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 誰かの話をきくとき、私はいつも不思議な気持ちでいた。皆が落としていく感情や気持ちをどうして言葉通りに読み取ってはいけないのか。どれだけちゃんときいて、みつめてみようとしても、なかなか相手の気持ちがわからない。ということに気づいたのは中学の頃だった。  通学路である同級生の男の子を見かけるたびに好きだ好きだとはしゃいでいた友人。好きって言いたいけど言えないよぉと毎日きかされていたから、その男の子と隣の席になったから、はっきり彼女の気持ちを伝えてあげた。青ざめた顔で教室に立ち尽くした彼女。卒業まで口をきいてもらえなくなった。周囲の女の子たちだって早く告白しなよとうながしていたのに、なんの説明もなく私だけが一方的に責められた。  教室の中の出来事は、私が思っている百倍は複雑な仕組みなのだと気づいたけれど、なかなかその仕組みにそって歩けるようにならなかった。  自分が可愛くないと嘆く高一のときのクラスメイト。そうだね、と肯定したら号泣された。やっぱり周囲の女の子たちには、なんでそんなこと言ったのと詰め寄られた。言い出したのは私ではなくて彼女自身だったのに。  そういうことが繰り返され積み重なって、どうにか人の表情や行動のパターンを覚えていくしかないと悟りだしたころに、あの店の前のディスプレイをみつけた。  父は、母と一瞬でも心をつなげられたのだろうか。その事実が私にどう影響するのかうまく言い表せなかった。だけど、私につながっている重要なことだと思った。店でテープをきかせてもらった。わからなかった。父の一方的な熱量は感じ取れたけど、それが母の心にどう触れるのか。わかるようになりたかった。だけど、どれだけきいても永遠にわからないとわかることも怖かった。安心はどこにあるんだろう。とまどう私の目の前で、ソファーの上のサワヤカは心地よさそうにのびをした。ここで働けばいいと言ってくれた。軽やかに笑い、朗らかに自分の気持ちを話すサワヤカ。サワヤカの目で世界をみてみたくなった。  サワヤカと落とし物をみつけて、落とし物にふれて、サワヤカの言葉をなぞる。そうすると確かにサワヤカに近づける気がした。だんだんと、真似して生きることが心地よくなった。サワヤカをなぞる私を前に出し、それまでの私は意識的に眠った。眠って眠って眠って、だんだんどこに置いたのかわからなくなるくらい存在が小さくなっていく。「どちらかというと私が<落とし物>だから」そう笑ったサワヤカに心底ほっとしていた。すっかり私自身も落とし物のように見つけられなくなっていたから。  最後にサワヤカと直接会ったのは、ある冬の夜だった。今思うと彼女の病気が診断された頃だったのだ。急に寒くなった夜で、妙に静かだったことを覚えている。晩秋から冬。ふたつの季節をつながるのを、誰もがじっと見守っているようだった。ぴんぽーん。宅配便が来るときにしか鳴らされることがないチャイムが鳴った。すでに22時をまわっている。配達ではない。あいさつし合うような隣人もいない。一度目は無視を決め込んだ。二度目は立ちあがって様子をみた。三度目以降はピンポン連打がはじまった。びびりながら覗いたドア・スコープからみえたのは、 「サワヤカ!?」 「えへ」  サワヤカが真っ白なブラウス一枚で、ちっとも寒くなさそうに立っていた。家に招き入れようとした。だけどサワヤカは「ちょっと急いでてさ」と言って、少し黙る。何かを言い淀むようなサワヤカをみるのは初めてで、様子がいつもと違うように思えた。でもきっと、それは私の感傷がつくるまぼろしかも知れない。本当は、サワヤカはさっさとこう言ったのかもしれない。 「カセットテープ」 「え?」 「カセットテープ買うって言ってたじゃん。二十歳になったら」 「言ったね。売れちゃったけど」 「じゃーん」  真っ白な息を吐き出しながらサワヤカが後ろに回していた左手を私の顔の前に突き出す。泥染みの残るカセットテープ。だっさい父の字。間違いなくあの日のものだった。「え? くれるの?」 「あげねーよ」 「貸してくれるの」 「かさねーよ」 「え? ただの自慢かよ」 「売ったげる。十万」 「・・・・・・うっわぁ」 「やっすいでしょ」 「・・・・・・うっわぁ。じゃあいらないかな」 「じゃあ、お試し期間だけ貸したげる。きいたら十万。支払いは次回ね」  そう言ってサワヤカはテープを私に押しつけた。寒さのせいか少しふるえた声でつけ加えた。 「つなげられるものはちゃんとつなげた方がいい。んじゃ!」 「え? ちょっと」  追いかけようと思ったけど私が靴を履くのに戸惑っているうちにサワヤカはさっさと歩き出し、あっという間に道を曲がって見えなくなった。部屋着のまま外気にふれていたせいで、気づいたときは体がふるえるほど冷え切っていた。  その日から私はまだ一度もテープをきいていない。十万円はさすがに高い。言葉通りに受け取る私の性質を利用したサワヤカの仕掛けたタイムカプセルだったのではないかと思い当たったのは、月野とあった帰り道だった。サワヤカが私に残すと言っていた三つの落とし物は四つになってしまった。だからといって何が起きるわけでもない。私の小さな部屋に物が増えるだけ。しかも手袋は橋山くんに返してしまった。残りは三つ。駅の裏の歩道橋を渡ったところですっかり夜になった。青暗い空の下を歩く靴底にあたる道が長い。そうして、サワヤカと最後に会った靴をうまく履けなかった夜を思い出し、テープをきいてみることを決めるとちょうど家についた。  カセットデッキを用意し、スイッチを押す。予測していた脳天気な父の歌声は流れてこなかった。風の音のようなノイズ。そうか、もうつなげることもできないのだな。そう思うと、感じていた色々なものがぱらぱら落ちていく。どう手を伸ばしても指先すらふれないような青い影の向こう。これはどうしようもないとわかると、心がふわっとした。人の心に響くようなあざやかなものはまぶしすぎて苦しくなることがあった。そう言うものがみえなくても、また同じように生きていく。それだけ。テープをとめて布団にはいる。奇妙なほど深い眠りに落ちた。  少し、不思議な夢をみた。
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