1人が本棚に入れています
本棚に追加
「マナカ、あんた、何考えてるのッ!」
わたしは事務所から連絡を受けて、事務所を出てからわずか十分でとんぼ返りした。
理由はマナカがとんでもないことを口走ったからだ。
「アイドルをやめるって、本気で言ってるのッ!」
「……まあ、落ち着いてユイハ」
「これが、落ち着いていられるかあッ!」
マナカがいなくなれば、グループは崩壊する。マイナーなグループへと一気に凋落するのは間違いない。
だから、落ち着いていられるわけがない!
「とりあえず、座れ、ユイハ」
社長に言われて、わたしはマナカの隣に座る。社長に出された麦茶を一気に飲み干す。
「それで、どういうことなのッ!」
「落ち着けってユイハ。それを今から聞くんだから。ユイハが同席しないと理由は言わないって聞かないんだよ」
「どういうこと?」
「だから、それを今から聞くんだって。ユイハ、来たぞ」
マナカは背筋を伸ばし、凛とした佇まいで座っていた。絵になる。画面映えする。ずっと眺めていられる。本当に、綺麗で可愛くて美しい。わたしのないものを全部持っている。
マナカの薄い唇がゆっくりと開かれる。
「わたしの契約金額の上昇分の半分をユイハに上げてください。それができないなら、わたしはアイドルを、この事務所を辞めます」
わたしはきょとんとした。ナニイッテンノ?
ふと、契約書が目に入る。その契約金額は、わたしとケタが違っていた。
それを見て、強烈な右ストレートを顔面にもらったようだった。
契約金額は事務所の評価を表したものだ。つまり、わたしに対する事務所の評価は、そういうことだ。
涙が、溢れそうになる。
でも、それを止めたのはマナカの言葉だった。上昇分がいくらかは知らないが、その半分をわたしにあげると言い出した。一体、なぜ?
マナカは真っすぐな瞳で社長を見つめている。
……いや、違う。真っすぐな瞳で社長を射抜いている。怒っている。激怒している。憤怒している。え、なんで?
思考回路が全く追いつかない。
「……何が言いたいんだ?」
「端的に申し上げます」
マナカは立ち上がり、社長を見下ろす。その耳は真っ赤に染まっていた。
ああ、マナカは勇気を持ってここにいるんだ、とわたしだけが気が付く。マナカは極度に緊張すると耳が熟れたトマトのように真っ赤になるからだ。
「ユイハは、このグループの要です。ユイハは、このグループに絶対に必要な人材なんです。ユイハは、このグループにいないといけない存在なんです!」
マナカはほとんど叫ぶような大声を出していた。
初めてだった。マナカの大声を聞くのが。
「だから、ユイハはどんな手を使ってでも、このグループに引き留めておかないといけないんです! わずかでも、このグループからの脱退を考えさせてはいけないんです!」
マナカは恐らく契約金額を念頭に話をしているのだろう。わたしの契約金額は従前と変わりないことは、さっき話した。その金額つまりは評価が不当で、それに不満を持ったわたしが脱退を考える可能性がある、とでも考えているのだろう。
社長の目がわたしに動く。
「ユイハ、辞めるつもりなのか?」
わたしは反射的に視線を逸らした。
言葉に詰まってしまった。
そのつもりはない、と言い切るつもりだった。しかし、心がそれを拒絶した。心は辞めるつもりだと言いたいらしい。少なくとも、現状に満足していないことは間違いない。
冷や汗が流れてくる。心が苦しい。喉が締まる。
「ユイハ!」
突然、マナカに両頬をつぶされた。タコみたいな口になってしまう。
「ニャニスンニョ?」
マナカの瞳がわたしに向けられる。闇を知らない、光が満ち満ちた瞳。全てを吸い込んでしまう瞳。どこまでも真っすぐで真っすぐで真っすぐで……羨ましいその瞳にわたしだけが映し出される。
「ユイハ! さっきも言ったけど、このグループの人気の要はユイハにあるって断言できる! ユイハがいなくなった瞬間、このグループは終わる。だから、ユイハが辞めるつもりなら、わたしが先に辞める!」
わたしはマナカの手を払いのける。
「わたしが要? 冗談にしたって、ふざけすぎてる。これはドッキリか何か?」
自分の心が墨汁のような漆黒に飲まれるのを感じた。でも、それを止める術をわたしは知らない。
そして、その漆黒は体の内側からあふれ出てしまう。
「ああ、でも、わたしにドッキリなんて来ないか」
マナカを睨みつける。
「人気のないわたしに、ドッキリ仕掛けたって、意味ないものッ!」
自分でも驚く程、どす黒い感情が口を突いた。
それトリガーとなる。止まらなくなる。自分の漆黒の感情がうねりを上げ、口から飛び出していく。同時に、傷だらけになる。再起不能な程の重傷を負う。
「このグループにおいて、わたしはいてもいなくても同じ。マナカは知ってる? ライブでわたしのグッズだけがいつも売れ残っているの。しかも発注数はマナカの百分の一にも関わらずね。サイリウムだって、わたしの色なんて数本しかない。マナカは数百、他の子だって数十はあるのにね!」
ライブをする度に、心が削れていくのがわかる。人気がないことを痛感させられ、芸能人としての能力のなさ、天性のなさを突き付けられているようで、心がガリガリと削られていく。
世の中のみんなを元気にさせるために、アップテンポな曲を歌う度、踊る度、それに反するようにわたしの心は闇色に染まっていく。
わたしを見て!
そう叫んでも、誰にも届かない。
わたしの歌を聞け!
そう叫んでも、誰の心にも響かない。
わたしは他の四人よりも努力をしている自負はある。レッスンを欠かさないのはもちろん、自己練習だって怠らない。
踊りだって、歌だって、他の四人に劣っているとは思わない。
容姿だって、マナカは別にしても、他の三人に劣っているとは思わない。
それにも関わらず、わたしは誰にも見向きされない。どれだけ努力しても、どれだけ足掻いても、わたしは透明な存在だ。いてもいなくても変わりない存在だ。
だとしたら、わたしがアイドルを続けている理由って何?
それは考えないようにしていたことだった。考えてしまったら、行きつく答えは一つしかないから。
「わたしはいらない子なのよ。あんたと違って、必要のない子だって言ってるのッ!」
その言葉を口にした途端、自分の中で何かにヒビが入る音がした。
――パリンッ
そして、砕け散った。
心が、砕け散った。
わたしは社長の方を向いていた。
「わたし、アイドル辞めます」
気が付けば、その言葉を口にしていた。
最初のコメントを投稿しよう!