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(Ⅱ)
クラス替え。
その一大イベントにて、文句が一つもなく満足だけに心を染めた生徒はいるのだろうか。
そんな生徒は存在しないはずだ。
必ずどこかに不満はあり、最低限の満足もまたある。だが基本は不満だ。
担任の先生という問題もあるにはあるが、何といっても大事なのは、どの生徒と同じクラスか、ということだ。本当にそれに尽きる。
仲の良い生徒の範囲が狭い僕としては、そこまで要望の数は多くないが、少なくともケイジロウとミツヒコとは別のクラスになりたい。これが第一次希望だった。
そして次に、ナオちゃんと同じクラスになりたい。これが二次希望であるのは、一次希望が果たされないと意味がないと、二年時のクラスでわかっているからだった。
そして次に、青山と一緒のクラスになっておきたいという具合だ。
青山とは一年のときに同じクラスだった。
やはり休み時間、一緒に過ごすことが確定できる友達は必要だと、今年、切に感じた。
そして当日。
僕は該当の三年三組の教室に入って衝撃を受けた。こんなことはあるのだろうか。
そこには、ケイジロウもミツヒコもレイカもいなかった。だがナオちゃんはいた。また同じクラスだ。
そして青山もいた。同じクラス復活だ。
こんないなくなってほしいやつらが無事いなくなって、いてほしい人がいることなんてあるのか。
いや、ある。実際に僕は夢のような現実を手に入れている。
ナオちゃんにはいきなり喋りかけにはいけないので、僕は青山のところへ行き、青山越しにナオちゃんを見た。
そういえば、僕はナオちゃんのどこが好きになったのだろう?
気づけば、いつの間にか好きになっていた。これは本能だろうか?
だがナオちゃんが初恋というのは間違いない。
だから、喋りかけにいくことができないのだろうか。初恋は人の積極性を奪う。
青山には悪いが、そんなことを考えながら喋っていた。
数ヶ月経っても、クラスには不満は一切なかった。やはりクラスが変わればケイジロウもミツヒコも、わざわざ僕をいじめにはやってこなかった。そこまで暇じゃないのだろう。彼らも断固たる意思を持って、僕をいじめていたわけではないのだ。
かといってナオちゃんとの仲も特に進展せず、退屈といえば退屈な日々だった。
そんな中、一つの嫌な行事がやってきた。それを思い出させたのは、湿っぽい父さんの顔と言葉だった。
「今年も俺たちが、祭りの出店の担当になったんだがな……」
僕は忘れ去ろうとしていた去年の悪夢を思い出さした。お面の悪夢。いじめが始まるきっかけとなった出来事。
父さんはこの期に及んで「俺たちが」という言葉をサラッと使っていた。
当然、お前もまた店番だからなという命令にも聴こえた。考えただけで地獄だった。
だが、去年僕たちの隣でやっていたような、人気の店なら悪くはないとも思う。
すっかり忘れていたが、ケイジロウたちに復讐するという思いも去年は持っていたのだ。平和な日々が、それを忘れさせていた。
そうだ。店を繁盛させて、自分の親が経営者だとばかりに自慢していたケイジロウに一泡吹かせれるチャンスかもしれないではないか。
だが父さんの次の一言が、その僅かな希望を奪い去った。
「今年も父さんたちはお面だ。すまん、またクジに負けた。どうも肝心なときに、クジ運がなくてな」
僕は固まってしまった。
二年連続、出店の担当がお面?
そんなこと、あり得るのだろうか?
もしかしたら、父さんは騙されているのではないか? クジは仕組まれているのではないか? だって、去年も祭り終わりの飲み会に誘われている様子はなかったではないか? 父さんは罪をかぶるというように、お面をかぶらされているのではないか?
