会いたくなったらここへ来て

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 あたしがカナコを拾ったのは、新緑のころ、空模様の怪しい土曜の夜だった。拾った、なんて人聞きの悪い表現だけど、これは後々カナコが使ったのだからしょうがない。いわく、あたしも海ちゃんに拾ってもらった、って。  翌朝の牛乳がない、と突然、冷蔵庫を開けたふみさんが言うもんだから、あたしはすかさず壁にかかった丸い時計に目を向けた。九時までにはまだ十分ほどある。行ってくる、とあたしが立ち上がるとふみさんがポイントカードでぱんぱんになった折りたたみ式の財布を放ってよこすので、そのまま近所のスーパーへと走った。外は湿気でむんとしていて、かすかに水の匂いがして、でも片道五分とかからない距離だから大丈夫だろうと高をくくっていた。そういう希望的観測はだいたい外れるものだ。案の定、蛍の光が流れるなか、牛乳一パックを抱えてスーパーから出ると滝のような雨に行く手をはばまれた。呆然としていたら、ふみさんが傘を持って現れた。まあ牛乳が買えたんだから、傘を持って出なかったことくらいは不問に処す、とふみさんは言って、二人で歩いて家に帰った。その、途中だった。  見覚えのある制服姿の女子が、目の前を横切って、傍らの公園の中へと駆けこんでゆく。こんな時間に、こんなどしゃぶりの中、しかも傘もささずに、公園に行く理由ってなんだろう。一瞬にしてあたしは考えたけれど、もちろんわからない。しかも、見覚えのあるのは制服だけではなかった。 「……充木(みつき)さん?」  思わず立ち止まったあたしを、ふみさんが怪訝そうに覗きこむ。 「どうしたの。さっきの、友だち?」 「友だちっていうか、同じクラスの子かも」  視界はひどく悪かったけれど、充木さんのことを見間違えることはないような気がした。同じクラスになったときから、充木さんは気になる存在だった。いち早く仲間を作ろうとグループになってゆく女子たちのなかで、充木さんは誰とも交わろうとせずただそこにいた。なんだか見てはいけないような気がしながら、それでも目を離せない人だった。 「傘、ないみたいだったじゃない。あんたの傘、貸してあげなさいよ。あんたはあたしの傘に入ってけばいいから」  ふみさんがそう言うので、あたしたちは後を追って園内に入った。ぐるりを常緑樹に囲まれた公園は住宅街を外れて田んぼの中にあり、鎮守の森みたいにぽつんとしている。鉄棒とブランコと、ぞうさん滑り台があるだけの小ぢんまりとした公園だ。滑り台の土台は四方が壁になってアーチ状の穴から中に入ることができる造りになっている。その穴に、プリーツスカートの裾が消えてゆくのがかろうじて確認できた。  雨宿りをしに来たんだろうか。でも、どうしてわざわざこんなところまで。 「あのう」  と呼びかけながら、あたしは穴の前にしゃがみこんで中を覗いた。外灯から届くわずかな明かりに、奥のほうで座りこむ人影が見える。思いきって、呼んでみる。 「充木さん?」 「……誰?」  おびえたような声だった。あたしはあわてて名乗る。 「あたし、望月(うみ)」 「……望月さん?」  いくぶん、ほっとしたような気配があった。それであたしもほっとした。 「やっぱり、充木さんなんだ。大丈夫? 傘、ないんでしょ? あの、これ、使う?」 「……いい。別に。……気にしないで」 「でも、もう遅いし。雨、まだまだ止まないかもしれないし」 「いいの。大丈夫だから」 「大丈夫じゃないでしょ。海も、使う? じゃないのよ。ほら、あなたも早く出てきなさい。こんなところでびしょぬれでいたらすぐに風邪ひいちゃうわ。早く帰らないと」  あたしを押しのけるようにしてふみさんが覗きこむと、充木さんは観念したように入り口付近へ顔を見せた。 「……じゃあ、借りるね。ありがとう」  そう言って、あたしの傘を手に取り弱々しく笑う。ふみさんに会釈をして、充木さんは降りしきる雨の中を歩き出した。それにしてもいったい、どうしてこんなところにいたんだろう。そう思ったのはきっと、あたしだけではなかった。 「海」 「え?」 「あの子、呼び止めて。うちに連れて帰るわよ」 「え、なんで」 「たぶん、わたしたちがここからいなくなったらあの子、戻ってくるわ。家に帰るつもりなんかないのよ」 「なんでわかるの」 「いいからほら、行くわよ」  あたしたちはふみさんの大きな傘の下で二人三脚のようにくっついて早足で追いかけ、公園を出たところで充木さんをつかまえた。うち、すぐ近くだから、雨止むまでおいでよ。そう言うと充木さんは、意外にもすんなりついてきた。玄関の三和土(たたき)でスカートの裾からぽたぽたと雫をたらしたまま立ち尽くす充木さんに、ふみさんはあたしにするのとまるで同じようにてきぱきと指示をした。 「とりあえず、お風呂入っちゃいなさい。海の服出しとくから。ええと、あなた、名前なんていうんだっけ」 「……充木、奏子(かなこ)です」 「あら、ミツキって名字なのね。カナコちゃんね。じゃあ、はい。お風呂はそこの突きあたり。廊下は拭いとくから濡れるの気にしないで。