サマーはお面をかぶるにかぎる

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(Ⅰ)  夏祭りは最高だった。  花火に浴衣にかき氷。それにその日は、合法的に夜遅くまで遊べる。どんな堅物の両親も、祭りの日だけは門限が解除されるのである。  そして何より最高なのは出店だ。家で食べる熱々の焼きそばもいいのだが、出店で食べる焼きそばはまた違った美味しさを感じる。味やら香りやらではなく、あの場所で食べるだけで付加価値がついてまわるのだ。  ヨーヨー釣りに金魚すくい。もう中学生になった僕にとって、今やるのは少し恥ずかしいけれど、なぜか見ているだけでも笑顔がこぼれてしまう。  花火の光が出店前の提灯を照らす。照らす役割であるはずの提灯が逆に照らされている。それを父さんに言うと、「入射角と反射角のような関係性だな」と返してきた。僕はよくわからないけど「そうだね」と言っておいた。  夏祭りは楽しいことばかりだと思っていた。でも、夏祭りにも影が落ちる場所があることを僕は知っていた。  それは、人気のない出店を担当しているおじいさんを見たときのことだ。お祭り気分というものが一瞬失われた気がした。  さらに、その隣の店がフランクフルトやたこ焼きなどの繁盛する出店で、且つ威勢のいい兄ちゃんと姉ちゃんが店番をしていたりすると、なおさら人気のない出店のおじいさんに影が落ちる。光と影。陰と陽。  僕はその風景を見ながらいつも思っていた。  なぜあのおじいさんは、数ある店の中からゲソ焼きを選んだんだろう。キュウリの一本漬けを選んだんだろう。  売れ残って萎びて見えるゲソやキュウリに、おじいさん自体を重ねてしまい、余計に悲しく見えた。  なんで、もっと人気の出店を選ばなかったんだろう。  ずっと、疑問に思っていた。今日まで。そう、今日やっとその謎が解けた。  自分がおじいさんと同じ立場になって、初めてわかったのだ。  誰も僕とは目が合わない。合ったとしても珍しいものをみるような目で見てくるだけ。  こっちを見る人は、基本的に僕の背後だけを見て足早に去っていく。  僕は今夜、父さんと二人でお面の店を出している。  出しているといっても、もちろん実費をはたいて、銀行からお金を借りて、人生をかけて出しているわけではない。ただ、町内会の祭りで、父さんが店を出す順番が回ってきたから店番をしているだけだ。  しかも担当は「お面」だ。  あの、古今東西、悲喜交交の表情をしたキャラクターを額につけて、目の部分の小さな穴からあたりを見渡しながらキャラクターになりきって楽しむ、あのお面なのである。  僕の小さい頃は、ヒーローもののお面を買ってもらって嬉しかった記憶がある。だが今ならどうだろう。きっと全く嬉しくないし、ワクワクもしない。  振り返っても、お面が飾られている背後の壁が暗いため、同じく子供に人気の金魚すくいと比較しても、華やかさがない。  今の子供はどうなのだろうか。ワクワクしないのだろうか。そもそも今の親は、お面を子供に買ってあげるという発想があまりないのではないか。  その証拠に、さっきから客なんて人っ子一人来ない。  右隣のベビーカステラと左隣のジュースの出店は常に人が並んでいる。その間に挟まれた僕たちは、うんともすんとも声を出す機会さえ恵まれない。  僕も父さんも、そして後ろで均等に飾られているお面たちも、皆同じような表情でムクッと人混みを遠巻きに眺めている。  そう。あのときのおじいさんも、好きでゲソ焼きを選んだわけではないのだろう(その可能性もあるにはあるが)。好きでキュウリの一本漬けを選んだのではない。選ばざるを得なかったのだ。  もしかしたら、暇なほうが楽だと思って選んだのかもしれない。そして当日になって暇というものの抱える辛さを味わったのかもしれない。  父さん曰く、うちの町内会では、先にどんな店が出るか決められていて、その割当はくじ引きで決められるらしい。そして、父さんはそのくじ引きでハズレを引き続けた。  その結果、待っていたのがこのお面たちだった。 「ジュースはわかるけどよぉ、この暑さだから。でもベビーカステラなんて、そんな食べたいか? 口の中の水分全部持ってかれるぞ。