どうしよう。もう行きたくない。絶対にお面の店番なんてしたくない。全国のお面職人の方々ごめんなさい。
でも、僕はもう本当にお面を見るのも嫌なんです。
当日の日は、あっという間にやってきた。楽しみにしていることは中々やってこないが、先延ばしにしたいことほどすぐにやってくるものである。
祭り当日。
僕は父さんから出店の注意事項を聞いていたが、実際は聞いていなかった。
だが、父さんはしきりに「今年は秘策がある」というようなことを言っていた。
お面に秘策も何も、あったものではないではないか。
もちろん、そんなこと口には出せなかった。
そして僕は一つの決意をしていた。
父さんには悪いが、今日は逃げさせてもらう。
せっかく手に入れた平和な日々。
お面の店をやっていることを、またケイジロウたちに見られでもしたら、再びあの地獄の日々がやってくるかもしれない。ナオちゃんに見られたら今度こそ愛想をつかされるかもしれない。いや、もうつかされているのかもしれないが。
とにかく、今日はなんとか店番をサボろうと思っていた。父さんには悪いが。
でも仕方ないだろう。僕は父さんのせいでこんな境遇になったようなものだ。
本当の離婚の原因は、はっきりとは聞いていないが、どうせ父さんの冷たいところとパワハラ気質なところが、母さんには限界だったんだろう。
だからといっては悪いかもしれないが、父さんもこれをきっかけに僕に頼るのをやめてほしい。
どうだろう、怒るだろうか。
僕がこっそり家を出ていって、そのまま祭り会場に行かず、父さんからの連絡も無視し続けたら父さんは怒るだろうか。
父さんは母さんにはよく怒っていたが、そこまで僕たち子供には怒らない。それでも独特の圧があるため、二人でいると緊張することがある。
そういえば、母さんはほとんど怒ることはなかった。
僕も紗綾もどちらかといえば真面目で、悪いことをするタイプではなかったこともあるかもしれない。
とはいえ子どもは無自覚に親を怒らす天才であるとも思う。だから、母さんが怒る機会は必ずあったはずだ。
だが、母さんは何をしても笑って許してくれた。どうしても学校に行きたくないときがあったときなど、僕は仮病をするわけでもなく「今日は行きたくない」と言えば、「そうなの、そういう日もあるわよね」と言って休ませてくれるような母だった。
普段は温厚だがキレることのある父さんに対しても、言い返しているのを見たことがない。そんな母さんが、唯一父さんに反抗したのが離婚という行動だったのだろうか。
そういえば昔、一度だけそんな母さんに怒られたことがあった。
紗綾と一緒に自転車に乗ってノボル伯父さんの家に行ったときのことだった。たしか僕が小学校四年生、紗綾がその下の三年の頃だった。
僕たちは性別こそ違えど、あまり年が離れていないこともあってか、休みの日もよく一緒に遊んでいた。
僕と紗綾はあまり顔が似ていない。僕の目はどちらかといえば切れ長だが、紗綾の目は大きいとまではいかなくても、くりんとした丸い形で、女の子らしさを強調していた。
そのころ、ちょうど僕たちは自転車を自在に乗り回せるようになっていて、近所を走らせるくらいでは飽きがきていた。
かといって周りの子たちのように、テレビゲームを買ってもらえるほど家は裕福ではなかった。
そんな折に紗綾が提案したのだ。
「そうだ、ノボルおじさんのところに行ってみようよ」
ノボル伯父さんの家は、隣の市まで行かないといけない。おそらく自転車でも一時間以上はかかるのではないか。
僕はそれまで、自転車でせいぜい三十分くらいの距離までしか行ったことがなかった。不安だった。
だが、ここで「やめとこう」と言うのは、兄の立場からすると格好悪いことに思えた。だから、迷った挙げ句行くことに決めた。もちろん、親には内緒だ。どうせ「危ないからやめておけ」と言われるに決まっている。
