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 駅の正面からまっすぐ進み、タクシーの運転手さんが大抵昼寝している道にはいる。右手には赤い看板がすっかり白くなったパン屋さん(パンの薫りがかろうじてする)、十三年前の新刊情報のポスターがシャッターの貼ったままの本屋さん(時々営業する)、足場のないほど店内に新聞がつまれ、その真ん中におじいちゃんが毎日座る時計屋さん(年中無休)、それから不動産屋とうどん屋の間にある脇道を入り、ふたつ目の四つ角を左手に行くと驚くほど変わらない佇まいでそのアパートはまだあった。私と橋山くんは錆びた階段をのぼり、一番手前の部屋の前で立ち止まり、その扉をノックした。 「あら。来たね」  黄色いおばさんは健在で、私に笑いかけ、続いて橋山くんに笑いかける。それから白髪を黄色く染めた髪をゆらして部屋に入るよう私たちにうながした。 「どうぞ」  私は人の気持ちがわからないという自覚はある。あるけれど、今日は私の隣に立つ橋山くんの方がよっぽど私の気持ちがわからないと思っているだろう。サワヤカに会いに行こう。そう言って橋山くんと待ち合わせたのは駅前だ。 「お邪魔します」  困惑しながらも丁寧に頭を下げる橋山くん。好青年。  部屋の中は記憶の中とあまり変わっていないようにみえる。違うのはカラーボックスの上の写真立て。サワヤカの写真が飾られて、その隣にはパック入りのタピオカドリンクが置かれていた。 「死んじゃったね」  おばちゃんは特別に悲しそうな顔を作らずに言った。 「悲しくないんですか?」  すんなりきいてしまった。 「寂しいけど今さらどうしようもないしね。悲しんでたらおばちゃんの人生終わっちゃうし。いつも通りの生活の中で、サワヤカちゃんを見つけていく方が楽しいじゃない。そうだ。冷凍蜜柑食べる? サワヤカちゃんが冬に仕込んだのまだいっぱい残ってるから。毎年毎年大量に作ってくれたんだけど、さすがに今年は私ひとりじゃ食べきれなかった」  サワヤカがいなくなって、私はとても困った。困ったけど、私は仕事を休むこともなかったし、食欲がなくなることもなかった。それはとても珍しいことなのではないかと思っていた。冷たいのではないかと。 「そんなことないわよ。大概のひとはふりをしているだけ」  蜜柑をおいしそうに頬張りながらおばちゃんは笑う。 「そうとは限らないです。僕は練習していたから乗り越えられたけど、そうでなかったら大変でしたよきっと」  橋山くんがあわてて口をはさむ。 「きっとはね、来ないのよ」  同じことを私も言われた。  つなげられるものはつなげよう。サワヤカは、おばちゃんの家の落とし物は幸せだと言っていた。そのアパートを見上げていたサワヤカ。他にもたくさんのサワヤカをみつけたけど、おばちゃんを思い出したとき、私の部屋の風景が、どこか動いた気がした。目を上げた先になんの変化もみられなかったけど、窓の向こうにどこまでもみえてしまいそうな透明な夜空が続いていた。  おばちゃんと連絡をとるのは思っていたよりも難しくなかった。電話口のおばちゃんは少しだけ驚いた声をあげた。 「あら、おばちゃんに連絡くれるの案外早かったね。荷物届いた?」  おばちゃんの声は惚れ惚れするほど朗らかで、私の内側全部にその声をあててもらいたくなった。 「サワヤカは三つあげるって言ってたんです」 「うんうん」 「でも、四つみつかって。どれがサワヤカがくれたものかわからなかくなったんです。カセットテープは私、手袋は橋山くん、指輪は月野。だからおばちゃんにもあわなくちゃと思ったんです」 「覚えてくれててありがとう」  おばちゃんは少し嬉しそうになる。覚えていられたことで役立てたような気がした。 「おばちゃん、余計なことしちゃったなぁとは思ったの。サワヤカちゃんが用意した荷物にあのマニキュアいれたこと」  窓の外がいつの間に暗くなり、ずいぶん夜更かししている気分になった。でもまだ十八時前。重い空気がすべて洗い流されるような、大粒の雨がふってきた。私たちの街を覆い尽くしていく。おばちゃんが「あ、雨ね」とつぶやいた。同じ空を見ている。 「余計じゃなかったです。サワヤカにはおばちゃんもついていてくれたと知れて良かったです」  雨が大地にしみ込んでいく音をききながら、おばちゃんの話に耳を傾けた。サワヤカは長い時間をおばちゃんの部屋で過ごしていたことを知る。また来ていいですか? そう訊ねたサワヤカは本気だった。あの夏が終わる前に1回。それから半月後に。一年経つ頃には合鍵をもらって、いつでも好きなときに来て短時間を過ごしていたという。 「指輪はサワヤカちゃんとふたりで仕込んだ。大変だったよぉ」  あの日、窓をみあげて、やわらかな光が降り注いで緑の光が部屋に反射した。その光が顔にあたって、その瞬間、果てがなく寂しい気持ちになった。人生で初めてかも知れない。