。バスもまだ出てる。 「帰ります。何かあったら、また電話して下さい」 「咲良ちゃん、落ち着いて。用事はいいの?」 「いいです」 「本当に?」 その一言に、一度顔を上げた。ガラスの花模様。まだ水色の、光が差す。 「思い残すこと、無いのね?」 端に付いてる、小さな四角い引手。薄く積もった埃に、手跡が付いた。 もし本当に売られるなら、こんな古い家、間違いなく取り壊される。 帰ったら、今日帰ったら、もう二度と来られないかもしれない。 この好きだった襖も、その先の部屋も、もう見られないかもしれない。 じいちゃんを、見なかったことにしてしまう。 けど、けど。それでも。 家には私一人だって、言ってた。 『一人じゃないよ』 このままじゃ、言ってもらうだけになってしまう。 私は励まされた言葉に、何一つ返せてないのに。 「…咲良ちゃん、聞こえなかった?」 黙ってる私を気にしたのか、マスターが小さくため息をつく。 「すみません、今出ますね」 「一人じゃないって言ってもらえたのにって、何?」 「え?」 慌てて今更口を抑える。そういえば、マスターにも言ってもらったっけ。 「あ、あの、藤沢さんと、一緒に頑張ろうねって、約束して…」 「あのねえ。だから、聞いてなかったの?」 次は、大きなため息。 「僕も付添で来てるって言ったの。藤沢さんを置いて帰るわけ無いでしょ?」 呆れたような、でも、どことなく優しい声。 見えなくても分かる。今、ちょっと笑ってる。 「藤沢さんは、一人じゃないから。あとね、一人じゃないっていうのは距離とか、関係性とか、咲良ちゃんが思ってるのとは違う意味だよ」 じゃあね、マスターは早々に電話を切ってしまった。 つーつー、無情に鳴るスマホ。終了マークをタップすると、遠くから響く蝉の音が、私の耳を震わせた。 距離とか、関係性とか、思ってるのとは違う意味。 腰を下ろしてた階段の木が、きしんだ音を立てる。 垂れてきた汗が、眼球に染みわたる。 握りしめてた雑巾。背中に触れるじんわりとした空気。気づいたら溜まってた、つばを飲み込む音。 腕時計が、ちゃっちゃと秒針を刻む。 私は悩みに悩んで…リュックを掴んで、家を飛び出した。 坂を駆け下りて、コンビニの角を急カーブする。 最寄りの停留所に丁度止まってたバスに、勢いよく飛び乗った。 乗客が、驚いた顔で私を見る。近くの工場の帰りで作業着の人が多い中、野宿並の大きなリュック、頭から被ったような汗。 入ってすぐの、西側の二人がけの席に座った。 走ってきて心音が止まらないのか、不安のせいか、よく分からない胸を上から押さえる。 ここからバスで一時間、電車で二十分、新幹線で…どのくらいだったかな。 新幹線は乗車券買わないとな。夕飯どうしよう。駅のコンビニで買うか。 緑のマークのコンビニが好きだけど、乗る前の駅は全部赤いんだよな。 駅弁でもいいかな、どこにしようかな。 どうでもいいことを考えようと、必死に頭を巡らせる。 新幹線降りたら、そのまま病院行って… 家には、どうしよう。明日も今日も同じだよね。 病院の名前聞いてないけど、家から呼んだなら近くの総合病院かな。あとで電話して聞こう。 緩やかな坂道を登っていく。道脇に生える木々が、車内を一層暗くさせた。 なんだか涙が出そうな気分になって、下唇を噛む。 まだ生きていて、大事な人で、だから私はここまで走った。 絶対後悔しないで、帰ろうって。 後で怒られても、自分が決めてここまで来たって、言うつもりで。 なのに… お棺の中のじいちゃんが頭をよぎる。すぐにでも目を覚ましそうな顔、触れずとも分かるほどの冷たさ。 でも今日帰らなかったら、二度と藤沢さんに会えないかもしれない。 生きてる間に会える時間は限られてる。私はそれを、身をもって体験してきた。 だから、だから… 窓に頭をくっつける。冷房で、内側はとても冷たくなっていた。 そんなんじゃ頭は冷えなくて、耐えきったように、目尻から涙が流れ落ちる。 「どうしよう、じいちゃん…」 ぽつり、涙混じりの声が零れていた。 『そんな意味ねえことやめとけ』 唐突に蘇る、聞き慣れた声。 聞き慣れた、どころじゃない。この声以上に、覚えてる人の声なんて無い。 急いで隣の席に首を向けると、空席。東側に座ってた人が、離れた所から眉をひそめている。 軽く頭を下げて正面に向き直すと、またじいちゃんの声が続いた。 