いざ二人で出発すると、途中からあまり見慣れない道に来てしまった。
「あれ? こんな道だっけ?」
紗綾が訊くも、僕は「大丈夫、大丈夫」と言いながらペダルを漕ぎ続けた。実際は、あまり余裕がなかった。
何度も車で通ったことのある道だから、迷うわけがないと思っていたが、車と自転車では少し景色が違った。
そのせいか、おそらく途中で曲がった道が一本ずれていたようだ。
見たことのない街路樹や家々、そしてクリーニング屋が見えたとこらで僕は自転車をとめた。さすがに戻ったほうがいい。
そのとき、紗綾が隣にいないことに気づいた。余裕がなかったからか、かなりスピードを出してしまっていたようだ。
視線の奥に紗綾はいた。かなり遅い。ほぼ漕いでいる様子もない。そして、顔を見ると紗綾は泣いていた。
「ひどい、お兄ちゃん。先々行くんだもん」
見たことがないくらい、泣きじゃくっていた紗綾。脚も痛いらしい。
何とも言えない感情になった。
挙句の果てに、紗綾は「帰ろうよ」と言い出した。
僕はなぜかそれだけは嫌だった。ここまで来たのに、それが全部無駄になるのがたまらなく嫌だった。
「絶対に紗綾を置いていかないから。ゆっくり行くから。それに道を間違った場所もわかってるんだ。もうノボル伯父さんの家はすぐそこだから」
僕は紗綾の肩を擦りながら、なんとか言い聞かした。紗綾も渋々頷いていたが、なんだか少し変な感じがした。
道を間違った場所は半信半疑だったが、数分逆走すると、なんとか順路に戻れた。
紗綾は途中から見慣れた景色に安心したのか、僕より先に自転車を漕いだ。
「着いたー」
その一言と、紗綾の笑顔に僕も安堵した。
空が薄暗く染まってきていることに気づき、時計を見ると五時になる手前だった。二時半頃出発したので予想よりも時間がかかってしまったようだった。途中、疲れた紗綾を気づかい、ゆっくり自転車を漕いだことも影響しているだろう。
僕は少し帰りが不安になった。外が明るくて、なんとか来れたくらいなのに、果たして暗くなっても無事に家までたどり着けるだろうか。
そんな僕の思いもつゆ知らず、紗綾は自転車を玄関口にとめ、嬉しそうにインターホンに近寄っていった。
「ノボル伯父さんたち、驚くかなぁ?」
本当は今すぐにでも引き返したほうがいいと思ったが、さすがにそんなことは言えなかった。
紗綾がインターホンを押すと「はい」と女性の声が聴こえた。亜希子さんだ。自分たちの名前と、来た経緯を伝えると亜希子さんは驚いていた。
まもなく玄関が開き、亜希子さんとその後ろからノボル伯父さんも出てきた。
亜希子さんは心配そうな顔をしてこっちを見ていたが、ノボル伯父さんは「よくここまで二人で来れたなー」と嬉しそうにしていた。
僕はその言葉で、努力が報われたような気持ちになれた。
「せっかくだから上がっていけよー!」とノボル伯父さんが言ってくれた。せっかくだからという気持ちと、できるだけ早く帰ったほうがいいという気持ちで迷っていると、紗綾が嬉しそうにノボル伯父さんについていった。
僕と亜希子さんは、やれやれといった感じでそれに続いた。
「すいません、では少しだけお邪魔します」
「いえいえ、ゆっくりしていってね。でも、暗くなるまでに帰ったほうがいいとは思うけどね」
亜希子さんのその言葉には少し棘があったような気がしたが、僕は気にしないふりをした。
いつも母さんと来たときに居座るリビングに案内されて、僕たちはリンゴジュースを飲ませてもらった。すっかり喉が渇いていた状態だったので、格別の美味しさだった。
亜希子さんはジュースを持ってきてくれて、少し喋ったあと台所に戻っていったが、ノボル伯父さんはずっと僕たちと喋ってくれていた。