まっすぐ死にたい気がした。サワヤカを見ることはもうないのだと急に知った。サワヤカの色んな扉を開けてぎっしりとつまったものをもっと見ておきたかった。一緒にいて、サワヤカの落とす仕草や声や表情をテンプレートとして全部記憶できれば良かった。   だけど、おばちゃんがサワヤカと準備した日々のことを語る声をききながら、私の中で空っぽになりかけていたサワヤカの箱がぱかりと開く。知らないサワヤカがそんなにたくさん。勝手に箱にしまっていいのかな。電話口でぼうっとしてしまう。  電話の向こうでおばちゃんがやわらかく笑う気配。 「あなたの隣にいるサワヤカちゃん、私の目の前にいるサワヤカちゃん。たくさんのサワヤカちゃんがまだまだいるなんて楽しいじゃない。好きなだけうちに来て拾ってきなさい。おばちゃんだってお兄ちゃんに会えないけど、いつだって違う角度のお兄ちゃんをみつけることできるんだから」  おばちゃんの声はすっと胸の奥に入った。  私の中のサワヤカの箱は空っぽじゃない。私しかしらないサワヤカがつまっている。おばちゃんのサワヤカを入れたら元気になってきたようだ。その箱は、中身をもっと手にとってもらいたそう。 「あの、サワヤカ交換会をしませんか?」 「あらおもしろい」   橋山くんの他には店長と月野に連絡した。  店長・沢田はもう少し時間がほしいと言った。うさぎの中から響いた声だった。わかりました、と私は言った。サワヤカだったらどうやって連れ出しただろうと頭によぎらなくはなかった。一緒に乗り越えましょうよ。そう言う感じの前だけを向かせる言葉。だけどそれは借り物の言葉だ。深い海の底には届かない。それに、深い海の底からぼんやりと残骸みたいな夢を眺めているのは心地いい。私はそうやってたゆたっていたい。それだけ伝えてみた。店長・沢田は「ありがとう」と言った。さっきよりは店長が居る場所とずれのない声だった。  月野は興味ないと断った。ただし、「誰が考えたの?」ときいてきた。私だとこたえると、「へぇ」と言ってこちらの返事もを待たずに電話を切った。聞き取ったその「へぇ」はやわらかに笑っていたと後で気づいた。  橋山くんはびっくりした様子だった。だけどすんなりと来てくれた。わりと動じないようで、今はすっかりおばちゃんの話に聞き入っている。 「そりゃ、知らない一面なんてぼろぼろ出てくるわよ。死んでからが人間関係の真だなっておばちゃんなんかは思うからね。全部知ってるより知らないことが多い方がおもしろいわよ。年とともにね、記憶なんて変わってくから。死んだ後のはずなのに思い出増えていくわよ」 「本当に助かります」  橋山くんは百年分の思いを込めるようにつぶやいた。 「僕は色んなサワヤカを眺めるのが趣味みたいなもんだったから。まだ知らない顔をみつけられてなくて残念だと思っていたんです。あー、そうだサワヤカの好きな人をきいておけば良かったな。話をきけたのに」 「橋山くんは会ったんだよね?」 「その人は婚約者。サワヤカの好きな人は別にいたよ」  どういうことだよ。と問いかけたくて飾られているサワヤカの写真をみつめなおす。タピオカドリンクを両手に持ってはじけるように笑っているサワヤカは、サワヤカのままだ。 「いや、別に不貞とかじゃないんだ。お互い、一度は結婚と言うものをしてみたいと話し合って、決めたって言ってたから。そうは言っても、なんだかんだきっとそのまま上手くいったんだろうけど。そういう自然体からはじまる恋ほどだんだん色味を帯びて踊るようにのびるんだ」  さすが焼きそばをすするサワヤカに恋した恋のベテラン橋山くんだ。 「じゃあ、あなたも相手を知らないの?」 「それが心残りです」 「これから知っていくのも手ね」 「サワヤカ嫌がりませんかね?」 「あなたの中のサワヤカちゃんにきいて問題なければいいんじゃない?」   サワヤカの話はどんどんつながった。おばちゃんの好きな黄色い落とし物をたくさん持ってきてくれた話、サワヤカと橋山くんがリアルうさぎを拾った話、私とサワヤカが苦労したのろい人形の落とし物の話。どんどんつながる話の中で、サワヤカに言われたことをふいに思い出した。 「落とした物は誰かに拾われた世界で生きてくんだよ」  その声をきいたのはいつだったろう。上手く思い出せない。なんとか思い出そうとしても、がらんとした店で眠る私に制服姿のサワヤカがささやいている場面だけが浮かぶ。私の胸の上に良い感じに落ちてきた紙を見て悪戯気に笑う。なんとなくありえたことのような気がしてくる。  私は自分が座っているすり切れたカーペットの布地の感覚を忘れたくないと思った。もしかしたら店にあったソファの触り心地もこんな風だったのではないか。私とサワヤカが店に行く。店長・沢田はいない。ふたりでカップ焼きそばを作る。サワヤカはソファに、私はレジの前に座る。ぎゅっと目を閉じる。サワヤカはいない。タピオカを飲みたがることもなければ、落とし物に目をかがやかせることもない。