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天馬を創ったのは、すでに滅びた種族である。今や姿かたちすら分からないその種族は、上空に巨大な構造体を幾つも浮かべ、構造体のあいだを天馬にまたがって自由自在に往き来した。
主のいなくなった構造体は、ひとつところに留まることが出来なくなり、今では〈はぐれ島〉と呼ばれている。雲のように漂うそれは、時おり宙をよぎり、快晴の日に、迷惑千万な翳りを地上に落とすのだ。
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さて現今、天馬狩りは、高地族の若衆が、成年を迎えるにあたっての通過儀礼となっていた。
むろん、天馬の〈渡り〉の習性を利用して、霞網を張れば、捕えることだけは出来よう。〈はぐれ島〉につき従うように天馬は、並走して低空を翔る。それはある程度決められた雲路なので、予測することは難しくないのだ。
だがしかし、それでは真に天馬と対峙したことにはならない。成年と認められるためには、〈大地溝帯〉の崖際から投げ縄を打ち、宙を往く白い天馬を命がけで掴まえねばならない。自分で捕獲した天馬にまたがって初めて、成年と認められるのである。
この成年儀礼の場には、慣例的に、邑の娘衆も参加することが許されていた。というのも、儀礼の最後に部族の呪い師が、捕まえた天馬に薬液を飲ませる段があるのだった。鉱物を溶いて作った薬液は、天馬の翼を根腐れさせる効果がある。翼は根元から腐爛し、ごっそりと抜け落ちるのだ。
抜け落ちた翼から採れる羽根は、軽く丈夫で、しかも美しい。都邑に持ち込めば、装飾品や衣装や寝具の材料として、高値で買い取ってもらえる。ゆえに若衆から羽根をもらい受けた娘は、ひと財産を得ることができる。
つまるところこれは、一種の婿選びにもなっているのだった。立派な天馬を掴まえられる優秀な若衆を射止めた娘ほど、大いに羽根を得られるというわけである。また、翼を失くした天馬は従順になり、千里を走る優れた駒としてこれまた高く売れる。高地で産する“天馬”を、低地族は名馬の代名詞ととらえているが、文字通りの意味であることはあまり知られていない。
いずれにしても天馬狩りは、邑の若衆の成年式でありながら、婿取り式でもあるのだった。
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邑は高地のあちこちに孤立してあった。一つの邑は数十戸ほどで、どれもみな、日干し煉瓦に草葺き屋根の粗末な小屋である。人びとは山羊や駱馬といった家畜を飼い、痩せた土地で薯を作って暮らしていた。
邑々は、互いの交流を最低限にするよう低地族の〈帝国〉からお達しがなされていた。先住民が団結して反乱を興すのを警戒されていたからである。表向きは、たとえ隣邑であっても婚姻は禁じられた。
禁令は他にもさまざまあり、これを破ろうとする杜撰な企みや、まして謀叛などの不遜な謀は、すぐに察知された。というのも〈帝国〉は、邑々に密偵を忍び込ませており、一朝ことあるときでも、密な連絡を怠らなかったのである。邑びとたちは何気ない顔をしながらも、どこかしら息苦しい監視の眼を意識せずにはいられないのであった。
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この年、ハラの邑で成年儀礼に参加した十人の若衆に、ナルルという者が混じっていた。ナルルは丸顔で中肉中背、これといった特徴のない、ごく目立たない若者である。地味なのは、みてくれだけではない。いささか夢見がちな性格で呑気なところがあり、仕事の要領も良いとはいえなかった。
そんな性質が災いしてか、邑の娘衆には顧みられることが少なかった。旺盛に稼ぐようには見えないからだろう。唯一の取り柄は、語り部だった祖母の薫陶で、豊富な物語を知っていることだった。だがこのささやかな才も、暮らし向きには関わりがないと軽んじられていた。ナルルの名が口の端に上るのは、年に一度の豊年祭ーー例外的に他の邑との交わりが認められたーーのときだけであった。豊年祭には、語り部役の話が付き物だったからである。
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儀礼を彩る鮮やかな幟が、激しくはためいている。旗ざお同士を結ぶ紐には、風鐸が幾つも吊り下げられていて、木製のそれが、のべつまくなしに奏でる乾いた響きが、風音に混じる。
大地溝帯の断崖の上には、強い谷風が吹きつけている。縁に立って見下ろせば、谷底からの風に煽られ、それだけでよろめいてしまうほどだ。
ナルルはくらくらと目眩をおぼえた自分を誤魔化すため、空を見上げた。雲ひとつないのっぺりとした蒼穹に、白い光点のように太陽が燃えていた。
切り立った崖のあまりの急峻さに、足がすくんで自然と腰が引けてしまった。自分が本当に、ここから足を踏み出すことができるのか、自信がなくなってくる。
天馬狩りに使われるのは、投げ縄のみであった。眼前の大地を切り裂く大地溝帯が、天馬の通り路となっている。ここを通過する際、天馬は谷風に乗って上昇する。参加者はそこを見計らって、縄を打つのだ。
縄の一方は、腰に結わえられている。力任せに手元に引き寄せる剛力自慢もいるが、たいていは天馬に引きずられ、崖に身を躍らせる羽目になる。宙吊りになったあとは、自力で縄をのぼり、せいぜい蹴り足が当たらないように用心しながら、背にまたがるのだ。
儀礼では、亡くなる若衆も存在する。縄が外れて真っ逆さまに落ちる者、身体に絡まり思いがけない場所が締まってしまう者、ぶら下がっているあいだに崖の岩塊に激突してしまう者。不運なことに、またがった瞬間に振り落とされる者もいる。