本当にお世話好きの人なんだろうなと思った。僕も時間を忘れかけていた頃、ノボル伯父さんが「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?」と言った。
「俺が車で送ってやってもいいけど、また自転車取りに来るの面倒だろ?」
時計を見るともう六時を回っていた。
まずい。
今から迷わずに帰れたとしても、七時は越えてしまう。
僕は紗綾に「帰ろう」と鬼気迫る表情で言い、「お邪魔しました。ごちそうさまでした」とノボル伯父さんに言った。
台所にも顔を出し、亜希子さんにも同じことを言った。
亜希子さんは「気をつけてね」と言って玄関まで送りに来てくれた。最後まで心配そうな顔をしていた。
「真奈美も心配するだろうから、俺から言っといてやろうか?」と、ノボル伯父さんが言ってくれたが、僕は遠慮した。
なんとなく、そんなことをさせたほうが怒られそうな気がしたからだ。
紗綾もすっかり元気を取り戻したのか、帰りの自転車は速かった。
僕も、真っ暗になるまでに、という焦りもあったが、行きに道を間違えた反省からか、冷静さも持ち合わせていた。
それでも家に着いたのは七時を少し回った頃だった。晩御飯の時間はとっくに過ぎてしまっている。
「怒られるかなぁ」と紗綾は不安そうだったが、僕は大丈夫な気がしていた。母さんに怒られた記憶はほとんどなかったからだ。
問題は父さんだ。父さんも僕たちに対して、あまり怒ることはないが母さんに怒っている姿はよく見ていた。
残念ながら、父さんの車はあったので出掛けてはいないようだった。
僕は意を決して家に入った。すると驚いたことに、父さんは僕たちに怒らなかった。小さい頃は冒険心をとめられないだろう、というようなことを言っていた。
だが、母さんは違った。
そのとき、母さんは僕たちに初めて怒鳴った。
母さんがこんなに怒ることがあるんだと、僕は信じられなかった。涙がそこまでにじり寄ってきていた。
紗綾は泣いていた。今日はよく泣く日だ。
どんな言葉を言われたのかはよく覚えていない。ただ、連絡もなく夜遅くまで二人で遠出をしたことに対して、怒られているのは間違いなかった。
あれから、母さんがあんなに顔を真っ赤にして怒ることは一度も見ていない。
たしかに連絡もよこさずに帰ってこなければ、心配するのは親として当たり前だ。
だが、なぜあのときだけ、あんなに怒ったのだろう? 今になって疑問に思った。
まてよ。もしかすれば、ノボル伯父さんのところに行ったことが関係しているのではないか? 二人で勝手に遠出をしたということよりも、二人で勝手にノボル伯父さんのところに行ったことが気に食わなかったのではないか?
でもなぜ?
そうだとしても、理由は全く思いつかない。だが、代わりにまた一つの疑問点が生まれた。
ノボル伯父さんのことだ。
ノボル伯父さんはどちらかといえば陽気な人で、子供に対してもそれは変わらなかった。いつも親しげに喋ってくれて、それは奥さんの亜希子さんには感じなかったところだった。
だから、あのときも僕たちが来たことに喜んでくれて、家に上げてくれたのだ。まぁ、そのせいで時間が遅くなって母さんに怒られたのだが。
だがきっと、あのときノボル伯父さんがいなければ、挨拶だけして僕たちはすぐに家に帰っていただろう。
それがどうだ。
あのとき。母さんと父さんが離婚して、僕一人で母さんと紗綾を探しにノボル伯父さんの家を訪ねたときのこと。あのときは、はるばる来た僕を家に上げる素振りなど一切なかった。むしろ、どこか気まずそうだった記憶がある。
もしかすれば、やはりあのとき母さんたちはノボル伯父さんの家にいたのではないか?
母さんにそれを隠しておいてくれと頼まれていたから、僕に家に上がるように言えなかったのではないか? どこか気まずそうな雰囲気だったのではないか? あの置き手紙のエピソードも作り話だったのか?