だからかしらんが、ベビーカステラ買ったあとジュースの列並んでるやつら多いけど、そんなんだったら、最初からどっちも食わないほうがいいんじゃないか?」  父さんが僕にだけ聞こえるくらいの声で、憎まれ口を叩く。言ってることもわからないではないが、現状を見ると僻みにしか聞こえない。 「そうだよね、わざわざ僕らの店をスキップしてジュース屋に並ばなくてもいいのにね」  僕は精一杯父さんに話を合わせた。  本音ではベビーカステラ買ったあと隣でお面を買って、そのあとまた隣でジュースを買う人なんていないとわかっている。  出店は色々な場所で歩きながら買うから楽しいのだ。一つのエリアで小刻みに買うのは祭りっぽくない。つまり、人気の店の隣は一見良さそうだが全く良くないのだ。  ふと、後ろを振り返る。  キティちゃんが悲しい目をしていた。ケロッピの口の形が無理やり笑っているように見える。ドラえもんは汚れが目立つ。悟空のお面は、なぜか少年時代のものだ。  あとは戦隊もの。最近のはわからないが、おそらく二期くらい前のものなのだろう。赤と青と緑がいる。赤が売り切れたらどうするのだろう。いや、その赤が売り切れることもないので、意味のない心配ごとではあるが。  なぜだろう。あのときはあんなに楽しそうに見えたお面の面々が、今はとても哀愁を帯びて見える。  父さんの様子をちらりと窺うと、まさしくケロッピのような口をしていた。  そうか、だから父さんは僕を誘ったのか。一人だと、この哀愁に耐えれなかったのだ。父さんはわかっていたんだ、この祭りが負け戦になることが。  僕としても、二人であまり喋ることもない父さんと二人で店番をするのはあまり気が進まなかったが、「お面だから調理もしなくていいし、立ってるだけでいいぞ」という言葉と、一緒に祭りに行く約束をする友人がいなかったことが引き受けた要因だった。  だが、こんなことなら面倒でも忙しくても、何か作業があったほうがむしろ楽だった。  隣でベビーカステラを華麗に焼き続ける人と、巨大なクーラーボックスに次々と入れ込む人を見ると、忙しさの中に本当の楽しさはあるのかと思う。  それに、こっちは暇すぎて本当に何もすることがないので、客側からは余計に行く意欲を失うという悪循環が生まれる。  これが服屋だったら、服を手直しするフリもできるだろうし、喫茶店ならコップを磨くフリができる。  今僕に残されたフリは、各お面を拭いていくということだろうが、そんなことをしている人を見たことがない。  ただやはり、ドラえもんのお面は明らかに汚れている。せめて、ハンカチを濡らして拭いてやろうと思ったそのときだった。ベビーカステラの列から、聞き覚えのある声がした。 「おい、あれカズキじゃね?」  そう、何を隠そうカズキとは僕のことだ。僕の名前を呼ぶその声の主はケイジロウだった。  中学二年とは思えないガッシリとした体格のケイジロウ。担任の先生よりも体格が良いケイジロウ。日焼けと短髪とサッカー部という、強さを感じる三種の神器を、彼は常に振りかざしている。  もちろん、ケイジロウが列に並びながら独りで僕の名前を言うはずもなく、その隣には取り巻きがいた。  ミツヒコ、レイナ、そしてナオちゃん。  ナオちゃん?  ナオちゃんがそこにいたことが、僕はショックだった。男子ともつるむことの多いレイナとナオちゃんが仲が良かったこともショックだった。  それ以前に、僕のこの状況を見られてしまったことはピンチでしかなかった。だが既に遅かった。僕はナオちゃん以外の三人全員と目があってしまった。  彼らは待望のベビーカステラを手に入れると、その足でソロソロとこちらへ近づいてきた。そりゃあ、逃してはくれないだろう。 「誰だ? 友達か?」と呑気な父さん。残念ながらこのあとの出来事次第で僕の中学ライフは全て終わってしまう。 「なんだよ、カズキのところ、役員だったのかよ」  ケイジロウは、そう言いながら父さんに向かって会釈をする。 「そうだよ」  早く帰れ、という意志を込めて僕は少し冷たく言った。小学校からの同級生なのに緊張した。 「へぇ、お面か〜」  ミツヒコが後ろのお面を見渡しながら、にやついている。 「セーラームーンなつかし」  レイナがナオちゃんに向かって語りかけるが、ナオちゃんは特に答えない。