『まともに聴きもしないで弾こうと思ってるなら、やめておけ。なんのために楽器があると思う』 それから、私の声。 『いっちょ前のミュージシャンみたいなこと言わんでよ』 『なんだその反応!』 記憶を辿りながら、窓の外に目を向けた。景色がゆっくり、横に動いていく。 『お前なあ、大体俺のギターやろが』 『ずっと貸してくれてるじゃん』 流れていく木々の隙間から、ぽつぽつ明かりが漏れる。 『じいちゃんのバカ』 子供っぽいような、小ちゃな反撃。 悔しくて、言われたことがよく分からなくて、それでバカって。 そしたら、じいちゃんなんて言ってたっけ。 じいちゃん、なんて言ってくれたっけ。 『咲良、お前は、』 その途端、雲が晴れたように木々が消えていって。 遥か遠くからの、明るすぎるくらいの電灯が、鉄塔から燃えている火が、私を熱く照らす。 車窓からの、あまりにも美しい光景に、目が釘付けになった。 瞳に映る景色が、まるで昼のようで。それでも夜の暗さの上に輝いていて。 不思議な世界に迷い込んだような気持ち、意識が遠くに、飛ばされたような感覚。 『咲良、お前は、』 一度言葉を切ったじいちゃんは、私の背中の方を見て、そして、わずかに目を見開いた。 『…丁度いい。あれを見てみろ』 何年もここにいたのに、気づかなかった。 あの時見たのに、忘れていた。 果てまで広がっているようなコンビナート。明かりの一つ一つが、今日も忙しなく動いている。 ペットボトルの底、わずかに溜まった水滴を飲干そうと、首を上に向ける。 空の容器を潰して、投げた机の上には、米粒が残ったコンビニ弁当。 電気も水道もガスも2月から止まっていたようで、暗い中、スマホのライト機能を駆使する。 家に戻った私は、座椅子にもたれかかって天井を見上げた。 じいちゃんは、あの時夜景のコンビナートを見せようと指を差した。 私の記憶は、そこから進まない。まだ一年も経ってないはずなのに、断片的だ。 なんであの景色を見せたんだろう。話の流れからしても、不自然だ。 丁度いい、なんであれが丁度いい? 「やっぱ、あの部屋か…」 廊下への引き戸。同じガラス戸なのに、昼間とは違う黒さに一瞬身を震わせる。 私に何を見せたかった?あの時、何を伝えてた? 死んだ人は、最期の言葉を発することも出来ない。 でも生きてる人が、それに気づくことは出来る。 生きてれば、必ず。 『彼は死を分かっていたから準備できた』 それが本当なら。 立ち上がって、引き戸に手をかけた。 スマホのライトで部屋を照らすと、埃がキラキラと舞っていた。 白い雪のようなそれを、かき分けるようにして奥へと足を踏み入れる。 書斎、というには大げさかもしれないが、立派な古い文机。 その上に端まで並べられている本。普通の小説や、裏庭用の園芸書、ギター関連の本。 隣の背の高い棚には、じいちゃんらしくCDでぎっしり。古い洋楽と、昔の流行りバンドが中心の。 私の音楽の趣味はじいちゃん譲りだ。いくつか持って帰っちゃおうか。 くすりとひとりごちてたら、机の下の引き出しに目が止まった。壊れてるのか、閉じきってない。 キャスターを転がして引き出してみると、分厚い本が三冊立て掛けてあった。 スマホをかざしてみる。背表紙には、『十年日記』と書かれた金文字。 大きな表紙。床に下ろしてめくってみると、日付と年、じいちゃんの筆跡。 その名の通り、日記帳だ。 『2007/3/6…やっと生まれたと連絡が入った。ばあさんもあっちに無事着いたらしい。15時間もかかったそう。万歳!』 自分の誕生日を無意識に探してみると、じいちゃんらしい達筆が目に飛び込んできて、思わず笑みが溢れる。 『2007/5/27…孫が初めてうちに来た。名前は「咲良」。抱いてみたら泣かれた。五分も経てばすぐ慣れていた。大物に育つ予感』 『2008/7/28…咲良が歩けるようになった。パソコンに動画が送られてきて、でも使い方が分からず見れていない。髪も伸びてきたそう。早く会いたい』 次々めくっていると、途中で空白続きになった。再開したのは、その二年後。 『2010/10/3…ばあさんが死んでから書けてない筆を取ろうと思う。咲良を今日からうちで預かることになった。仕事で左右されない環境で、伸び伸び育って欲しいと』 ”私のことも、仕事仕事って丸ごと押し付けて” これは、そういうことだったんだ。 最後まで書き詰めているのを見届けて、二冊目をめくる。 