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外崎茜は、包丁を振り下ろす。
ダンと大きな音がして、頭がゴロリと落ちる。
頭さえ落としてしまえばただの肉だ。
骨と肉を丁寧に解体する。骨はまとめ、肉は細切れにする。
「お疲れ様、今日もありがとう。仕事が丁寧だから本当に助かるよ」
濃紺の光沢ある高級スーツを着た男が、下処理が終わり薬液に浸かるそれを確認する。
「いえ、カミヤさんのお役に立てて、嬉しいです」
茜は頬を赤らめて微笑む。彼に褒められるのは嬉しい。
怒鳴られ、殴られて、親に売られても無様に生きてきたから。
「今日はこれを頼むよ。茜ならできるよね」
「はい、お任せください」
その言葉に、どんなオーダーでもこなせる力が湧いてくる。
調理台の上の汚れた黄色のブヨブヨとした塊肉を確認する。手足は結束バンドでまとめられ、口には布が押し込んであった。
首についているタグには、外崎由紀夫と書いてある。茜の眉はぴくりと動く。
「子どもを売った金はもうないんだって。でもさ、借金は一円も減ってないんだ。巡り巡って、僕の所に来たってわけさ」
「それは……僥倖ですね」
驚くほど低い声が出た。まだ自分にこんな感情が残っていたとは。
「さあ、今日も君の至高の技を見せて」
カミヤが茜の頭を撫でると、胸をざわつかせる得体の知れない感情は、一瞬で消えた。カミヤの温かい手は、まるで干天の慈雨だ。
茜は塊と対峙する。肉は茜を見ると、屠殺場の牛の様に涙を流す。
「……あ、あがね……。おどぅざんを、だす……げて……くれ。すまな……かっ」
「………………」
包丁を握り、迷いなく振り下ろす。カミヤがその無駄のない包丁使いに「ほう」と感嘆する。
皮を剥がし、肉を細かく刻む。全てを綺麗に下ろすと「いつもながら素晴らしい。これからもよろしくね」とカミヤが笑う。
胸が温かくなる。
無価値な自分に価値を与えてくれた、地獄から救ってくれた彼に恩返しをする。残された希望。
(彼こそ私の幸せだ)
仕事を終えると、茜は丁寧に包丁を研ぐ。切れ味が悪いと一撃で頭を落とせないのだ。最期の瞬間、肉へ余計なストレスをかけたくない。
そう言えば、ゴリラや猿を食べる文化がある所では、調理の前に全身の毛を焼く必要があるらしい。毛を焼く工程がない分、楽かもなと満面の笑みを浮かべた。
「これをさばけ」
茜は、調理場に来た黒スーツを着たゴリラの様な見知らぬ男を見上げる。
自分を蔑む視線には敏感なため、この男は自分を見下しているとすぐに分かった。
(誰? 今日は、なぜこんな男が私の所へ?)
「あの……カミヤさん……は?」
「チッ、黙って仕事しろ」
男は舌打ちし、あご先を調理台へ向ける。
釈然としないまま、殴られたのか赤や紫のアザのある、色白でスレンダーな筋肉質の肉塊のタグを確認する。
「神谷優一朗……。え、なんで?」
「茜、ちょっとやらかして、な……。いつものように美しく殺ってくれ。終わり良ければ全て良しだ」
カミヤが苦笑いし、茜を見上げる。顔も殴られたのだろう。目の上や唇、頬は赤黒く腫れ、歯も抜けているようだった。
「口を開くんじゃねえよ!」
ゴリラ男が、カミヤを殴る。その勢いでカミヤは、調理台から転がり落ちる。手足を拘束されているため、受け身も取れず床にごろごろと転がり落ちる。
男は茜へ向かって「さっさと始末しろ!」と顔を歪めて怒鳴り、髪を鷲掴みにする。
茜は強く髪を引っ張られながら、震える手で包丁を取り、カミヤへ近づく。
「すまないな。しょうもない人生だと思っていたが、お前の手で死ねるならそう悪くもなかったのかも」
カミヤは、茜の耳元で男に聞こえないように囁く。
頭さえ落としてしまえばただの肉だ。それはカミヤでも同じ……。でも……。
包丁をいつも通りに握りしめ、呼吸を整える。
「……ありがとう」
カミヤが目を閉じる。
身体を切り裂かれるような痛みが走る。
突然、茜は身体を反転させる。
「ぐっ!? だっ、何しやがる! くそっ、いっ、いてー!」
ゴリラ男は後ろへ転倒し、尻をつく。
その腹には深々と包丁が刺さっている。
茜は男の顔へ膝蹴りを食らわせると、腹の包丁を素早く抜き取り、馬乗りになる。
肉の状態を目視し、首へ迷いなく一気に振り下ろす。
「うわあああああああ」
血しぶきが噴水の様に降りかかる。茜は包丁を握る力を緩めない。
男は動かなくなった。
茜は、顔に付いた血を乱暴にぬぐうと、カミヤの拘束を外す。
「大丈夫そうじゃないけど、大丈夫ですか?」
「ふふ、お肉の心配?」
「カミヤさんは、肉じゃないです」
「残念。茜に解体されたかったのにな」
「嫌です。カミヤさんは、私の幸せなのです。せっかく掴んだ希望を手放したくない」
「バカなやつ、せっかく僕が……」
お互いに見つめ合うと、どちらからともなく唇が重なる。
「そう言えば、ゴリラは調理前に焼くといいらしいですよ」
「はは、それ何の話?」
いつも通りの完璧な処理。調理場の何事もなかったかの様な静寂。
寄り添う二つの影は、調理場から夜の闇へと溶けていった。
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