僕への気遣いなのか、黙っていてくれていることに申し訳無さを感じた。 「なぁ、どれか買っていってやろっか?」  ケイジロウが今度は父さんではなく、確実に僕に向かって言った。 「べ、別にいいよ」  強がりでもなく僕は言った。別にこのお面が余ろうが、うちが買い取らないといけないわけではない。ただただ残ったものは来年に持ち越されるだけだ。そのおかげで、今残ったお面は年季が入っているものが多いわけなのだが。 「そうか、いいのか……」  ケイジロウは、別に強がらなくていいのに、と言うような表情をして振り返った。  そして四人は誰が「行こうか」と言うわけでもないのに、揃って去っていった。去り際、ナオちゃんが心配そうな顔でこっちを見ていた。目は合わなかった。  ただでさえ会話のない僕と父さんだが、ケイジロウたちが帰ってからはさらにその傾向が強くなった。  僕は嘘でもいいから「別に暇だし父さん見ておくから、友達と遊んできたら?」と言ってくれることを期待していた。もちろん、今更彼らに追いつけるわけはないし、彼らと行動を共にしたいとも思わないが、せめてその気遣いが欲しかった。  自分の理想の展開を考えてみた。父さんに遊んでこいと言われたあと「あいつら、見つからなかったわ」という言い訳を携えて、一人で家でだらだらテレビを見ている自分。  それは、ここで背後にお面の視線を感じながら過ごすことよりも、遥かに健全で楽しいことに思えた。  だが、父さんは声をかけてくれなかった。他愛もない話をしてくれるわけでもない。  いったい僕は何のためにここにいるのだろう?  僕は父さんが一人で店番をすることが、なんとなく寂しいと感じることを和らげるだけの存在ではないだろうか?  自分の立っている場所から数メートル先の熱気と、こちらの静寂のコントラストを感じながら時間だけがゆっくりと過ぎていった。  祭りの夜が終わりに近づくにつれ、隣のベビーカステラの店員たちも、ジュース屋の店員たちも私語が増えた。それにより余計に僕たちの沈黙が目立つ。僕はお客の数の差よりも、その差のほうが堪えた気がした。  お面の片付けは簡単だった。水も洗剤も不要。一瞬で終わった。 「よし。父さん、事務所に報告してくる。きっと、他の出店で余った食べ物とかもらえるぞ。去年ももらえたからな」  そう言う父さんの顔は今日初めて誇らしげに見えた。僕も一応「やったぁ」と力なく返事をしておいた。   父さんを待ってる間、ベビーカステラ屋の店員たちが、このあと役員だけでお疲れ会みたいな催しがあると話をしていた。父さんからは、そんな話聞かなかった。このあと、間違いなくすぐに家に帰るだろう。  父さんは誘われていたのだろうか。誘われたうえで、断って家に帰るのだろうか。どちらかといえば、そっちでいてほしいと思った。  僕たちはおそらくどの屋台の役員よりも早く祭り会場から切り上げ、父さんの運転する車に乗って住宅街の外れにひっそりと佇む我が家に帰った。  数分前までいた祭り会場から、車で十分ほどしか離れていない場所とは思えないほど、家が別空間に感じた。  静かで真っ暗。今思えば、カラフルなお面の色彩は、わずかに場を明るくすることに寄与していたのだ。  それを感じることから逃げるように、僕は手を伸ばしてリビング兼キッチンの間の電気をつけた。 「さぁ、食べようか。好きなの食べていいぞ」  父さんが袋から三個ほどのパックを出していった。その言葉のニュアンスでは、倍くらいあってよさそうなものだった。  これが今日の報酬か。物足りなさを感じた。  一つ目を開けると、いきなりお目当ての焼きそばだった。 「僕はこれにする」そう言ったが、念のため他の二つのパックの中身も確認してから、焼きそばに手をつけた。残りはお好み焼きと、焼きとうもろこしだった。  父さんはお好み焼きを手元に引き寄せた。特に焼きとうもろこしの所在は明らかにしなかった。ということは、父さんは食べたいのだろう。ひとまず、僕も何も言わないでおいた。  そして悔しいかな、やはり屋台の焼きそばはどんなに冷めていても美味い。むしろ、冷めていてこそ屋台の焼きそばという気もする。  さらに今、目の前にいるのが父さんだけでなく、母さんや紗綾もいればもっと美味しく感じただろうか。薄暗がりに感じる蛍光灯がもっと明るく感じるだろうか。