『2011/4/10…入園式。まだ咲良はこっちに慣れてないようだったけど、今日は泣かなかった。偉い!』 『2012/2/17…いくらかぶりにひげを剃ったが、咲良の反応が薄い。物に自分の名前を書くことにした。机がマジックだらけ。掃除に苦労した』 『2015/6/29…帰りが遅くて怒ったら、ふてくされ中。なんだかんだで食事は寂しい。明日には謝ろう』 『2016/1/5…咲良がギターをしたいと。貸してあげると言ったら、とても喜んでた。将来は歌手かな?シンガーソングライター?』 『2019/3/15…卒業式。制服が小さかったそうな。中学の卒業式も、これから楽しみ!』 二行の日もあれば、一行だけの日もあったりとまちまちだ。 最後の一冊を手元まで滑らせる。一枚とめくっていって、ある一行で手を止めた。 『2021/9/3…癌が見つかった。もって一年。咲良になんて言おう』 また一枚、ページをつまむ。 『2021/11/1…検査退院!久しぶりに咲良との夕飯。オムライスは形がいびつ。でもうまい』 余計なお世話だ。 『2022/3/3…咲良の誕生日が近いけど、明日から入院で買いに行けない。お金を渡した。ケーキも一緒に作ってあげられない』 貰った1万円、まだ貯金箱に入ってるよ。 『2022/8/7…お盆。迎え火をした。きゅうりとなすは、何年経っても相変わらず下手』 そっちだって、下手だったじゃん。割り箸がすぐ抜ける馬でさ。 どんどんめくっていくと、途中で白紙のページだけになった。 最後の日はいつだったっけと、時間を巻き戻すように探す。 浮かび上がるように見つけたその日には、 『2022/11/20…明日から入院。咲良が珍しく病院まで送ってくれるらしい。帰りが心配』 その一行だけ、書かれていた。 その日の翌日は、よく覚えてる。夕方遅くに、病院へ向かうバスに揺れていた。 友達から卒業式で弾いてくれと頼まれた曲が、気乗りしないって愚痴を言いたいがために、一緒に。 思えば、しょうもない理由だったけど… あ、と顔を上げる。 そうだ、その時だ。生きてるじいちゃんに会った、最後の日。 その時一緒にバスに乗って、あの景色を見せられた。 なんでだっけ、その後も、何か言ってくれてた気がする。 『咲良、お前は、』 途切れさせたあの言葉の、その先。 なんだっただろう。何か、あの景色を見て教えてくれた。 私は急いで日記を戻そうと、一冊ずつ持ち上げる。 この日記にで分からないなら、別のノートかも。譜面のノートとか机の別の引き出し。 どこかに、きっとヒントがあるはず。 絶対、分かる。 焦って三冊目の日記を取り落としそうになって、足を踏み直す。 元のように並べようとかがんだら、足の甲を何かが滑った感触がした。 とっさに身構えたけど、音もなく感覚だけというのは、気のせい? スマホのライトを足の方へと向ける。少し大きめのふせんくらいの…紙。 横に罫線が印刷してある。日記とは違う、普通のノートの線。 裏返してみると、日記と同じくじいちゃんの達筆。けど内容は日記じゃない。よく見たら、破った跡。 それを見た瞬間、私はポッケの中のパスケースを探った。 持ってた紙の方が拾った紙より少し古びていて、けど破った跡がぴったり重なる。 じいちゃんの…死ぬ前に作ったと思われるTODOリストが出来上がった。 ・必ず一年は生きる ・ばあさんとこの墓参りに行く ・ありがとうを、一日一回は言う ・咲良がこれからも家に住めるよう、遺言書を書いておく 拾った方と合わせて、全部で五つ。上から四つ目の項目だけ、赤線が引かれていない。さっき拾った五つ目は、線が引かれてる。 つまり、これは達成したんだ。 でも、私はこれに心当たりがない。 じゃあ、これはどこに… 部屋全体を見回す。あるんだったら、この部屋のはず。 頭を巡らせてみて、ある一点に目が止まった。破れかけの、襖。 私が昔、宝物を見つけた、あの。 『あそこの戸はな、おじいちゃんの大事なもんいっぱい入っとるんよ』 滑る足をもつれさせながら、丸い引手にしがみつく。 勢いつけて開け放ったそこには、バンッと音が響いていて。 私は、溢れてくる涙と一緒に、記憶の中のじいちゃんが喋りだした。 『どうだ?綺麗だろう』 『うん、綺麗。…だけど』 『よし、じゃあそれでいい』 満足した様子で、じいちゃんはどすんと背もたれにもたれかかった。 