会いたくなったらここへ来て

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 お母さん、元気ですか。  海は元気です。元気すぎて大変。  昨日の夕飯はふみさんのいつものオムライスだった。ちくわとチンゲン菜が入ってるの。なかなかおいしかった。こないだは一緒に春巻き作ったよ。けっこううまく巻けた。  それから、歯医者にも行きました。虫歯が二本もあった! ショック! ちょっと削るだけだったから痛くはなかったけど、あの音嫌いなんだよね。ちゃんと歯磨きしてるのになあ。  今度、ゆーみんのバレエの発表会があるので行ってきます。何着ていこうかな。今回は前より出演時間の多い役になったみたいで、練習が大変みたい。でもすごく嬉しそうで楽しそう。いいなあとは思うけど、バレエなんてあたしには絶対ムリ。でもあの衣装はちょっとだけ着てみたい。あたしには似合わないかもだけど。  もうすぐふみさんの新しい本が出るみたい。なんだか難しい内容みたいなので、あたしはたぶん読めないけど。最近好きなのは、ライトノベルのシリーズです。お母さん、ライトノベルって知ってる?面白いよ。  勉強もちゃんとやってるよ。受験だからね。落ちたら大変。  こっちは梅雨で雨ばっかりでじめじめしてます。洗濯物が乾かないってふみさんがいつも言ってる。そっちはどうですか。  じゃあまたね。                                海より。 「最近、カナコちゃん来ないねえ」  と言ったあたしの声が、どことなく不満げだったのが伝わったのか、夕飯のしたくをするふみさんがたしなめるように言った。 「いいじゃない。何か、おうちに帰りたくない事情があったからここに来てたんでしょ。来ないってことはその事情がなくなったとか、とにかくいいことなんだから」 「まあ、そうなんだけど」  まあ、そうなのだ。あたしが不満げなのは、つまりそうだからなのだ。  めっきり、カナコちゃんが来ていない。といってもまだ十日くらいだけど、三日おきくらいに来てたから、もうずいぶん会ってないような感じがする。もちろん学校には来ているから顔は見ているんだけど、学校でのカナコちゃんは充木さんであって、カナコちゃんではない。あたしの部屋で寝転んで、あたしの本棚を探って手あたり次第文庫本を試し読みしているカナコちゃんではない。  そう、カナコちゃんがこの家に泊まりに来ていたのは、あたしとカナコちゃんが友だちだからではない。そもそも、滑り台の下よりましだから来ていたのだ。それがわかってるぶん、不満というか、寂しいのである。 「あらちょっと海、牛乳ないわ。買ってきてよ」 「またあ? ふみさん、いつも牛乳切らしてるね」 「最後に飲んだのあんたでしょ。残り少なくなったらちゃんと言いなさいよ」 「あ、そうだった。買ってくる」  ふみさんのレシートでぱんぱんの財布とエコバッグを持って台所を出ると、後ろから声が追いかけてくる。 「靴箱の上、ちゃんと出しときなさいよ」 「はーい」  靴をはき、玄関を出る前にぺらりとした薄い封筒をエコバッグに放りこむ。  いつのまにか雨が上がって、地面は乾いていた。薄灰色の雲の切れ間に暮れかけた水色の空がのぞいている。風はいくぶん湿気を含んでいるけれど、昼間より気温が下がって気持ちがいい。くもりちゃんちを行き過ぎてスーパーのあるほうへ曲がろうとしたら、丁字路の先からこの辺では見かけないキレイな子が歩いてくるのが見えた。思わず飛び上がりそうになる。カナコちゃんだ。両手を上げて大きく手を振ると、肘にかかったエコバックがぶんぶん揺れる。 「カナコちゃーん!」 「海ちゃん!」  カナコちゃんがあたし目がけて駆けてくる。だぼっとしたデニムに大きめのTシャツ姿で、ラフなのにあいかわらず見栄えがいい。 「久しぶりー」  待ちきれず、あたしも近寄ってゆく。 「毎日学校で会ってるんだけど」   ふふ、とカナコちゃんは笑いながら、残念そうな顔をする。 「なんか急に、海ちゃんとこに行っちゃだめってママが言うから。迷惑でしょって。今まで何にも言わなかったのにね」 「そうなんだー。全然迷惑じゃないのに」 「ほんとに?」 「ほんとほんと。ふみさんだって、人数多いほうがごはんの作りがいがあるって言ってたし」 「良かった。今日は土曜日だし、むりやり来ちゃった。海ちゃんどこ行ってるの?」 「スーパー。牛乳買いに。カナコちゃんも行く?」 「行く行く」  カナコちゃんとスーパーに行くのは初めてだ。一人で買い物に行くのは慣れてるけれど、カナコちゃんと一緒だと全然景色が違って見える。あたしは小さな畑と水路の間の道を曲がって、ちょっとした林の中へと入ってゆく。 「この道、初めて通るかも。大通りのところのスーパーじゃないのね」 「あっちほど大きいスーパーじゃないけど、こっちのほうが近いの」  緩やかな坂を上って、湾曲した道を下ると視界がひらけ、住宅地の中の小さな商店街に突き当たる。中村ストアはその一角にある。 「こっちのほう来たことないな。校区が違うよね」  カナコちゃんは興味深そうに辺りを見回している。 