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あいにく朝から雨模様だった。南の海上に台風が発生したとゆうべのニュースで言っていた。予報図ではずっと下のほうを通るらしいけれど、離れたところに影響が出るのが台風というものだ。夜半から大雨になるというので、なるべく早く帰らなくちゃいけない。
ちょっと風が強くなってきたお昼過ぎ、なっちゃんとまりおちゃんと待ち合わせして、自転車で駅前に向かった。市民文化ホールで、ゆーみんのバレエの発表会があるのだ。
「雨大丈夫かなあ」
「降るの夜っていってたから大丈夫だよ」
「昨日ゆーみんすごく緊張してたねー」
国道沿いを一列になって、大声で話しながら自転車をこいでゆく。こうして学校外でみんなで会うのはずいぶん久しぶりだ。
ゆーみんの通うバレエスクールの発表会は、年に一回ある。去年も、三人で見に行った。去年はくるみ割り人形という演目で、ゆーみんの衣装は胸元に金色の刺しゅうがあって、腰のあたりから幾重にも重ねた白いチュールが傘のように広がるとても可愛いしつらえだった。今年はカタカナのタイトルで、ロマンティックチュチュだから裾がサラサラしてすてきなの、とゆーみんは衣装について興奮して説明してくれたけど、何を言ってるのかはよくわからなかった。でもキレイな衣装を着て踊るゆーみんを見るのはとても楽しみだ。
あの、一緒にスーパーに行った日からまた、カナコちゃんは泊まりにきていなかった。いいことじゃない、とふみさんは言うけれど、いいことならそれは本当にいいのだけれど、学校で会うカナコちゃんは少し元気がなさそうに見えた。気のせいかもしれない。泊まりに来ないから元気がないんだ、と思いたいだけかもしれない。でもなんだか、浮かない顔をしてるような気がするのだ。
会場の前には長い列ができていた。プロの公演ではなくただの発表会だから、座席指定ではない。だから去年もそうだったけど、開場したら並んでいる人たちは一斉になだれこみ、我先にといい席を確保する。あたしたちも自転車をとめると、急いで列に並んだ。
「お花って、受付に預けるんだっけ」
「ロビーにカウンターがあって、そこで渡すんじゃなかったっけ」
三人でお金を出し合って買ったお祝いの花は、バスケットに入ったアレンジメントフラワーだった。まりおちゃんの自転車のカゴに入れて持ってきた。紙袋に入ったそれを、待っている間に三人で覗く。ピンクや水色のパステルカラーでまとめてもらった。色とりどりでとてもかわいく、ゆーみんによく似合っている。
そのうち、なっちゃんとまりおちゃんが今度書く予定のマンガの打合せを始めた。あいかわらずすごいなあと感心する。あたしは二人ほど熱中できる趣味というものがない。しいていえば本を読むことだけど、それも胸をはって趣味といえるほどには読まない。そんなことより、カナコちゃんはどうしてるだろうと考える。カナコちゃんが来ないから、パズルもまったく進まないままだ。別に一人でやればいいのだけど、なんとなく、一人だとやる気にならない。
やがて列がゆっくり進み始めて、開場したのだと気づいた。チケットを鞄から出して手に持ち、入り口で半券を受け取るやいなや小走りでホールに入ってゆく。三人並びの席はなかなかなくて、一階の前のほうの端っこをようやく取れた。座席についてひと息つき、もらったパンフレットの中のゆーみんの名前を探したり、生徒の紹介のところのゆーみんの写真を見たり、なっちゃんが授業中にしかかけないメガネをそうだ忘れてたと言いながら急いでかけたりしているうちに開演ブザーが鳴って場内が暗くなった。
音楽とともに照明が切り替わり、きらびやかな衣装をまとったバレエスクールの生徒さんたちが出てきてくるくる回ったり足を高く上げたり跳んだり跳ねたりする。
「あ、ゆーみんだ」
「ゆーみんだゆーみん」