そうだ。いくら前もって離婚を考えていたからといって、すぐ二人だけで暮らせるだろうか。
母さんは新天地でパートを始めても給料はすぐには入ってこないだろうし、稼ぎの少ない父さんがそんなに多くの慰謝料を渡しているとは思えない。
へそくりをしていたのだろうか。だとしてもまだ紗綾の高校や大学進学が残っている。あの堅実な母さんが、それに手を付けるだろうか。
そして、もしかしたら。もしかしたら、二人はまだノボル伯父さんの家に住んでいるのではないか。
その考えに思い至って、僕は急いで自転車に乗った。
数年前、紗綾と一緒にノボル伯父さんの家に行ったときと同じ自転車だ。錆びているからか、あのときよりスピードは出ない。
それでも懸命に漕いだ。もう道は間違えない。後ろにも前にも紗綾はいない。でも、今から行く場所にはいるかもしれない。
今回は一時間弱で着いた。どうやら、ひっそりと僕にも筋力はついていたらしい。
自転車を玄関口にとめる。やはり二人が住んでいる様子はない。いや、住んでいるとしても、家の外にはその兆候は出ないだろう。洗濯物は見えなかった。車は、相変わらずノボル伯父さんのものしか見当たらない。そもそも母さんは車の免許を持っていないので手がかりにはならないが。
自転車も一台しかない。これはおそらく亜希子さんのものだ。紗綾の自転車も紗綾の自転車も見当たらない。
いや、待てよ。そういえば二人の自転車は、いつの間にか家からなくなっている。いつ取りに来たのだろう。ここになら、こっそり乗ってくることは可能だろう。だが、今この玄関口には見当たらない。
どこかに隠している?
いつ来るかわからない僕と父さんのために、わざわざそんなことするだろうか。
裏庭に干していた記憶がある洗濯物が外から見えないか調べたが、どうやら玄関口からは見えない。裏庭の奥には道がないため調べられない。
だめだ。考えていても仕方ない。僕はインターホンを押すことにした。
これ以上キョロキョロしていると、不審者に間違えられてしまうかもしれない。親戚の家で通報などされてしまっては、さすがに恥ずかしすぎるし、母さんたちを探すどころではない。
ピンポーン
インターホンの音が鳴り響く。
「はい」と、相変わらず亜希子さんが出た。たしか三年前のことだったか。紗綾ときたときのことを思い出す。
そして前回、母さんと紗綾を探して一人で来たときのこと。全てが重なり合う。
どれも昨日のことのようだ。僕は哀愁に浸りきる前に、いつものように名を告げた。
返事に感情がこもっていない亜希子さんの声が聴こえた。
少しして、相変わらず玄関から現れたのはノボル伯父さんだった。ノボル伯父さんはまた笑顔でこっちにやってくる。少し老けたように見えた。
「おぉ、久しぶりだな」
そう言った瞬間、僕はダッシュしノボル伯父さんの脇をすり抜けた。
「お、おい!」と言ったときには僕は玄関に手をかけた。こうするしかなかった。僕は前回、ノボル伯父さんに言いくるめられて中に入れなかったのだ。今回も話をしていたら拉致があかないと思っていた。
そして何年ぶりかに豊田宅に入った。
懐かしい匂いを嗅ぐ暇もなく、玄関に並んだ履物を見る。昔より増えているのではないか。そして、見つけた。あるはずのない、中学生の女子が履いていそうな靴を。紗綾のだ。間違いない、このピンクの靴は紗綾のだ。
「カズキくん!」
後ろからノボル伯父さんがやってきたが、さすがに無理やり出ていかせることはできないはずだ。僕はかわいい甥っ子なのだ。
「なぜ急に?」
「わかってるんだよ、いるんでしょ。二人とも?」
僕が訊くと、ノボル伯父さんは肯定も否定もしなかった。この人がこんなに言葉に詰まるのを初めて見た気がした。
「ごめんなさい」
そう言って僕は靴を脱いで家に上がりこんだ。
リビングを見る。誰もいない。