『待って、これがどう関係あるの』 『分かんねえのか』 『分かるわけねえけど』 イラッとした言葉がそのまま出てきて、慌てて口をつぐんだ。じいちゃんの言葉遣いをまねしたくはない。 『あのなあ、これが綺麗って思ったろ?』 じいちゃんはそんなこと気にせず、窓の向こうを指差す。開けてた空は、すぐ横から来た木々の波で覆い尽くされた。 『俺な、あそこの景色好きなんだよ。特に夜。お前もいいなっって思っただろ?』 『うん』 『それが、綺麗だって思わなくなるってことだ。他人が押し付けてくるもの、そういうのに頭を悩ませて、必要ない労力使って、そうしてると、目の前が幸せだってことに気づけない』 『それって、じいちゃんの昔のバンドのこと?』 『まあ、それと似てる。あの頃はばあさんに散々苦労かけたしなあ。ばあさんといることが幸せだって、気づいてたらよかったかもな』 どこか遠くを見ているような、遠くに行っちゃいそうな声。 『分かるか?』 『…いや、全く』 そのことと友達のことは、関係が無いように思える。…けど、 『私の見える景色は好きじゃない、違う景色が見たい!って言われてるってこと?』 『おお!そういうこと』 『ちゃんと言ってよ…』 相も変わらず、独特というか、会話があさっての方向というか。 『じゃあ断るしか無いってことよね。嫌われるわ、そんなん言ったら』 『そしたら好きにさせればいいだけだろ』 あっけからんと、じいちゃんは言う。 『じいちゃんは、ばあさんを好きにさせたんぞ』 ドヤ顔で、親指を立てる顔が変で、笑いをこらえる顔をそむけて、窓の方を向いた。 またバカなこと言ってる…そう思いながら、自分も昔からそうだったんじゃないかと思い出す。 初めてここに来た時、目に見える全てが嫌でしょうがなかった。 不便で、家にいるのに虫は出て、知らない店ばかり。眺めるのが好きだった高層マンションも、住宅街に。 出てくる料理は、ママお手製のオムライスじゃなくて、いびつな卵の塊。 お店まで距離があるからと、じいちゃんはケチって誕生日ケーキは買ってくれなかった。 家には一日中、じいちゃんが大好きで私が嫌いな、納豆の香りで充満してた。 それに一番は、話したこともない、じいちゃんの存在が一番嫌だった。 だけど、今では。 外の草木の匂いが好きで、部屋の窓を開け放って。 オムライスも、全然苦手だけどしょっちゅう作ってて。 しょっぱくなった誕生日ケーキは、笑っちゃうほどまずくて、大好きで。 棚の側にかけてある納豆のかき混ぜ棒は、兼用になってて。 外を眺める私の背中を、ぽんと押した。 馴染みのある、大きな手。豆ができて、ごつごつする指の感触。 振り向けば、じいちゃんがニカッと歯をむき出しにして、笑った。 『じいちゃん、お前に聞こうと思ってたの忘れてた』 『え、なに?』 『誕生日プレゼント、何がいい?』 思わぬ問いに、私は目を輝かせた。 『スマホ!友達と同じやつ、最新!』 『可愛くねえなあ』 『可愛くないって何。だって今一番欲しいやつだし』 『スマホは今のでまだいいだろ。俺のは今年で三年目だぞ』 『ええー』 膨らんだ期待が、一気に割れた。 『ま、お前の欲しそうなやつ、実は他にもう買ってある』 『早くない?四ヶ月くらいあるよ』 『早いに越したことねえだろ』 『そういうことじゃ…気が変わって、今はこんなん欲しくない!って言うかもよ』 『ああ、それは大丈夫だ。いらなくても絶対渡すから』 『押し付けじゃん』 『なんとでも言え。だってもうなあ そのプレゼントに、お前の名前でっかく書いといたからな!』 「クソジジイ…」 溢れてくる涙を、必死に拭う。拭っても拭っても、大粒で零れて落ちていく。 溢れて、溢れて、どうしようもなく溢れてきて。 スマホをを取り落とす。ライトが宙を回って、一回転する。 『自分のものには名前書かんといけんだろ』 堰を切ったように、私は声を上げた。 夜空の光が、押し入れをを照らす。 手の中に収まってた紙を、痛いほど握りしめる。 ・咲良に、今年は誕生日プレゼントを買う 舞う埃と共に月明かりに照らし出されたのは、飴色の真新しいギターだった。 「…ちょっと、何これ」 「悪いな、さっきポッケ探ったら出てきた」 「ずっと探してたんですけど?」 悪びれもせず隣を歩くじいちゃんに腹が立って、渡されたピックで手の甲を突き刺した。 「いって!」 