「衣装キレイだね、かわいいね」
「ゆーみん上手。あ、回った」
なんてことをひそひそと言い合いながら、あっという間に時間は過ぎた。
終演後、ロビーで衣装姿のゆーみんと写真を撮った。去年も驚いたけど、近くで見るとすごいお化粧だ。小柄で細いゆーみんは、学校で制服姿でちんまりと座ってなっちゃんやまりおちゃんの話を聞いているゆーみんとはまるで違って、ちゃんとバレリーナだった。頬が上気して、全身から達成感が滲み出ている。
「終わっちゃったなー。明日から勉強だー」
晴れやかな顔でそう言うゆーみんの勉強とは、期末テストはすでに終わっているからきっと、受験勉強のことだ。ゆーみんは私立の女子高をめざしていると聞いている。
「今度さ、集まって勉強しない? うちに泊まりに来ていいよ」
めずらしく、まりおちゃんがそんなことを言うのでみんなでやろうやろうと盛り上がった。一緒になってやろうやろうと言ってはみたけれど、その日にカナコちゃんが来たらと思うと気もそぞろになるのはしょうがなかった。
夜の十時を過ぎたころだった。
予報どおり夕方から降り始めた雨は時間を追うごとに雨脚を強め、大雨警報が出ている地域もあった。
あたしはゆーみんの発表会から帰ったあと、興奮してずっとふみさんに、ゆーみんの衣装や踊りがいかに素晴らしかったか滔々と語り、スマホで一緒に撮った写真を見せ、あたしもバレエやってみたいなー、なんて調子のいいことを言い、あんた去年も同じこと言ってわよと冷たくあしらわれ、お風呂の中でも白鳥の湖の有名なフレーズを繰り返し歌ったりしていた。ゆーみんは白鳥の湖を踊ってはいないけれど。
濡れた髪を乾かし終えて、それでは今日はこれにてと部屋へ戻ろうとした矢先、屋根をたたく騒々しい雨音に混じって玄関のチャイムが鳴り響いた。
あたしとふみさんは顔を見合わせる。こんな時間に、いったい誰が来るというのだろう。しかも、こんな雨の中。
恐る恐る、ふみさんの後ろに隠れるようにして玄関へ向かう。明かりをつけると、玄関のガラスの引き戸にくっつくようにして立つ人影が見えた。明るいところから暗いほうを見ると物陰は見えにくいものだろうけど、あまりにぴたりとくっついているので、すりガラスごしに姿かたちがはっきりとわかった。
「カナコちゃんだ」
あたしは急いで鍵を開け、戸を引いた。
とたん、雨混じりの風が吹きこんでくる。滑りこむようにカナコちゃんが入ったのを確認して、素早く閉める。
「どうしたの?」
カナコちゃんはびしょ濡れだった。上下揃いで半袖と短パンの、大人ものの鮮やかな花柄のねまきを着ていた。足元ははだしにサンダルだ。
「ごめんなさい、こんな時間に。連絡しようと思ったんだけど、スマホ、忘れて」
荒い息を整えながら、言う。
「傘も、忘れちゃって。濡れたままで、ごめんなさい。でも、ここしか、……なくて」
声がどんどんか細くなる。
ここしかなくて、の前に入る言葉はきっと、行くところが、だ。
濡れて寒いのか、胸の前で組んだ指がカタカタと震えている。頬は青ざめて、唇の色は暗い。
いったいカナコちゃんに、何があったのか。気になっていてもたってもいられなかったけど、今この状態のカナコちゃんを放っておくわけにはいかなかった。それはふみさんも同じだったようで、一言めに言ったのは、カナコちゃんが最初に来たときと同じことだった。
「とにかく、お風呂入りなさい。お湯まだ抜いてないから、すぐに沸かしなおすわ。廊下は濡れてもいいから、そのまま早く。着替えは出しておくから」
「そうだよ、カナコちゃん。早く」
そう言ってあたしは、カナコちゃんの細い手首をつかんで廊下へと引っぱり上げた。ふらりと倒れこむように足を踏み出したカナコちゃんを、引きずるようにしてお風呂場へ連れていき、中へ押しこんで戸を閉める。