制服は干しておくからね。早く行った行った」  ふみさんがあんまりつけつけ言うので、勢いに押されたのか充木さんは言われたとおりに濡れた靴下をぺたぺたいわせながらお風呂場へ入っていった。 「ねえ、ふみさん。どうして、充木さんが帰らないって思ったの?」  お風呂場から水音がし始めたのを確認して、あたしはヤカンを火にかけるふみさんに歩みよった。 「どうしてって、まあ、それはあれね、大人の勘ね」 「大人にはそういう勘があるの?」 「ある人とない人がいるわね」 「大人になったらあたしにもわかる?」 「そんなの知らないわよ」  すっきりきっぱりそう言って、ふみさんは手を振ってあたしを追い払った。  ほどなくして、頭にタオルを巻いてあたしのパジャマを着た充木さんが台所に入ってきた。充木さんがあたしのパジャマを着ている、という状況がいまいち飲みこめなくて、思わずしげしげと見てしまう。白い肌に頬がほんのり紅くて、なんだかどきりとする。 「あのこれ、望月さんのなんでしょ? ありがとう」 「え、いや、うん。ごめん、あたしのなんかで」  思わずよくわからないことを口走ってしまうと、ふ、と充木さんの口元が緩んだ。あ、笑った、と思ったところへ、マグカップに入った紅茶が三つダイニングテーブルの上に運ばれてきた。有無を言わさず紅茶を入れるのはふみさんの常だ。マグカップの位置に沿って、あたしと充木さんがふみさんと向かい合わせるように並んで座る。いただきます、と小さく言って、充木さんがマグカップに口をつける。 「カナコちゃん、今日、泊まっていけば?」  唐突に、ふみさんが口を開く。充木さんが驚いて目を見開く隣で、同じようにあたしも目を見開いた。唐突なことを言うのも、ふみさんの常ではある。 「こんな時間だし、パジャマ着ちゃったし。あなたさえ良ければだけど」  パジャマを着せたのはふみさんだと思うけど。まあでも明日は日曜日だし。でも充木さんがここに泊まるなんて。友だちの誰もここに泊まったことないのに。なんか緊張しちゃうし。一瞬でいろんなことが頭をよぎる。 「……えっと」  充木さんの目が思案げに動き、あたしの顔で止まった。目が、合う。 「と、泊まってく? こんなところで良かったら」 「こんなところで悪かったわね」 「あ、すごくいいとこだから。遠慮なく泊まってって」  ふふ、と、今度こそ声に出して充木さんが笑った。にわかに、嬉しくなる。 「じゃあ、遠慮なく。あの、お世話になります」 「うんうん。汚いところだけど」 「汚いところで悪かったわね。ていうかあんたもうちょっと掃除しなさいよ」 「するする。もうちょっとする」 「カナコちゃん、お腹すいてない? 夕飯の残りのシチューが余ってるんだけど、食べない? すごくおいしいのができたのよ」  またしても唐突なふみさんの押しに負けたのか、充木さんは笑いながらいただきますと答えた。無理しなくていいよ、とささやくと、充木さんはとても素直な声で、食べたい、とささやき返してきた。実は、お腹すいてたの、とつけ加える。 「カナコちゃん、おうちに連絡しておきなさいね」  コンロのお鍋をかきまぜながらそう言ったふみさんの言葉に、充木さんの顔がわずかに曇る。小さく、大丈夫、とつぶやく。ふみさんは聞き逃さない。 「大丈夫じゃないわよ。心配するといけないから」 「心配になったら、電話かかってくるから。あたしが外にいるの、ママ知ってるから」  ふみさんは、振り向かずにならいいわと言って、お鍋をかきまぜ続ける。部屋の中に、シチューのまったりとした優しい匂いが広がってゆく。ふみさんの作るシチューは決まって白いクリームシチューで、必ずブロッコリーが入っている。 「あ、充木さん、ブロッコリー食べれる? シチューに入ってるんだけど」 「うん。ブロッコリー、好きよ」 「良かった」  その日、カナコちゃんはシチューをおかわりして、買い置きの歯ブラシを使って、あたしのベッドの隣に敷いたふとんで、すうすう眠った。あたしの部屋なのにあたしのほうが落ち着かなくて、なかなか寝つけなかったけれど結局あたしもすうすう寝た。 「また、いつでもいらっしゃいね」  翌朝、玄関に立った充木さんにふみさんは言った。それに対して充木さんは、はい、と笑顔で答えたのに、ふみさんは重ねて言った。 「いつでもいいから。気兼ねなしにね。もしまた滑り台の下なんかに行きたくなったら、必ずここへ来るの。いいわね?」  充木さんは、一瞬目の前で何かがはじけたように瞬きをして、それから困ったように眉尻を下げて薄く笑った。 「そんなこと言われたら、またすぐ、来ちゃうかも」 「いいじゃない。明日でも今晩でも、好きなときに来るといいわ。ね、海」 「うん、今度はもっとちゃんと掃除しとくから」 「掃除は普段からちゃんとしなさいよ」 「明日からちゃんとする」 「今日からよ」  ふふ、と充木さんは笑い声を上げ、おじゃましました、と丁寧に言って帰っていった。それが、充木さんがうちに泊まった最初の日だ。
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