ナルルは、陽気で親切だった、三つ年嵩の若衆が岩肌に叩きつけられたところを思い出して、身震いした。
はるかを見やると、大地溝帯の向こう岸にもたくさんの幟が立ち並んでいた。崖沿いの邑々では、この日、一斉に天馬狩りが行われる。向かいのヤナクの邑でも、人びとが集まり、儀礼が始まろうとしていた。
今日はあそこに、リリも参加しているはずだ。
ナルルは、見えるはずもないのに、リリの小柄な姿を追い求めた。
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リリと出会ったのは一昨年の豊年祭のことで、一目でたちまち心を奪われた。
彼女もまた、語り部役だった。訥々として、生まじめなだが耳に心地好い、素敵な語り口だった。ナルルはリリの語りを聞いて、ほとんど共鳴のように全身が震えるのを感じたのだった。
幸いなことにそれは、彼女も同じでいてくれたようだった。去年の豊年祭で、再びリリと相まみえたときに二人は、物語で〈会話〉をした。ナルルが〈サグとスーアンの信じがたい無情の物語〉を話し、そのあとリリが〈知恵者ホリスによる飛竜落とし〉を話した。この二つの物語は実は円環を成しており、お互いがお互いの懸歌であり返歌となっている。二人は気持ちを確かめあったのだ。
たった二度の邂逅で、どうして互いの思慕が育まれたと不思議に思うかもしれない。だが恋に落ちるとはそういうことなのだ。
*
〈はぐれ島〉はすでに、大地溝帯に差しかかっており、地上に巨大な影を落としていた。その翳りのせいではないだろが、血がスウッと足元に下がって、身体が冷えている気がする。怖気で、嘔吐感すらもよおしてくる。だが生理反応とは反対に、ナルルは奇妙に腹が据わってきた。半ばやけくそになっているのかもしれない。
ナルルは三番手だった。
群れと言っても天馬同士は、一頭一頭が離れている。片方の翼だけで人間の大人ほどもあるのだから、ぶつからないようにするには、間隔を空けねばならない。だから儀礼の受け手は、呪い師の指定した順番通りに、一人ずつことに当たるのだ。
一番手は無事に天馬狩りを成し遂げており、二番手はどうしても投げ縄が上手く天馬にかからず、今般は沙汰止みとなってしまった。
来おったぞ、と会衆が歓声をあげた。崖に天馬が迫ってきたのだ。ゴクリ、と唾を呑んでナルルは、投げ縄をかかげて振り回し始めた。遠心力で勢いをつけるのだ。
ほんの数回しのうち、出し抜けにそれが眼前を横切った。素晴らしい速度で天馬が飛び出してきて、天空めがけ駆け上がっていった。一頭、もう一頭と、立て続けに走り抜けていく。まるで純白の風のようだ。
美しい。
両翼を羽ばたかせ、しっかりと気流をつかまえている。銀色の鬣がなびいて、雪のようにキラキラと耀く。天馬など珍しくもない、何度も見たことがあるはずなのにナルルは、あらためてその気高さと力強さに息を呑んだ。
気がつけば、縄を放っていた。狙いすましたとおりの弧を描き、縄が往く。
かかった、と思った瞬間にナルルは、べらぼうな力で引っ張られた。あっという間に足が地面から離れる。一呼吸する間にはとっくに、宙吊りになっていた。
速度が、一段と上がった気がした。端で見ているときとはまた別物だ。
疾い。
迅い。
風のように馳せる。
顔に当たる空気が、固体のように感じられる。息ができない。景色が目まぐるしく変化し、頭が追いつかない。だが、あきらめるわけにはいかない。ナルルは両手に力を込める。
必死で縄をのぼりながらナルルは、場違いな感動にうち震えている。
何と言う偉大な生き物なのだ、天馬は。何と言うちっぽけな生き物なのだ、人間は。
物語に出てくる神々や英雄とはまさに、このような存在であったに相違ない。天馬から翼を奪うなどと、何と愚かで罪深い行いか。だとするならーーとナルルは、自分がしようとしていることに、急に自信がわいてくる。
縄をのぼりきったナルルは、呼吸を整え、一気に天馬の背にうちまたがった。というより、背に腹ばいでしがみついた格好だ。
馬はあまり鳴かない動物だが、天馬は鳴き声を発する。この点、どちらかというと天馬は、鳥に近い習性を持っている。仲間同士、地鳴きで会話をするのだ。
天馬の首根っこにかじりついたまま、ナルルは語りはじめた。〈知恵者ホリスによる飛竜落とし〉の中に、ホリスが天馬に話しかける場面がある。忘れられたその言語は、今ではもはや意味をなさない呪文のようであったが、優れた語り部であるナルルは、それを忠実に再現した。
天馬がナルルの語りに反応する。その様子に力づけられたナルルは、まるで知恵者ホリスその人のようにしゃべり続けた。ナルルの意をくんで、天馬が旋回した。
大地溝帯の対岸、ヤナクの邑が、みるみる近づいてくる。邑びとの悲鳴や怒号が大きくなる。
ナルルが頼むと、天馬は望み通りの進路で宙を駆けた。その先にはーー笑顔をはじけさせたリリがいた。逃げまどい、頭を庇って倒れ伏す邑びとの中でリリは、凛然と立ち尽くしていた。
ナルルは身を乗り出して、手を伸ばす。すれ違いざま二人の手が、しっかりとつなぎ合わされた。力の限り引き上げると、背後にうちまたがったリリの腕が巻きつく。その温もりをナルルは、確かに、感じた。
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ナルルとリリがその後どうなったのか、誰も知らない。口さがなく、野垂れ死んだと言う者もいたが、〈はぐれ島〉に渡ったと、したり顔に言う者もいた。
ただ一つ確かなことは、二人の道行きは語り部によって、後世まで口承されていったのである。
(了)
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