あたしとふみさんは、ダイニングでカナコちゃんが出てくるのを待った。外ではさらに強くなった風雨が、ときおり窓をゆすって物音をたてる。こんな中を、カナコちゃんが走ってきたのかと思うと、なんだか胸がざわざわとして、不安になる。あたしが浮かれて、白鳥の湖なんか口ずさんでいる間に。
お風呂から出てきたカナコちゃんは、頬に赤みが戻っていた。頭にはタオルを巻いていて、いつものねまきに着替えていて、いろんな部分で少しほっとした。ふみさんがテーブルの上にマグカップを三つ並べる。湯気がほう、と立ち上る。雨のせいか、空気が肌にひんやりとした。三人で、ゆっくりと温かい紅茶を飲んだ。
「落ち着いた?」
向かいから、ふみさんがカナコちゃんの顔をそっと覗きこむ。うなずいたカナコちゃんは、弱々しげに口元だけで笑い返した。
「さっきのパジャマ、派手でしょ。あれ、ママのなの。ママのお下がり。ちょっと急いでたから、サンダルもママので」
「なんで、急いでたの?」
ふみさんの問いかけは別に責めるようなものじゃなく、カナコちゃんを案じているのがその表情からもわかった。カナコちゃんも気づいているのか、マグを両手で持ったまま身を乗り出すようにして、ふみさんを見返した。
「大丈夫なの。本当に、たいしたことじゃないの。ちょっと、びっくりしただけだから。全然、大丈夫なの。……本当に」
何が、とは、ふみさんは訊かなかった。それ以上は何も言わずに、軽くうなずいただけだった。
「疲れたでしょ。二人とも、もう寝なさい」
カナコちゃんの布団は、カナコちゃんが来ない間もずっとあたしの部屋の隅に置きっぱなしだった。こないだ晴れ間があったときにふみさんが干しておいてくれたはずだ。広げた布団の上に寝転ぶと、カナコちゃんはシーツに顔をうずめた。
「……いい匂い」
「干したの、ちょっと前だけど」
「違うの。海ちゃんちの匂い。あったかくて、優しくて、安心の匂い」
そうかな、とあたしも自分のシーツをかいでみる。あたりまえだけど、いつもの匂い。
ベッドに寝転んで、寝転ぶカナコちゃんを見下ろす。隣でカナコちゃんが寝ているのが久しぶりで嬉しかった。
「じゃあ、電気消すね」
あたしが照明のヒモに手を伸ばすと、待って、とカナコちゃんの声がした。
「あの、もうちょっと、つけてちゃだめ?」
「いいよ。まだ眠くないの?」
「……うん。ちょっと」
「じゃあ、一緒に絵本見ない? こないだふみさんが翻訳した、新刊なの。外国の絵本でね、すごくかわいいの」
「見る」
あたしは本棚から平たくて幅広の絵本を取り出すと、カナコちゃんの隣に寝そべった。いろんな動物たちが登場して、ああだこうだと言いあうお話だった。内容よりも、細かいところまで描きこまれた絵を見るのが楽しかった。肩を寄せ合ってページをめくり、ここにねずみがいる、とか、このうさぎが食べてるホットケーキがおいしそう、なんて言い合っているうちにいつのまにか寝てしまった。夜中に起きて、寝ぼけたままつけっぱなしだった電気を消そうとしたら、一瞬目に入ったカナコちゃんの寝顔がやけに心細そうに見えたので、ベッドには戻らずまたカナコちゃんの隣に横になった。規則正しい寝息が近くに聞こえて、さっき、玄関を入ってきたときのカナコちゃんを思い出す。
ひどく、青ざめていた。目が、おびえるように揺れていた。組んだ指だけでなく、細い肩も、しっとりと濡れそぼった足も、全部が小刻みに震えていた。思い出すだけで、言い知れない不安に襲われる。
今、寝息が聞こえるくらい近くでカナコちゃんがすうすう寝ていることが、何よりあたしを安堵させた。ここが、カナコちゃんが落ち着いて眠れる場所で良かった。
雨音は依然、しきりに屋根や窓を打ちつけている。そばに自分ではない誰かの気配があるのを感じながら、目を閉じるとほどなくして眠りに落ちた。
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