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幾度となくこの瞬間を想像してみては、心を痛めてきたはずだった。けれどもいざ現実になってみると、その喪失感は想像をはるかに超えていた。老婦人は冷たいレザーソファーに身を沈め、ただ暮れていく窓辺の景色を漫然と眺めるしかなかった。何十年も連れ添った夫が、彼女を残しこの世界からいなくなってしまったのだ。
夫は彼女の人生にとってかけがえのない存在だった。もちろん些細な喧嘩は毎日のようにあった。確か初めて出会った時も、口喧嘩をした記憶がある。仕事帰りに立ち寄ったコーヒーショップでつい居眠りしていたら、隣のテーブルに座っていた彼が小馬鹿にするような顔で笑っていたからだ。それでも今思えば、あの時から不思議と彼のことを強く意識するようになっていた。
元々飽きっぽい性格の夫は、様々な仕事に手を出した。映像作家、インテリアデザイナー、カメラマン、小説家、カフェ店主、アクセサリー職人、、探偵、防災コンサルタント等々。結局どれも長続きせず、大した稼ぎもなかった。そうやって何も成し遂げられないまま、七十歳の誕生日の朝、突然、発作を起こして逝ったのだ。男性の平均寿命がいよいよ百歳を超える時代になった矢先の出来事だった。
お互いに一人っ子で子供も作らなかったから、老婦人はまったくの天涯孤独の身となった。夫と同い年の彼女は、女性の平均寿命でいえば、まだ四十年あまりも生きなければならなかった。
時間の感覚を失うくらい長く家に閉じこもっていた老婦人は、秋晴れのある日、思い切って近くの公園へ出かけていった。よく夫とも散歩をした場所だ。広場に面したベンチに腰かけ、子供たちや犬が駆け回るのをひたすら目で追った。皆が家路につき、すっかり広場に人影が無くなったころ、落ち着いた口調で誰かが声をかけてきた。
「あの、少々お時間よろしいですか?」
髪をきっちりと七三分けにしたスーツ姿の男だった。歳は三十代半ばくらいで、スマートで清潔感のある見た目が老婦人に信用のおける人物という印象を与えた。
「私、こういう者でございます」
名刺には、『MH(メモリアル・ヒューマノイド)社』と書かれていた。
「旦那様のご逝去による悲しみの日々、さぞ辛い事とお察しいたします」
男は片膝をつき、心からのお悔やみを述べているようだった。老婦人は戸惑いながらも頭を下げた。やがて男は絶妙な間を見計らって、「実は私どものサービスが、多少なりとも今の奥様のお力になれるのではと思い、お伺いした次第です」と言葉を続けた。
彼の説明によると、MH社では故人と見紛うほど精巧に造られたアンドロイドを提供できるらしい。それは顔や上半身だけが動く人形レベルのものではなく、本人のDNA情報を含むあらゆる身体的特徴が復元され、足の指先まで全身が自由に可動するものだ。最も重要な部位である脳に関しては、故人が生前、SNS上に残したデジタル情報や近親者からヒアリングした想い出や性格、習慣、癖などを学習した最新型のAIが搭載され、本人と同じ知識を持ち、考え、会話し、行動する。そんな限りなく生身の故人に近い身体と頭脳を持ったアンドロイドの開発が可能になったというのだ。しかも製造工程の工夫や多岐にわたる企業努力により、その価格は老婦人のささやかな蓄えからでも十分に捻出可能だった。
「限りなく生身の人間に近いと言っても、やっぱり違和感はあるんじゃないかしら。現物を見てみないことには……」
老婦人は、関心はあるものの、懐疑的にならざるを得なかった。すると男はおもむろに、「現物は今まさに、奥様にご覧いただいております」と言って、頭部を七三分けの髪ごとヘルメットのように持ち上げた。中には精巧な電子部品らしきものでできた人工頭脳が現れた。彼自身が商品のサンプルだったのだ。
「驚いた。あなたがアンドロイドだなんて全然気づかなかった」
「皆さま、そうおっしゃいます」
男は少し得意気な顔を見せた。それもまた人間らしく思えた。
「例えば、四十代の頃の夫の姿にすることもできるのかしら?」