台所を見る。亜希子さんが驚いた様子でこちらを見ていた。
僕は「おじゃまします」と言って先へ進んだ。もう誰も僕をとめられない。
和室にはおばあちゃんしかいないのはわかっているため、覗かなかった。その奧だ。その奥の階段を上って二階へ向かった。
そこには結婚してもうここにはいないノボル伯父さんの娘さん、ミカ姉ちゃんの部屋があった。
扉を開ける。そこにはおそらく三年ぶりに見る紗綾がいた。
いや、一瞬は違った人に見えた。
そう、紗綾がナオちゃんに見えた。紗綾は成長してナオちゃんに近づいていたのだ。
でも面影は残っている。身長は少し伸びているらしい。それは少し悲しく思えた。
「紗綾!」
僕は自分のほとばしる声を聴いて思った。僕は母さんに会いたかったのではなく、紗綾に会いたかったのではないか、ということを。
「お兄ちゃん……」
紗綾はあのときのような複雑な顔をしていた。その顔を見て、僕は何か嫌なことを思い出した気分になった。その記憶を探らないようにしなければと思っていたとき、扉に誰かがやってきた音がした。
振り返ると母さんだった。
母さんは数年の歳月で少し痩せていた。きっと、遠慮してあまり食事に手をつけていないのだろう。母さんは僕に会えて懐かしいという表情でも、紗綾のような神妙な面持ちでもなく、鬼気迫る顔をしているように見えた。
これが久しぶりに会えた息子にする表情だろうか。僕はまた悲しくなった。何のためにここまでやってきたのだろう。
母さんは紗綾と僕の近くまでやってきた。紗綾と目配せして、なにやら少し安堵したよう表情だった。そしてなにやら覚悟をしたような表情になった。
「カズキ。久しぶりね、大きくなって」と、ありていなことを言った。僕は頷いた。
すると、母さんは静かに語り始めた。
「そろそろあなたに話さないといけないわね」
僕は背筋を正した。
「私とお父さんが離婚した経緯。たぶんあなたは気づいていないわよね。もしかしたら気づいているのかもしれない。でも、それに蓋をしてるのよね。でないとここまでやってこないと思うから。あなたももう中学二年よね、もうそろそろその蓋を外す時が来たのかもしれないわね」
僕は母さんの言っていることがわからなかった。僕が自分で蓋をしている? そしてそれが二人の離婚に関係している? 僕はわけがわからなかった。だが、確実に胸は高鳴っていた。もちろん嫌な意味でだ。
母さんは続けた。
「私たちは確かに仲の良い夫婦ではなかった。それは結婚当初からで、でもなんとなくこのままずっとやっていくんだと思っていた。
あなたたちが小学校に行くころには、お互いもうやり直しがきくような年齢ではないと各々思っていたと思う。少なくとも私は思っていた。
別に、決定的に嫌いなところがあるっていうわけでもなかったの。ただなんとなく、お父さん……俊史さんと二人になると喋ることがなかった。それも嫌だった。でも離婚する決定的な理由はない。その宙ぶらりんなのも辛かった。
でもそんな俊史さんとの日常に光が射した。それがあなたたちが生まれてくれたことだったのよ。本当に。あなたたちがいるだけで賑やかになる。喋っていなくても場が明るくなる。子供って凄いな、と思ったの。
さらに、あなたたちは性別は違って歳もあまり離れてないのに、仲が良かった。普通は結構そういう場合仲悪くなるらしいのよ。だから仲の良いあなたたちを見てて安心してた。特に、カズキ。あなたはお兄ちゃんとして紗綾を可愛がっていた。それに感謝していたのよ。あるときまでは……」
そこで母さんは一度話を区切った。
あるとき? 何があったというのだ。そうだ、たしかに僕たちの兄妹仲は良かった。よく一緒に遊んでいた。そこに何の問題があるというんだ。