顎をそむける私に、じろりと視線が突き刺さる。 「全く…ギターの中に入れときゃ失くさないってあれほど」 「あれいちいち出すのに苦労するの!もう、勝手に持ち出さないでよね」 「いや、でも本当に物失くさなくなるぞ。鍵とか、大事なメモとか、」 「ギターの寿命短そー」 電灯の下、足を止めた。病院前のロータリー。バスを降りてじいちゃんと話しながら歩く時間も、ここまでだ。 「ありがとな、お前気をつけて帰れよ」 片手を上げて離れていく裾を、泣きそうになって掴んでしまう。 「はは、咲良もまだまだ子供だな」 「うるさい」 「次退院したら、プレゼント渡すからな」 嬉しそうに笑いながら、私の頭を雑にかき回す。やっぱりまだ私は、子供でいたいと思ってしまう。 「押し付けなんていらない。…でも、ケーキは一緒に作ってね」 恥ずかしくて小さくなった声も、ばっちりじいちゃんは拾ってくれたようで、「そうだな」と笑った。 真っ赤になったほっぺたをごまかすように、じいちゃんの背中をどんと押す。 「…いってらっしゃい」 「いってくる」 青紫の空。光る一番星。 「あ、藤沢さん!体調はもういいの?」 「おかげさまで。コロッケ一ついいですか?」 「はいはいまいど。そうだ!今日いよいよ発表会なんだってね?」 「そうなんです。これから会場に向かうところで」 「あら!そうだ、じゃあ今日はサービス。期間限定なんだけど、桜の曲やるんでしょ?」 「…これって、」 「ん?どうかした?」 「…いえ、ありがとうございます。じゃあ、いってきます!」 快晴の下、汗水垂らしてパイプ椅子を運ぶ私を、みんな通り過ぎていく。 若いんだから、その一言で命じられたのは、四脚。 「咲良ちゃん!もっと気張らないと!」 後ろから坂下さんに背中を押されて、勢いよくむせる。 「は、はあい」 「もー、仕方ないから一個貸して!」 ひょいと一脚、軽々しく持ち上げられたおかげで少し楽になる。 私に運ばせる意味があったのかと、半目で先に行く背中を眺めていた。 その目線に気づいたのか、坂下さんがこっちを振り返る。 そしたら、なぜかニッと白い歯を見せた。 「咲良ちゃん、あんたいい顔するようになったね」 「え、いい顔?」 「前は話しかけにくような、距離を取ってるように見えてたけど。ここ最近は元気そうねえ」 「はあ、そうですか…」 言われたことがよく分からなくて、でもなんだかくすぐったくて、視線を外す。 坂下さんは楽しそうに、私の腕を強く叩いた。 「ま、みんなも気づいててそれ、頼んだんでしょうよ。頑張んなよー!」 ウキウキ、軽い足取りが、ホールの裏口に入っていくのを見送る。 珍しく、あの坂下さんが褒めてくれて、私も気持ちが浮足立った。 けど、若いを理由に押し付けるのはやめて欲しい。 「咲良ちゃん」 先生の呼びかけに、やっとのことで涼もうとしゃがんでた私は、脱兎のごとく逃げようと右足を出した。 「ちょっと待って!なんで逃げるの!?」 「もう運び疲れましたから!一番最初に演奏するから、緊張してて雑用どころじゃないんです!」 「誰も手伝ってって言ってないでしょ!」 フードを掴んで引き戻されて、その場で尻もちをつく。痛さで涙目になって天井を見上げると、額の上になにやら冷たい缶が乗っかった。 「これあげる。間違えたから」 手にとって見ると、自販機のアイスココアだ。 「その代わり、咲良ちゃんが僕のコーヒー買って?」 「は!?」 目を剥く私に、あははと可愛らしく笑う。 「冗談冗談。でも一人じゃ寂しいし、一緒に飲まない?まだみんな忙しそうだから」 そう言われて、外の日陰にある自販機まで連れてこられた。 ガシャリと落ちてきた缶を開けるのを見て、私も同じようにプルタブを上げる。 「どう、おいしい?」 喉を動かす私を眺めながら、まるで自分が作ったかのように聞いてきた。 「まあ、普通に」 「そっか、ならいいんだあ」 ホッとしたように、自分の缶を口に付けた。私は口の中でココアの味が広がって、ふと前飲んだときのことを思い出した。 「ココアってお店で出さないんですか?あのマグカップ、可愛いのに」 テディベアが、大きなハートを抱いていた。 「ああ、そうだねえ…」 なぜか遠くを見るように、目を細めて空を見上げる。可愛すぎるからって、前は言ってたのに。 「あれね、亡くなった奥さんの物だったから。なんとなく気が引けてね」 亡くなった、ワードに引っかかって、思わず眉を寄せた。 