テレビの画面に映るのが難しい顔をしたコメンテーターではなく、楽しげな顔をしたタレントになっているだろうか。  食事というのは、環境によって美味しさの感じ方が変わるとも聞く。  そういえば母さんと紗綾と、もうどれくらい会っていないだろう。 「お母さんたちね、離婚するの」  その説明を受けたのは、まだ僕が小学生のときだった。もちろんその言葉の意味はわかっていた。僕が小学校五年、紗綾が四年のころだったはずだ。  僕と生年月日は約二年違うが、学年は一年違いの紗綾もなんとなくその意味を理解しているようだった。その場に父さんはいなかった。 「だからね、二人とも、どっちと暮らすか選んでほしいの。ほんとはね、お母さんたちも離婚したくなかった。あなたたちのためにも。  でも、ごめんね。どうしても母さんたち、もう一緒に暮らすことはできないの。  でもあなたたちとは一緒に暮らしたい。そして支えていきたいの。それは……父さんも一緒みたいなの。だからね、二人とも同じほうには行かないでほしいの。片方が一人ぼっちにならないように」  僕はすぐには母さんの言葉が、理解できなかった。  まだ二人が別れることで動揺していたというのもあるのだろう。だが落ち着くと、その母さんが言った言葉の指す意味が理解できた。  僕と紗綾は一応はどちらと暮らすか選ぶことができる。だが二人の行き先が被ってはいけないということだ。  つまり、少なくとも僕と紗綾は離れ離れになってしまうことが確定している。そして、もし僕と紗綾の希望が被ってしまうとすれば、一人ぼっちになってしまうのは、父さんということになるということ。  紗綾は昔からお母さんっ子だし、僕はあまり口にも態度にも出さないようにしているが、内心は母さんのほうが好きだ。  たまに学校まで車で送ってもらうとき、父さんより母さんのほうが圧倒的に嬉しいのである。ほんの数分のことなのに。それが何よりの自分の気持ちだろう。  そして、僕と紗綾が母さんを選んで被ってしまったとき、僕は兄として紗綾の希望を叶えるだろうということも明らかだった。  つまり、最初から結果は決まっているということだ。それなら、わざわざ紗綾に「譲ってもらった」という罪悪感を抱かせる必要などない。  だから僕は、最初から父さんと暮らす道を選んだ。  そのとき紗綾は意外な顔をしていたが、母さんは僕の気持ちがわかったような顔をしていた。  母さんもこうなることはわかっていたのだろう。そう思って、父さんがどちらかとは暮らすことのできる条件を飲み込んだ。それを受け入れるくらい、とにかく父さんと別れたかったのだろう。  先の家族の形態が決まって数週間、なんとなく終わりが近づいているのを感じながら四人での日々が続いた。  それは今思えば、小学六年のときの三月、あと数日で卒業を控えたときの心境に似ていた。僕にとっては初めての卒業式よりも先に、家族の卒業を味合うこととなった。  母さんと紗綾が今の家を出ていった日。  それは何日だったのか、何曜日だったのか、そういえば何月だったかもよく覚えていない。たぶん季節は秋頃だった。そんなものなのだ。  もしかしたら、本能がわざと覚えないようにしたのかもしれない。覚えてしまうと、その月や日にちがくるたびに悲しい想いに囚われてしまうから。  だが、二人と最後に話した内容も覚えていない。でもひとつ思うことは、母さんは僕に謝らなかったということだ。  いや、厳密に言うと、たしか最初に離婚することを伝えられたときには謝られたし、他にも何度か謝られたことがあるのかもしれない。でもそんなに回数は多くない。それは間違いない。  かといって別に謝ってほしいと思ったこともない。それによって母さんの印象が悪くなったということもない。  きっと、母さんは意識して謝ることを控えていたのだと思う。僕が被害者の意識を持たないように。  二人が家から去っていくとき。その最後のときに「じゃあね」と言われたのか「元気でね」と言われたのかもよく覚えていない。  でも、母さんも紗綾も、僕が今まで見たことのない複雑な表情をしていたように思う。  僕はその表情を見ても、特に感情的になることはなかった。ただなんとなく、二人が数泊の旅行に行ってくるくらいの感覚だった。