「あるとき、そう……紗綾が私に相談してきたの。それはちょうどあなたたちが勝手にノボル兄さんのところへ行って、私がかなり怒った日があったでしょ? あれから数日後の日よ。
紗綾がね、『お兄ちゃんが触ってくる』って言ってきたの」
紗綾はそれを聴くなり、下を向いた。
僕は頭が真っ白になった。そして顔は真っ赤になっていく気がした。母さんは続けた。
「私も最初は信じられなかったわ。まさかカズキがそんなことするわけない、紗綾が嘘を言っているんだって。だからあまり取り合わなかったの。次何かあったらすぐ言ってきなさいって、言うだけで。
でもそれから何日か経ってまた言ってきたの。今度はお兄ちゃんに服を脱がされたって。そのときの紗綾の顔はとてもじゃないけど嘘を言ってるようには見えなかった。だから信じたけど、この目で見るまでは、という思いもあったのは事実。
紗綾曰く、いつも二人で遊んでいるときに、脱がされたり触られたりするみたいだから、私は一度買い物に行くふりをして窓から部屋の中を見たことがあったの。
そうしたら……
何度思い出しても、あの光景は恐怖でしかなかった。もちろん、一番辛かったのは紗綾だと思うけどね。
それからよ、カズキ。私があなたのことを軽蔑するようになったのは。親失格だと思われるかもしれないわ。でもね、私は兄妹でそんなことをすることが本当に許せなかった……だって、私も昔……」
そこでまた話は区切られた。今の話のあとにいったい何が続くというのだろう。
まさか、母さんも昔兄にそんなことをされたというのか。母さんの兄といえば……
カズキはそのあとを考えてゾクッとした。だがそれ以上に恐ろしいと思ったのは、自分が紗綾に性的ないたずらをしたいたことを完全に忘れていたことだった。意識の一枚奥にその記憶を持っていっているように、日常ではそんな記憶を携えていなかった。
だが、今母さんに言われてその奥の記憶が完全に手前にやってきた。もう紗綾の顔が見れなくなった。
「そのあとよ、あなたをどうすれば紗綾から離すことができるか。久しぶりに俊史さんとも夜中に話し込んだわ。もしかしたら、あのときが初めてだったかもしれない。そして、俊史さんが一つの提案をしてくれたの。
『離婚しよう』って。そうすれば自然と兄妹がバラバラになる、って。ただ二人に選ばせたら両方とも私を選ぶ可能性が高いから、俺が『どちらかとは住みたい』ってワガママを言ってることにして、カズキを俺と住むように説得してくれってね。それを聞いたときが、初めてだったかもしれない。
この人と結婚して良かった、って思ったの。離婚するってときにね。皮肉なものよ。あとはあなたが体験したとおり。
三年間、全く連絡もしなかったこと、あなたがここにやってきたときも兄さんに口裏を合わせて遠ざけてもらったことも、本当に悪かったと思ってる。でもあなたが紗綾の居場所を知ってしまったら、何をしでかすのか怖かったの。あんな恐ろしい顔をしながら紗綾にいたずらをするあなたをこの目で見てから、本当に私が紗綾を守らないといけないと思ったの……」
そう言って、母さんは泣きだした。紗綾もまた泣いていた。
そうか、僕は悪者だったんだ。異常者だったんだ。
そう思うと、突然離婚した理由が二人の不仲とか、父さんのパワハラだとか思っていた自分がひどく情けなく思えた。
なんてことはない、僕のせいだったんだ。家族が二つに別れてしまったのは。
僕は自分の性質を恨むと同時に、母さんも、紗綾も恨んだ。
なぜ一言声をかけてくれなかったんだ、なぜ正気に戻してくれなかったんだ、僕が異常なことをしていると気づかせてくれなかったんだ。
いや、実際は気づいていたはずだ。自分でも気がついていた。自分で蓋をしていたんだ。自分の異常な性質に。
僕は喋れなかった。何も言えなかった。そして心の奥から一つの感情が出てきた。
父さん、ごめんなさい。