「ごめんなさい、そうとは知らなくて」 「ううん、それは別にいいの。それに、あのマグカップでココアは作りたいし」 ゆったりと薄い雲が流れていくのを見ながら、先生は口を開いた。 「この前、久しぶりに奥さんのお墓参り行ったんだ」 二人が頑張ってるの、見てたから。私の方を見て、小さく笑う。 気まずいような、嬉しいような。私今、すごい変な顔だ。 「昔はね、行くたびに『死んであげたい、早く行ってあげたい』って思ってたんだけど…」 無意識に缶の縁をなぞる指先。 太陽の光が反射して、一点の輝きを放った。 「久々に見たら、全然違って見えて。『死にたい』よりも、『ありがとう』って思った」 「ありがとう?」 「僕を選んでくれて、一緒に生きてくれてありがとうって」 自分自身に言い聞かせるように、うん、と頷く。 「そう思えたのも、咲良ちゃんや藤沢さんや、生徒さんとお客さんのおかげだ。あのそこでまた居場所を見つけて、生きたいって思えたから。…あそこを作ったのも、彼女がいたおかげだし」 『死にたい』 そう思いながら、先生は生きてきてたんだ。 「ごめんね。急に言っても、分かんないよね」 先生は困ったように、私の顔を覗き込む。 「…その、私もありがとうございました」 「ん?何が?」 「一人じゃないって、言ってくれて」 夕暮れの、川の匂い。 添えられた手の温かさ。 「私、ずっと悩んでたから。嬉しかったです」 もう結構前の話なのに、先生は少しだけ目を瞬いて、「どういたしまして」と微笑んでくれた。 死ぬことはずっと怖いし、多分一生怖いままだと思う。 そのことばかり見てると、生きているのが怖くなったり、生まれてこない方がよかった、そこまで考えてしまう。 死にたいと思ってても、『死』を分かっているからこそ、その選択だけは出来ない人だっている。 じゃあ、なんのために生きてるんだろうって、思ってた。 一生のうちには、幸せの瞬間がいくつも散らばっていて。 その布石を集めることが、生きる本当の意味だと思った。 何か特別なことじゃなくてもいい。例えば、朝の街の静けさとか。 穏やかに落ちていく夕焼けとか。夜中にぽつりと灯る電灯とか。 それこそ、教えてもらった景色とか。 誰かと並べる食卓。なんてことのない普段の会話。伸びをする瞬間。 特別じゃない、一つ一つ。じいちゃんはそれを、毎日丁寧に集めていた。 集めて、書き留めて、自分自身の幸せを毎日噛み締めて。 死んでも一人になれない。それに気づいた瞬間、『死』を受け入れられる幸せがあるんだと思う。 終わりの幕の中は、一人じゃない。 いくつもの、集めていた輝きが、そこにはいくつも転がっている。 怖がる暇がないくらい、毎日の風をひたすら浴びて、息をする。 それだけで、一つ心に明かりが灯る。 「じゃあ、私そろそろ行きます。これ、ありがとうございました」 腕時計を確認すると、開演の三十分前。片手を上げて、足早に裏口へと向かう。 「あ、待って!咲良ちゃん」 走りだそうとした私を、先生の声が引き止めた。 「あのね、一つ言おうと思ってたことがあって」 「なんですか?」 「咲良ちゃんが教室に来だした頃くらいなんだけど…」 なぜか言いにくそうにして、目線をそらす。 「その、お母様からね、電話をもらったことがあって。『祖父が亡くなって精神状態が不安定だろうから、見守ってやってくれませんか』って」 ああ、肩の力が抜ける。初めの頃の謎の圧や、ココアも渡してくれた時も、先生知ってたんだ。 母は…心配してくれていたんだ。 「話がしたかったんだけど、真幌さんのこともあったから、なんとなく言えないままだったんだ」 ごめんと頭を下げられて、慌てて大丈夫ですを連呼した。 「でも、なんで謝るんですか?」 「退院した後、親との関係が上手くいってないらしいって藤沢さんに教えて貰ったから…あ、これも又聞きになっちゃうか」 本当にごめんと、より深く下げられる。 「あの、本当にいいんです」 二週間前の日曜の夜、汗臭い私を待ち構えてたのは、母の雷だった。 あんなに怖い顔はじいちゃんそっくりで、びっくりするのも忘れて思わず吹き出した。 そしたら二重三重ときつく叱られ…それから、強く抱きしめられた。 阿鼻叫喚のように泣き叫ぶ母。うるさいと一瞥せず、その上から重なる父の手の平。 