会いたくなったらここへ来て

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 三日と経たないうちに、充木さんはやってきた。ちょうど、あたしとふみさんは夕飯の支度をしていた。その日は煮込みハンバーグで、安さにつられて買ったメガパックのミンチを残したところでたぶん使わないだろうから思いきって全部使っちゃおうなんて意見が一致してしまったおかげで二人ではとても食べきれないくらいの煮込みハンバーグができあがったところだった。 「お腹空いてる? 空いてるよね?」 「お夕飯食べるでしょ? 食べるわよね?」  玄関先であたしとふみさんに詰めよられた充木さんは、むしろ積極的にいただきますと言って上がってきた。  充木さんはちゃんとお泊りグッズを持参していて、お風呂上がりには長袖のTシャツにスウェットのズボン姿になってあたしのベッドの横に敷かれた布団に寝転んだ。仰向けのまま、奥の壁の天井から床までの作りつけの本棚に目をとめる。 「本、すごいいっぱいあるよね。これ全部、望月さんの?」 「ううん。ほとんどふみさんの。置くとこないからここに置いてるの。あたしのは真ん中の一段だけ」 「外国の作者ばっかり」 「ふみさん、翻訳の仕事してるから」 「え、翻訳って、すごいんじゃない?」 「そうだねえ。たぶんすごいんだと思う。よくわかんないけど」 「望月さんのところは日本人の本ばっかりね。外国の物語は読まないの?」 「だって、外国のお話ってちょっとイライラするんだよね。登場人物が自分勝手なことばっかりするし」 「自分勝手なんだ」  充木さんは楽しそうにそう言って起き上がり、本棚を一通り見分した。最初に来たときはそんな余裕もなかったのか、二度目に来た充木さんは家の中を興味深そうに眺めていた。あたしとふみさんが暮らすこの家は、のびのびと自由に草の繁茂する庭がついた木造の平屋建てだ。一戸建てなのに二階がないというのが充木さんにとっては新鮮なようだった。古くてぼろいところもあるけどなんだか懐かしい感じのするこの家があたしは大好きなのだけど、充木さんがどうかはまだわからない。  じきに梅雨に入ろうというのに、夜はまだ肌寒かった。戻ってきた充木さんはあたしのベッドにもたれて座り、足だけを自分の布団に入れた。あたしも真似をして同じように隣に座った。 「ねえ望月さん」 「ん?」 「こないだのこと、誰にも言ってないの?」 「こないだって、充木さんが泊まったこと?」 「そう。友だちとかに」 「言ってないけど」 「なんで?」 「え、なんで言うの?」  そう訊き返すと、充木さんはフリーズしたみたいにあたしの顔をじっと見て、それからゆっくりと視線を外すとともに口元を緩めた。 「何も訊かないよね。望月さんもふみさん、も」 「うん。あ、訊いたほうが良かった?」  充木さんは立てた膝に乗せた腕に顔をうずめるようにして、あたしを見て笑った。 「ううん。いい。訊かないで」 「わかった」  廊下をのしのしと歩く音がして、がらりと襖が開きふみさんが現れる。 「あんたたち、おしゃべりしてないで早く寝るのよ。カナコちゃんおやすみ。また明日ね」 「おやすみなさい」 「海もちゃんと起きるのよ」 「わかってるって」  あたしたちはそれぞれの布団に入って、手を伸ばして電気を消した。外灯の明かりでカーテンのふちがぼんやりと明るい。 「望月さん」 「なあに?」 「良かったら、望月さんもあたしのこと、名前で呼んでくれない?」  唐突で、意外なお願いだった。あたしが答える前に、充木さんは続けて言った。 「あたし、名字があんまり好きじゃないの」 「あ、そうなの?」 「うん。でも、それはクラスのみんなには内緒ね? みんなから名前で呼ばれたいわけじゃないから」 「あたしは、呼んでもいいの?」 「うん。呼んでほしい」 「わかった。じゃあ、あたしのことも、名前で呼んでくれる?」 「海ちゃんって?」 「うん。みんな、もっちーとか、望月さんとかだし」 「わかった。じゃ、海ちゃんね」 「うん。カナコ、ちゃん」 「言いにくそう」  薄明りの中から、充木さん、いや、カナコちゃんの密やかな笑い声がする。 「大丈夫、すぐ慣れるから」  あたしは言い、頭の中で何度も復唱した。カナコちゃんカナコちゃんカナコちゃん。  あの充木さんがまたしてもあたしの部屋に寝ていてあたしは充木さんのことをカナコちゃんと呼ぶことになったことが不思議な感じでなんだか現実じゃないような気持ちだった。でも胸の中はわくわくしてドキドキしていて、なかなか寝つけないような気がしていたけど、実際はものの数分で眠ってしまった。 「海、かずみから手紙来てる」  ふみさんがいつもの白い封筒を持ってきて、あたしが受け取ると横に座っていたカナコちゃんが覗きこんできた。 「手紙? 誰?」  土曜の午後、あたしたちは庭に面した掃き出し窓のある畳敷きの部屋でパズルをしていた。ふみさんが昔はまっていたというお城の描かれた3000ピースの大箱で、ちょっとやってみようかと始めたら二人で夢中になった。といってもまだ、ふちをそろえたのでようやっとというところだ。  カナコちゃんは週に二日ほどの割合で泊まりに来ていた。歯ブラシとねまきはすでに置きっぱなしで、だいたい火曜日と土曜日が多かった。私服で来るときもあれば、制服のままのときもあった。どちらにしても翌日が学校のときは早起きして一度家に帰っていた。  