もう一緒に暮らすことはできなくても、遠くない未来にまた会う機会は自然と訪れると思っていた。  小学生とはいえ、認識が甘かった。  三年くらい経つだろうか。  僕はあれから二人の姿を一度も見ていない。家族四人で集まる機会も、父さんに隠れてこっそり二人に会うことも一度もなかったのだ。  僕は二人の新しい住所も知らなかったし、訊かなかった。でもそれも、いつかはわかると思っていた。  それに二人は、最初は母さんの実家、ノボル伯父さんが家主の豊田家で暮らすものだと思っていた。母さんの実家までの道なら、なんとなくわかる。市は違うけど、自転車でいけない距離ではない。  だから、父さんに隠れて会いに行くことは可能だと思っていた。    実際、それから一年以内に母さんの実家を何度か訪れた。  懐かしい風景がそこにはあったが、二人がいる気配はなかった。でも壁に耳をつけて中の様子を聞いていたわけでもないし、窓から中を覗いたわけでもない。なんとなくいない雰囲気がしたのだ。  だがそれも勘違いだったのかもしれない。三回目に訪れたときには、痺れを切らしてインターホンを押した。  すると中からノボル伯父さんが出てきた。ノボル伯父さんは僕の姿を見ると驚いていた。久しぶりの再会だ。  小柄とはいえ、成長した僕の姿に驚いたのもあるだろうが、なぜお前が一人で来たんだ? のニュアンスが大きかったように思う。  実際に「どうしたんだ?」と言うノボル伯父さんに対して、僕はあらかじめ用意していた「母さんに渡さなければいけないものがあって」という嘘をついた。正直に「母さんと紗綾に会いたくて」という気持ちを伝えるのは、無性に恥ずかしかったのである。  だが、嘘の甲斐もなく、ノボル伯父さんは「いや、それがな。真奈美のやつ、数日前まではうちで、紗綾ちゃんも一緒に住んでたんだけど、突然『もうさすがに悪いから出てくわね。ありがとう』って置き手紙して出ていったんだよ。俺がいてるときだったら無理やり留まらせると思ったのか、俺が仕事でいない隙に。  亜希子とおふくろはその場にいたらしいんだけど、真奈美は意志が固かったらしくてな。紗綾ちゃんは不安なのか、泣いてたみたいだった。可哀想に、本当はもうしばらくいたかったんだろうな、ここに。  で、ここを出て行って、どこで暮らすつもりなのか? ってことも訊いたらしいんだよ、おふくろが。  でも、真奈美は『あてはある』って言うだけで、場所は教えてくれなかったらしい。  それが、あては本当はなかったのか、もしくは、場所を広められるのを避けたかったからなのか、本当のところはわからないけど、とにかく何度訊いても新しい住所は教えてくれなかったらしいんだ。『また落ち着いたら連絡する』の一点張りで」  ノボル伯父さんは、少し気を遣うような素振りを見せていた。  おそらく、母さんが新しく暮らす場所を言わなかったのは、父さんにその情報がいくのを恐れていたのだろう。  それを息子と会いたくないと勘違いしないだろうか、という心配をしてくれているように見えた。 「そうなんですね。では、またもし何か母さんと紗綾のことがわかれば教えていただきたいです」  僕はそう言葉を残し、自分の電話番号を教えて去った。ノボル伯父さんは、僕が何を母さんに渡したがっているかを訊いてはこなかった。渡すものなんて何もなく、訪れた本当の理由もわかっているのだろう。だからこそ、僕を見る目に同情の感情が宿っているように見えた。  あれから、ノボル伯父さんからの連絡は一度もない。  離婚して身寄りがない女性が、世話をしてもらった実の兄にさえ住所を言わないなんてことがあり得るだろうか? 離婚したとはいえ、今後何があるかわからないのに元旦那にも住所を言わないなんてことがあり得るだろうか? それほど父さんのことが嫌いになったのだろうか?  そして僕は、それらを跳ね除けるほどの愛情を持たれていなかったのだろうか?  様々な疑問が頭の中を渦巻いた。  それらが何も解決せず、気づけば約三年の月日が経っていた。  僕は当たり前のように地元の中学に進み、なんとなく日々を過ごしていた。  そうだ。母さんと紗綾のことをこんなに考えるのも久しぶりだ。慣れは恐ろしい。あんなに二人に会いたかったのに、今では何かきっかけがないと思いだそうともしないのである。  