「あんまり関係がよくないのは、確かに事実です」 爪も髪も服も、いつも完璧を身にまとっていた母が、ひどく臭った私の体を迷わず抱きしめてくれて。 冷淡無情だと思ってた父も、その上から手を添えてくれて。 私が見てこなかった二人が、そこにいた。 「でも、とりあえず会話はしてみようと思って」 『そしたら好きにさせればいいだけだろ』 あっけからんと言ったじいちゃんのように、上手くはいかないかもしれないけど。 私の心を、いとも簡単に開けてくれたのは、じいちゃんとの会話だった。 まずは、そこからだ。 私の布石を、これからも集めていけるように。 ゆっくりと顔を上げた先生は、安心したように私を見た。 「なんだか咲良ちゃん、いい顔になったね」 「それ、坂下さんにも言われました」 くすくすと、二人で視線を交わす。ホールの方へ、歩きだした。 「そういえば、ココアだけど。来週からお店で出してみようかな」 「おお!あのマグカップ、使ってくださいね」 「もちろん」 言われずとも、と言うように、先生は口角を持ち上げる。 「舞台袖で藤沢さんが準備してたよ。いよいよだね、頑張っておいで」 「はい!」 ポンッと、背中を押される。 「いってらっしゃい」 「いってきます」 私は、微かに聞こえる観客の景色を目指して、駆け出した。 夕立が、降った。 僕らのことなんか気にせず、生暖かくなり始めた風。 「そんなところにいたら、濡れちゃいますよ」 声をかけた相手は、震えるように首を振った。傘を開いて、裏口を出る。 物置の前まで歩いて、傘を差してあげた。 「…あなたも、思ってるんでしょう?」 「え?」 「父のように、くだらないって。そう思ってるんでしょう」 恨むような、鋭い目。まさか、あなたにこんな目を向けられる日が来るとは。 「思ってませんよ」 「嘘」 「本当です」 負けじと、目の前にしゃがむ。鼻先が触れてしまいそうな、近い距離。 潤んだ弱々しい瞳は、いつもの発揮とまるで別人のようだ。 「僕の夢なんです、ここは。僕とあなたの」 まだ少し熱めのマグカップを、手元に差し出す。まだコーヒーは上手く淹れられないから、これが今の自分の限界だった。 遠慮がちに縁につける唇は、触れたいと思っても触れられないもの。 「…おいしいね」 「でしょう。あなたのための、特別ですよ」 「何それ」 鈴を転がしたような、愛しい笑い声。 この人のために、自分には何が出来るだろうか。 「…これからも一生、飲んで欲しいと思っています」 「えっ」 頬がピンク色に、淡く染まる。 不躾に、エプロンのポッケから箱を取り出した。 「一人じゃないです。僕はあなたと一緒に悩んでいきたいんです」 箱の中身を抜き出す。まだ、自分はこれしか渡せないけど。 くすりと、彼女は笑った。 「あなたらしいわね」 テディベアの模様は、大きな金色のハートを抱いていた。 「…僕と、結婚してくれませんか?」 隣を歩く足が、ぴたりと止まる。これで、病院から三回目だ。 「真幌、帰ろう」 泣き出しそうな、思いつめたように、そのまま立ちすくむ。いつもなら十分で帰れる家も、もう三十分近く時間が過ぎていた。 まあ無理もないと、自分に言い聞かせる。大好きだった母親が、前とは変わり果てた姿になっていたのだ。まだ中学生のその身には、ずいぶん重くのしかかるだろう。 この子のために、自分は何が出来るだろうか。 少し考えながら、頭を巡らす。一つの看板に目が止まった。 「真幌、少しここで待ってなさい」 急いで言い残した私は、商店街の入り口のベンチに座らせた真幌を確認して、行きつけのコロッケを二つ買って戻った。期間限定、桜の模様をあしらった包み紙。 春風が、私達の間を寒そうに通り過ぎていく。 「はい」 かじかむ手から、一つ手渡した。温かい湯気。これで、少しでもほぐせたらいいと思った。 ざくりと小さく聞こえて、私も同じようにかじる。 「大丈夫だからな」 しゃがんで、彼女と目線を合わせる。長い前髪を、かき分けてみた。 赤らんだ頬、充血した目。血の気だけ、抜け落ちたような蒼白な表情。 「一人で悩みこんじゃ、ダメだよ。私がいるから、なんでも話して欲しい」 頬を挟んで、必死に瞳の奥を辿る。 「一人じゃないよ。大丈夫」 そしたら、大きな栗のような目から、大粒の涙が静かにこぼれ落ちた。 それを皮切りに、どんどんコロッケめがけて落ちていく。 透明な鼻水も、一緒に。 私はこういう時、なんて言ったらいいか分からない。