サワヤカは消えてしまった。あの白い骨だって、もうすっかり壺の中できっと私はもう二度と触れることはできない。あとかたもない。ここにいる三人は、いつかサワヤカのことを思い出さない日が来る。サワヤカと歩くはずだった道を別の誰かと歩いていて、サワヤカとすれ違ってもきっと気づかないまま通り過ぎる。死んだのが月野だったら? 橋山くんだったら? おばちゃんだったら? きっとなんの気持ちもえぐられることなく私はなんとも思わなかっただろう。私だったら? 無理矢理想像してみようとしたけど、自分がなにか分からなくない。窓ガラスに映った私がみえる。黄色い部屋の黄色くない固まり。目が覚める感じがした。人の気持ちがわからないけど自分もわからない。だけど、毎日色んなものを落として生きている。落ちる。影が。声が。視線が。笑顔が。足音が。想いが。ねむりに。夢に。そうやって生きている。 「ちゃんとサワヤカのこと、拾えたかな」 「いっぱい拾ってあげてたじゃない」  サワヤカをただテンプレにして真似していただけなのに。おばちゃんはそれでいいのよと笑い飛ばす。料理もファッションも真似が大切よ。そうやって、好きなことを知っていくの。 「古典芸能も大抵真似から始まるよね」  橋山くんは鞄の中を整理しながら言った。 「これからは橋山くんの真似をしようと思ってた。サワヤカがいなくなった後の歩き方が分からなくて」 「それは無理だよ。真似って究極の愛だから。きっと西川さんは僕の真似できないんじゃないかな」 「サワヤカにもなれなかった」 「そりゃ西川さんはずっと西川さんだし」  そう言いながら、鞄から銀のボトルを取りだした。それと、私が返した手袋も。交換しあった話の余韻のようなものが、きゅっと静かになった。 「じゃあ、そろそろしまう?」  おばちゃんは言った。私と橋山くんはうなずいた。ここに来た目的はもうひとつある。「よーいしょぉ」  おばちゃんは明るい声で言って、膝を押さえて立ちあがる。隣の部屋につながる襖をおばちゃんが開ける。おあちゃんの家の落とし物は幸せだね。サワヤカが笑う。その部屋の真ん中には真っ黄色な布が敷いてあって、その上にたくさんの物が置かれていた。日傘、絵はがき、目覚まし時計。見知らぬ誰かのアルバムに、ビデオデッキなんてものまで置いてある。みんなサワヤカが持ち寄った落とし物だった。私が受け取った品々もここにあったものだという。 「ここはおばちゃんのお兄さんの部屋なのよ。空いた部屋をみたサワヤカちゃんが、貸してあげるって落とし物をお店から持ってきたのがはじまり。落とし物はおばちゃんといると楽しいし、おばちゃんも寂しくないでしょって。ふたりのものがここにまた入ってくれるのは嬉しいね。だけど借り物だからいつか返さないといけないね」  おばちゃんは、少し伸びかけた髭を無意識に触りながら微笑んだ。  私はカセットテープを手に持った。月野の指輪は置いてきた。今日ではないと思った。カセットテープ、手袋、指輪。約束通りにサワヤカは私に三つの品物をくれた。カセットテープをひとなでするとなんだか寂しい気持ちになった。 「これは西川さんのお父さんの声が入ってるんだっけ?」 「そのはずだったんだけど」  私は橋山くんに説明する。さぁさぁと風の流れるような音がするだけで何もきこえなかったことを。橋山くんは、首をかしげ、 「ちょっとみていい?」  とカセットテープに顔を近づける。 「これまだ最後まで聞けてないよ」 「最後?」 「ほら。テープがまだ残ってる。聞いてみたら?」 「デッキあるわよ」  テープはぐるぐる動いた。そして。ときおり、小さな笑い声。声が流れてきた。サワヤカの声だった。  あれ?なんか押してたかも。ま、いっか。軽やかに笑う。あのウサギ、サワヤカにもみせたかったなぁ。少し遠い場所で私は言っていた。いや、見なくても十分楽しいよ。サワヤカの声はずっと近い。えなんで? 私は言った。サワヤカが笑うと吐息がぶつかるようにはじける音がする。  だってさ、私は誰かが落とし物を拾ったりみつけたり引き取ったりする話をきくのが一番好きなんだよ。西川が間に入ってくれたらさ、いっぱいきくことがあって楽しいよ。音が少しとぎれた。カチャカチャとした機械音。それから再びサワヤカの声。落とし物はさ誰かに拾われた世界で生きてくんだよ、拾われた誰かと一緒に歩いて、少しだけ横道をのぞいたり、遠回りしたりして元の持ち主に再会したり。しなくても新しい持ち主に出会ったり。不思議だよ。楽しいよ。あたし、両親いないから、なくしたものをふり返る意味はなんだろう、会えない相手との絆をみつめる意味は、とか考えることあったんだけど。でもさ、この店で。あ、やばもしかして録音。  カッチャン。テープは小気味良い音を立ててそこで止まった。  
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