でも、今夜は何か特別だった。  昔は、四人でよく夏祭りにいったものだった。そのときから父さんは町内会の役員ではあったが、仕事が忙しかったからなのか、屋台の店番をすることは免除されていたのだろう。  もしくは屋台は当番制で、その時期ではなかっただけなのかもしれない。四人で出かけるといえば、日曜に買い物に行って外食をするくらいだった僕たちにとって、夏祭りはかけがえのない非日常のイベントだった。  僕はヨーヨー釣りや金魚すくいで、何か景品を家に持って帰りたがっていた。父さんは射的の腕前を僕たちに見せつけていた。大して上手くはなかった。  紗綾はりんご飴を嬉しそうに歩きながら舐め、母さんはそんな僕たちの様子を見て常に笑顔だった。  家からは見えない花火も、会場の少し丘高いところに上れば、花火の上半分くらいは見えた。  そのとき僕たちは言葉を発さずとも、思いは一つだった。目線は四人ともが同じ上空で、帰り道では口を揃えて「綺麗だったね」と褒めあった。  家族の思い出は何? と訊かれれば、僕は間違いなく「夏祭り」と答えるだろう。それくらい特別だったのだ。それが今日、確信に変わった。  だからこそ、今夜の僕と父さんとの静かな時間がつらい思い出に感じる。あのときは訪れる側。今夜は迎える側。あのときは四人。今夜は二人。全てが違いすぎたのである。  同じ場所での出来事がゆえに、それがより鮮明にわかる。  目を閉じる。真っ暗闇の夜空が広がる。  そういえば今年は花火を見なかった。  翌日教室に入ると、早速歓迎があった。嫌な意味の歓迎だ。ケイジロウが近寄ってきて肩を組んできた。 「お面ちゃん。どう? 昨日はお面完売したか? あんまり売れてる様子はなかったけど」  ケイジロウの後ろにはミツヒコとレイナ、そして他にも数人の取り巻きがいた。ほとんどがニヤニヤしながらこっちを見ていた。昨日の僕の醜態を早速ケイジロウたちから聞いたのだろう。  その中にナオちゃんはいなかった。それに安心したが、逆に心配もした。 「完売してないよ」  完売どころか、全部で三個ほどしか売れていない。  大きな腕で僕の体にまとわりついてくるケイジロウに対して、なんとか声が震えないように答えた。ケイジロウは僕よりふたまわりほど大きいことはわかっていたが、思いのほか筋肉質だったことに驚いた。 「じゃあ店の接客教えてやろっか? 俺の父さん、居酒屋の経営してるから接客にはうるさいんだよ。俺も隣でよく聞いてるから知ってるんだぜ。教えてやるよ。まぁ、少なくともお面の屋台で店員がお面みたいな顔して突っ立ってたら駄目だわな」  それを聞いて、何人かの顔がほころんだ。ミツヒコは声を出して笑っていた。  僕はケイジロウともミツヒコとも、小学校からの幼馴染だった。といっても、特別同じグループだということはない。だが小学校の同級生というだけで、僕はここでも守られてる気がしていた。  二人はよく誰かにちょっかいをかけたり、ひどいときはシバいたりしていたが、それらはほとんど中学校からのやつか、小学校のときからいじめられっ子だったやつだった。  だから、僕はセーフだと思っていた。仲良くもない代わりに、何もされない。そんな細いロープの綱渡りのような関係性で、僕はなんとかやっていけていると思っていた。  だが、ロープは突然切れる。風で体を持っていかれる。落下すると、もうとめられない。  その翌日はミツヒコが家から古い仮面ライダーのお面を持ってきて、僕をからかってきた。  休み時間のたびにそれを自分で装着して、仮面ライダーの真似をして僕のところへやってきた。最初は楽しんでいたようだったが、途中からは無反応な僕に嫌気がさしたのか、こなくなった。  その代わり、僕の机の側面にあるフックに仮面ライダーのお面がかけられていた。僕がそれを隠そうとすると、「やめろよ」という視線でケイジロウが圧をかけてくる。  実行部隊のミツヒコと、それを援護するケイジロウのコンビプレイには本当に嫌気がさした。  二人のうち、どちらがムカつくと言われればそれはミツヒコだった。  ミツヒコは体格的には僕とさほど変わらない。部活もテニス部の幽霊部員らしい。テニス部の幽霊部員は、元来の帰宅部とそう差はないのではないか。心のどこかで、本気で喧嘩したら僕といい勝負なんじゃないかと思っていた。  