おずおずと、頭に手を乗せ、優しく撫でてみる。 小さく呻く声。もっと撫でて欲しいと言うかのように、体をかがませた。 ずっとずっと、気が済むまで撫で続けた。 「真幌、どうした?」 泣き止んだというのに、また足を止めた。振り返ると、立ちすくんでるんじゃない、電柱に貼られたチラシを見つめてる。 「どれどれ…これ、行ってみたいのか?」 近くのギター教室の募集。こくりと頷く。 初めて、自分の意志を教えてくれた。私は嬉しくなった。 「じゃあ、母さんにも今度話してみようか」 真幌は花が咲くように顔を輝かせ、大きく頷いた。 「うん!」 娘が喜び勇んで買っていたギターが、部屋の真ん中で転がっている。 あの子がまだ、帰ってくるような気がして、埃が溜まっていく薄暗い部屋を眺めるばかりだ。 よどんだ空気に足を踏み入れる。中の表情は、生きていた頃のまま。 机の上に散らばってるシャープペン、消しゴム、ノート。 開いたままのノートに目が行く。あの子の、かわいい丸い文字。 『2023/3/12…ギター教室に新しい人が来た!いつもとは違う、同い年くらいの女の子。三吉咲良ちゃん。ギターがめちゃくちゃ上手。来週は、声かけてみようかな。 私、あの子とお友達になりたい!』 「藤沢さん」 声をかけられた方を振り向く。真幌の大きな栗とは違う、やや吊った強い目。 「もうすぐですよ」 ワクワクした様子の三吉さんは、あまり見たことがない。なんだか少しおかしな気分だ。 「そうだね。お、今日はおしゃれに決めてるねえ」 「そうですかね、普通ですよ」 黒のパーカーに、ダメージジーンズ。髪は一つにまとめて、その所々に金色のピン。 「真幌が好きだったアーティストに似てる」 「ああ、なるほど。あの人も桜がテーマの曲、出してるんですよね」 「そういえばそうだよね」 あの曲も、今日演奏するか迷ったけど。 あれは、真幌のものだから。 「そうだ、桜といえばさ」 思い出して、胸ポケットに手を入れる。 引き出したコロッケ屋の包み紙と、真幌のギターケースについてた缶バッチ。三吉さんは見比べて、ああと頷いた。 「それ、気づいてなかったんですか?」 「え、知ってたの!?」 「だって、印刷されてる桜模様、全く同じなのに」 おかしいようにクスクス笑われる。彼女が目ざといのか。いや、きっと私が鈍すぎるのかもしれない。 「まあ、ショックなことが起こると、記憶が曖昧になりますから」 身に覚えがあるようで、けどなんでも無いように前を向く。 幕の隙間から見える光に、眩しく目を細める。チカチカあたりを光らせるそれは、昔夜景ツアーで見たコンビナートを思い起こさせた。 そういえば、以前岡山の海沿いの工業地帯の近くに住んでいたと聞いたことがある。 美しさを共有しようと、三吉さんの方を向いた。 「私、さくらって嫌いだったんです」 開きかけた口をつぐんで、目を丸くした。 「さくらって、自分の名前でしょう?」 「違いますよ、木の桜の話」 ふはと、気の抜けたように彼女は笑う。 幕の外側を見やる。まだ咲き染めた花のような、美しい光の輝き。 「けど、死で桜を連想するように、生もきっと同じなんです」 一瞬何のことかと思ったが、すんなり自分の中に入ってきた。 うん、なぜか分かる気がする。 「桜はずっと自分の中にあって、生きてるのと同じように、いつか必ず散っちゃうんです。寂しくて怖いかもしれないけど、でも、」 「でも、咲いている時が、一番美しい」 視線が交わる。死ぬことに怯え続けていたとは思えない、彼女の言葉。 答えを見つけたようで、しみじみ、噛みしめる。 じゃあ、私は? 私の、死に対する答え。 いつかやってくる、そこまで遠くない未来。私はどう感じるだろうか。 ザワザワと、人の話し声。亡き孫の、艶が光るギター。ここまで導いてくれた先生。 隣にいる、若き友人の存在。 自分に言うように、はにかんでみせる。 「咲良さん」 ここでの鼓動が、それを示してくれている。 「私ね、今この瞬間に死にたいくらいに幸せだ」 ホールから漏れる明かりに照らされたその顔は、とびきりの笑顔だ。 「いこうか」 「はい」 二人並んで、ステージの中央に立つ。 私の手には真幌の、彼女の手には、かっこよく『SAKURA』とマジックで刻んであるギター。 幕があがる。
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