「そうなの。さっきの坂のところが境になってて、こっちは第一小と一橋中の校区なの。あたし、小学校はこっちだったんだ」 「え、海ちゃん第一小だったの?」  驚きを含んだ声で、カナコちゃんが振り返る。遠くから引っ越してきて違う中学に通うことになる子は少なくないだろうけど、すぐ隣の校区から来るのは案外めずらしいかもしれない。 「中学に上がるときにふみさんのところに引っ越したから。ふみさんちって、ぎりぎり校区が隣だったんだよね」 「じゃ……、海ちゃん、それまではふみさんのところに住んでなかったんだ」 「本当はね、卒業前に引っ越してたんだけど、あとちょっとだからって、学校が許してくれて、三学期だけはふみさんちから第一小に通ってた」 「それって、海ちゃんのママがパリに行ったからなの?」 「うん、お母さんが急にパリに行けることになって、それはもうずっと前からのお母さんの希望で、でもうち、小6の始めごろに離婚してて、お母さんと二人で暮らしてたから、お父さんと暮らすっていうのはちょっと無くて、それで、ふみさんち」  へえ、と小さくつぶやいたカナコちゃんの反応が、同情してるのでも困惑してるのでもなさそうだったからほっとした。軽い感じで言ってみたのが良かったかもしれない。親が離婚してるなんて聞いても困るだけだろうからあんまり言いたくなくて、小学校の友だちにもどさくさにまぎれて言わずにいて、なっちゃんやまりおちゃんはゆーみんにも、クラスの誰にも言ってなかった。でも、話の流れとはいえ、カナコちゃんに打ち明けたのがどうしてなのかはよくわからない。  不意に沈黙が訪れて、お互いに次の言葉を探っているような感じがして、どうしたものかと思っていると、カナコちゃんがそっと息をはいた。 「うちも、離婚してる。でもあたしはすごく小さかったから、パパのこと全然覚えてないけど」  つぶやくみたいにカナコちゃんは言った。ママに彼氏がいるくらいだから、きっとそうなんだろうと思っていたけれど、推測するのと、それをカナコちゃんの口からちゃんと聞くのとでは、大事さが全然違う。言いたくないことを誰かに言うのは、自分でも理由はわからないけど、言いたくなったからだ。  牛乳を買ってエコバックに入れようとして、中の封筒に気づく。また忘れるところだった。帰りしな、スーパーの前の小さなポストに入れる。 「手紙?」 「うん。お母さんに返事」 「今ごろ? 来たの、だいぶ前じゃない?」 「出したつもりになってて、すっかり忘れてたんだよね」  のんびりしてるのね、とカナコちゃんはクスクス笑う。教室にいるときもカナコちゃんはけっして仏頂面というわけじゃないけど、外で会うときに見るカナコちゃんの笑い顔は一味違った。ほころぶ、という表現がぴったりあてはまる、大切にしまっておきたいような笑顔だ。  もと来た道をふみさんちの近くまで戻ったところで、散歩中の犬とリードを引いた親子連れと行き合った。その小さいほうの影に見覚えがあって驚いた。 「くもりちゃん!」 「あー、海ちゃんだ! カナコちゃんもいる!」  まだあどけなさの残る小ぶりの茶色い犬と一緒に、くもりちゃんが駆けてくる。後ろからくもりちゃんのママも追ってくる。 「海ちゃん、こんばんは」 「こんばんは。この犬、どうしたの」 「すごいでしょ。飼うんだよ」 「昌子がね、そこの公園で拾ってきたのよ。滑り台の下に隠れてたみたいでね。人懐っこいんだけど、首輪もしてないし、雨に濡れててなんだかかわいそうで。昌子も飼いたい飼いたいってうるさいし」 「いいねー、かわいい。名前つけた?」  思わずしゃがみこんで顔をのぞきこむと、茶色い毛並みの中のくりくりとした黒目が好奇心いっぱいに見上げてくる。 「雨の日に拾ったから、雨! 男の子なの」 「あれ? くもりちゃん、雨が嫌いなんじゃなかったの?」  からかうように言っても、くもりちゃんは動じない。 「だって、雨が降ってたからこの子見つけたんだもん。だから今は雨も嫌いじゃない」 「そっか。今度あたしも一緒に散歩していい?」 「いいよー。カナコちゃんも一緒に行こ」  くもりちゃんと、尻尾をぶんぶん振る雨くんに見上げられたカナコちゃんは、もちろん、とうなずいた。やったねー、約束だよー、と手を振りながら、くもりちゃんたちと別れた。 「かわいかったねえ」 「散歩楽しみね」  公園の前を行き過ぎたとき、カナコちゃんは何かを思い出したように一瞬立ち止まり、面白そうに言った。 「あの公園の滑り台の下にいたら、誰でも拾ってもらえるのね」 「え?」 「だってほら、あたしも海ちゃんに拾ってもらったし」 「拾ったなんて、そういうんじゃないよー」 「雨くんもきっと、拾ってもらって良かったのよ。あたしも、良かったし」  良かった、と言ったカナコちゃんの口ぶりが、とても暖かい響きを伴っていたので、そうかとあたしは思った。良かったのなら、良かった。どこか誇らしげなカナコちゃんの顔を見て、あのとき、カナコちゃんを拾って良かった、と心底思った。
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