カナコちゃんが来ていることや、カナコちゃんのことをあたしがカナコちゃんと呼んでいることを友だちの誰にも言ってないのは、別にカナコちゃんのことをおもんぱかってのことではなかった。ただ単に、あたしが言いたくないだけだった。学校で、カナコちゃんはあたしのことを望月さんと呼ぶし、あたしもカナコちゃんのことを充木さんと呼ぶし、あたしたちは普段教室で一緒にいる友だちとの関係を崩したりはしなかった。崩したくない、というのもあったし、そういうちょっと秘密めいた感じに胸が躍っていたのもあった。  ひとまず色で分けるといいわよ、というふみさんの助言に従って、あたしたちは大量のピースでいくつかの山を作っていて、手に持っていた薄水色のピースをあたしはそのひとつに放り投げた。 「お母さんから」  封筒の表には、宛先と差出人との両方が書いてある。左上にアルファベットでカズミモチヅキとあるのがカナコちゃんにも見えたようだった。 「……ふみさんって、海ちゃんのママじゃないんだ」 「そうなの。違うの。ふみさんは、お母さんのお姉ちゃん」 「海ちゃんのママ、パリにいるの?」  パリス、という表記に、カナコちゃんは驚いたようだった。 「うん。仕事で。なんかね、研究してるの」 「研究。へえ。何の?」 「知らない」 「ふうん」  カナコちゃんは、関心のあるようだかないんだかわからない返事をして、まだ色分け前のピースの山を探って一つを取り出し、緑の山へ投げた。あたしも封筒をわきに置き、ピースの山に手を伸ばす。 「読まないの? 手紙」 「うん。いつものやつだから。月に一回くらい来るの」 「手紙ってめずらしいよね。海ちゃんのママのいるとこ、ネットとかできないの?」 「できるよ。ビデオ通話とかもしたことあるけど。でもなんか」  緑と青が半分半分のピースは、緑と青の山のどちらにするかしばらく迷う。 「……なんか?」 「うーん、なんかね、パソコンの画面の中にいるお母さんは、ちょっと」  気持ち悪い、と言うと、誤解されそうだから、違う言い方を考える。 「ちょっと?」 「えーと、お母さんなんだけど、お母さんじゃないみたいっていうか、なんか変な感じがして。お母さんが動いてそこにいて、しゃべってるんだけど。なんか苦手で。お母さんもそうみたいで。だから手紙のほうがいいの。手紙でお母さんの字を見てるほうが、ずっとお母さんみたいで」  ふうん、とカナコちゃんは、わかったんだかわからないんだかというような返事をしてまだふちだけのパズルを眺める。 「でも手紙もなんかいいね」  ぽつりとそう言ってくれたので、ほっとする。そこへ、がらりと窓が開いて庭から小さなお客さんが来た。 「海ちゃん、遊ぼー」 「あ、くもりちゃん」  ポニーテールにポロシャツとプリーツスカートで、今にもテニスを始めそうな元気な姿のくもりちゃんだった。 「くもりちゃん? ていうの?」  不思議そうにカナコちゃんが訊き、あたしは答える。 「うん。晴れの日は日焼けするから嫌いで、雨の日は濡れるから嫌いで、曇りの日が一番好きっていうから、くもりちゃん」 「それはもうずっと前のことだし。あたしもう五年生だし。今は晴れの日好きだし。雨は嫌いだけど」  そう言いながらくもりちゃんはスニーカーを脱ぎ捨ててすたすたと上がってくると、カナコちゃんの横に座った。 「このひと誰?」 「この人はカナコちゃん」 「海ちゃんの友だち?」 「そう」 「へえー、海ちゃんの友だち。カナコちゃん、キレイだね」  しげしげとカナコちゃんを眺めたあと、くもりちゃんは素直な感想を言った。さすがくもりちゃん、小学五年生、とあたしは思う。あたしはそう思っても、なかなかあらためて口に出しては言えない。はっきりとしたその言い方にカナコちゃんは思わずといった感じで笑う。 「ありがとう。でもあたし、自分の顔、あんまり好きじゃないの」 「えー、なんで? キレイなのに」 「だって、なんだか面倒なんだもん」  そうなんだー、とくもりちゃんは一応の納得をしたみたいで、パズルに興味を移し、あたしが色分けの説明をすると一人黙々と作業を始めた。 「くもりちゃんちは、すぐそこの赤い屋根の家なの」  あたしが指さした方向に、カナコちゃんはつられたようにちらりと視線を向ける。もちろん、壁にはばまれてくもりちゃんの家などは見えないけれど、なんとなくは伝わったようだった。この家の周辺は空き地や小さな畑が点々とあって、お隣さんとは壁と壁が接するほど近くはない。くもりちゃんちは斜め向かいで、庭先に家とおそろいの赤い屋根の犬小屋がある。でもその小屋の主は一年ほど前に病気で死んでしまって、今は空だ。 「あ、まさこ。来てたの。おやつ食べる?」  買い物袋を持って玄関から上がってきたふみさんが顔を覗かせた。 「食べる! おやつ何」 「シュークリームアイス」 「やったあー! カナコちゃん、シュークリームアイス好き?」 「うん。好き」  早くもなじんでいるくもりちゃんのコミュニケーション能力の高さが羨ましい。シュークリームアイスはあたしも好きだ。  カナコちゃんは、自分の顔があんまり好きじゃないんだ。キレイなのに。くもりちゃんが思ったのと同じことをあたしも思う。面倒なことって、いろいろあるんだ。誰にでも。  ひとまず三人がかりでピースの色分けだけをすませると、あたしたちはおやつを食べてくもりちゃんの要望で縄跳びの練習につきあったりした。
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