僕は父さんに対して誤解していた。父さんは家族を守るため、自分が嫌な役を買って出たんだ。
父さんは、自分のせいで離婚したように僕に見せていた。
それに、いくら関係が冷えてしまっていたとはいえ、人生のパートナーと別れることになったんだ。そして、可愛い一人娘の紗綾とも別れることになった。
紗綾がお嫁にいくより、かなり早くに来た別れだった。それを自分から提案したんだ。僕に嫌悪感を持った母さんとはわけが違う。紗綾のことは大好きだったはずだ。
紗綾はあまり懐いている印象がなかったが、父さんは僕よりも紗綾と喋るときのほうがよく笑っていた。そんな自己犠牲の精神を持った父さんを僕は……
今、父さんの約束を破ってここにいることが、最低な行為に思えた。僕は最低な男に思えた。
僕は少しだけ考えて、何も言葉を発さず駆け出した。二人の顔は見なかった。見ると、今の気持ちが変わってしまう気がしたからだ。
僕は階段途中にいたノボル伯父さんに「おじゃましました」と言って二階から降り、台所にいた亜希子さんにも同様のことを言って豊田宅を出た。
もう、ここに来ることはないだろう。そして、二人に会うこともないだろう。
それは予感と覚悟の間くらいの感覚だった。
そして自転車に跨り、先を急いだ。
もちろん行き先は父さんのいる祭り会場だ。
道中でふと、僕がナオちゃんに対して紗綾の面影を感じていたのだと気づいた。僕の初恋はナオちゃんではなかった。紗綾だったのだ。
焦りと情熱、迷い、困惑。様々な感情が入り乱れた結果、どうやら僕のペダルを漕ぐスピードは普段通りくらいに落ち着いたようだった。
一時間程度で、祭り会場についた。提灯がぼんやりと橙に光っているのが、ノスタルジックな思いを助長させる。
場所はあらかじめ聞いていた。だからすぐに父さんのいるお面の店は見つかった。予想通りお面は去年と変わらない面々。客だって誰も寄り付いていない。
唯一、予想と違ったのは父さんの姿だった。父さんはお面をかぶっていた。声も出していた。
「いらっしゃい、いらっしゃーい」
父さんは、今小学生に流行っているアニメのお面をかぶっていた。といっても、少し古いような気もした。三年前くらいにブームだったものだ。
「いらっしゃーい、いらっ……」
父さんが僕に気づいた。
第一声。どうしよう。謝ろうか。謝るとして、何に対して? 紗綾にちょっかいをかけて、離婚させてしまったこと? 今日父さんとの約束を破って二人に会いに行ってたこと? 父さんの家族を守るための行動に気づいてあげれなかったこと?
色々と考えたが、なぜか自分の口から出た言葉は全く種類の違うものだった。
「それいいじゃん。僕もかぶらせてよ」
父さんの動きは少しとまったが、すぐに背後にあるお面をとった。そしてそれを僕に渡した。それも三年前くらいに流行ったアニメのキャラクターだった。
三年前か。
僕は深い意味などないと知りながらも、それをかぶった。
小さな穴を通じて父さんと目があった。そしてすぐに父さんはまた前を向いて声を出した。
「いらっしゃい、いらっしゃーい。お面はいかがですか〜」
僕も続いた。
「いらっしゃい、いらっしゃい。可愛いお面ですよ〜」
その後もずっと呼び込みをしながら、時折二人で喋った。他愛もない話だった。
この日。二人ともお面をしているはずなのに、なぜか去年よりも目が合う気がした。
心のお面がとれたからかもしれない。
そんなことを思いながら、心のお面ってなんだよ、と自分で突っ込んだ。
祭りが佳境になるころ、僕たちは店を放り出して、花火がよく見える小高い丘に向かった。夢中だった。
花火が上がる。
初めて花火の全貌を見た気がした。隣を見ると、お面越しの父さんが笑っていた。
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