それなのにケイジロウから目をかけられているというだけで、やりたい放題できている彼に、僕はある種の羨ましさを感じていたのかもしれない。  もしくは本当に嫌なのはケイジロウで、ただケイジロウには絶対に勝ち目がないから、心の中でその思いから逃げているだけなのかもしれない。そうだとすれば、僕にも弱い者いじめの素質があるのかもしれない。  だが、ケイジロウがいなくなれば、おそらくミツヒコはおとなしくなるはずだ。だから、どちらかを消滅させられる装置があるとすれば、僕は迷わずケイジロウのほうを選ぶだろう。  そのように、僕はマイナスな状況から少しでもプラスに転じる妄想ばかりしていた。だがその妄想は叶わない。  他にもナオちゃんがこっそり僕のところに来て「最近、ケイジロウくんたちに色々されてるけど大丈夫?」って声をかけてくれることも妄想した。そのあと二人の関係が色々と進展することも。  だが現実は甘くなかった。ナオちゃんと話す機会は元々少なかったが、あの祭の日から、さらに少なくなったような気がする。それが現実だった。  現在ケイジロウとミツヒコ、両方のターゲットになっている僕の味方をしたことが万が一バレでもしたら、次はナオちゃんがいじめられるかもしれない。そもそも、いじめられている男子に同情することはあっても、好意を持つことはないだろう。  よくレイナにいじめられている畠中さんへの自分の感情を感じ取り、僕は残念な確信をもった。  それからも僕の机のフックには何度か仮面ライダーのお面がかけられていた。無理やり、それを僕にかぶらせようとされたこともあった。  背後からケイジロウに腕をまわされて体を押さえられ、その隙に正面からミツヒコがお面をかぶせてくるのだ。  そのとき、僕は身動きがとれないとはいえ、ミツヒコに唾を吐いてやろうと思ったが、何の理性か、勇気の欠乏か、吐き留まった。唾を飲み込むと無念の味がした気がした。  そして何より、教室のうしろで無理やりお面をかぶせられている光景を皆に見られていることが恥ずかしかった。  教室中に漂っている皆の目線は、僕がお面をかぶせられたあと、一気にこっちに集まる。  皆お面の機能を知らないのだろうか。お面は装着時も小さい穴から周りが見えるのだ。そのときもナオちゃんは友達と喋っていて、こちらを気にする素振りは見せていなかった。  そんな日々が何度も何度も続いた。  僕の気持ちが休まるのは、放課後隣のクラスの青山と一緒に帰るときだけだった。  一日の終わりを告げるチャイムが解放の合図のようで、僕は毎日あの音を待っていた。そのときのチャイムの音は、例えば授業の終わりを告げるチャイムのときとは違って聴こえた。  おそらく、音は同じはずだ。でも違うように聴こえた。それくらい僕にとって、クラスでの時間は地獄というにふさわしいものだった。  僕は青山にも父さんにも担任にも、誰にもケイジロウたちからのいじめを言わなかった。言いたくないというのもあったが、言うほどではないかとも思っていた。別に毎日毎日いじめられているわけではない。  なにか箸休めのように、彼らの気が向いたときだけいじめられているような具合だった。それゆえに、慣れるということもなかったが、死にたいとも殺したいとも思わなかった。いずれ飽きるだろうと思っていた。  実際、秋が終わり冬もまもなく過ぎ去る春が近づいてくる時期になると、僕へのいじめはほとんどなくなっていた。  そのころには、ようやくクラス替えができる、という希望もあった。ケイジロウたちも、そのことに興味を奪われていたのかもしれない。やはり退屈しのぎで僕をいじめていただけなのだ。他の関心があれば、僕なんか視界にも脳内にも入らなくなるのだ。  だがそれで僕の怒りはおさまっていなかった。安堵こそすれ、僕はいじめられたことをずっと覚えていた。  二人に復讐の機会があれば、必ず実行する。この中学を卒業するまで、必ず二人の跡をつけて家を探し当てておこうと誓った。そして卒業してから、僕はなんらかの形で彼らの家に嫌がらせをしてやるのだ。  校庭に咲き始める桜を見ながら、僕はそんな思いを募らせていた。
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