ますます興味を持った老婦人は男に尋ねた。せっかく造るなら、すぐに死んでしまいそうな老人より若い方がいい。
「もちろん可能です。また、故人のデータはあくまでも雛形ですので、ご要望に応じて細部をいくらでも変更することが可能です」
「どういうこと?」
「例えば故人が生前、何かのアレルギーを持っていた場合、そのアレルギーを持たない体質にすることができます。あるいは緊張しやすい性格だった場合、それを改善しておくことも可能です」
「なるほど。つまり常々不満に思っていた欠点を、この機会に全部直せるのね」
「さようでございます」
男は笑顔でうなずいた。老婦人は、夫の偏屈で意地っ張りな所や飽きっぽい性格や猫背の癖など、思いつくまま短所を挙げてゆき、それらをすべて直してもらった夫のアンドロイドを造ってもらうことにした。
一カ月後、初雪がひらひらと舞い落ちる中、オーダー通りのアンドロイドがやって来た。いろいろ迷った末に、外見の年齢は二十代に設定した。出会った頃の夫にもう一度会いたかったのだ。若々しい青年アンドロイドは紛れもなく、売れない映像作家をしていた時の夫の姿だった。老婦人は感極まり、そっと彼を抱きしめた。皮膚の感触やほのかに漂う匂いまで長年慣れ親しんだものと何ら変わりなかった。
こうして老婦人からすれば、孫みたいな歳の差のアンドロイドとの暮らしが始まった。といっても中身は七十歳の夫なので、会話はちゃんと噛み合ったし、偏屈で意地っ張りな性格も直っているから、喧嘩をすることもなかった。
夫の死によってぽっかりと空いた心の穴はそう簡単には埋まらなかったが、アンドロイドのおかげで寂しさは幾分和らいだ。
だが、アンドロイドと老婦人の穏やかな日々は、長くは続かなかった。
彼女の元に国の医療ネットワークから一通のメッセージが届いた。「余命三カ月」の通知だった。先日受けた定期検査の結果だ。診断の精度は99パーセント以上なので、老婦人は事態をすぐに受け止め覚悟を決めた。平均寿命はあくまでも平均。誰もがその歳まで生きられるわけではない。それに、先に逝ってしまった夫にまた会えるのだと思えば、死もさほど怖くはなかった。
気掛かりなのはあのアンドロイドのことだ。独りぼっちでこの世界に残していくのは忍びない。
老婦人はMH社のAIセールスマンに連絡を入れた。もう一体、自分に似せた「つれあい」のアンドロイドを造ってあげれば、寂しい思いをしないで済むと思ったのだ。
七三分けのAIセールスマンはすぐにやって来た。
「この度の診断結果、誠に残念無念の極みでございます。さて、奥様型のアンドロイドの容姿の年齢設定などはいかがいたしましょうか?」
「夫型のアンドロイドに合わせて二十代にしてもらおうかしら」
「かしこまりました。他に何か変更点はございますか?」
「そうねえ、夫の方もいろいろ直してもらったから、私の方も直しておいてあげようかな」
「具体的にはどの辺りを?」
「やっぱり、まずは性格かな。頑固で、強情で、男勝りで、口が悪い所とか。あと、お尻は実際より少し小さめにしてくれる。それから目は自然な二重で」
「了解しました」
「すぐにできるかしら?死ぬ前に一度見ておきたいの」
「善処いたします。なにぶん現在注文が殺到しておりまして、納期に多少のお時間を頂いております」
AIセールスマンは恐縮しながら言った。
「そうだったの。まあ急いで不良品を掴まされては元も子もないものね」
「最悪、奥様が先に亡くなられてしまった場合、納品はどちらへすればよろしいでしょうか?」
「私は相続人になる人もいないから、資産はすべて国の福祉団体に寄付することに決めているの。だから私が先に死んでしまったら、アンドロイドたちもその類の施設で、ふたり一緒に何か世の中に貢献できるよう取り計らってくれる?」
「承知いたしました」
AIセールスマンは老婦人の要望を、一言ももらさず手元のタブレットに入力していった。
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