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<落とし物屋>と言われるその店の前をはじめて通りかかったのは高校二年の初夏だった。足を止めずにはいられなかった。 『コテツからユー子へ 二十歳の誕生日にあいらぶゆー』  と書かれたカセットテープが店の窓辺に飾られていたのだった。  私の父の名は虎徹。母の名は祐子。見覚えのある小汚いけど味のある字。何よりもそえられたコメントと選曲は父そのものだった。この街で生きてきた十六年で一番の事件だった。心を整える暇すら自分に与えることなく、足は店に駆け込んでいた。 「あぁ、それね。海の中から拾ったんだ」  店長・沢田は欠伸をかみ殺しながら教えてくれた。とても暇そうだった。 「場所? うーんと。石垣島」 「石垣島・・・・・・」  関東から出たことのない私には外国より遠く感じた。きっと九月になっても半袖で出歩いて、十一月になってもビーサンで歩くのだ。風が冷たいと言ってショールという薄物を纏って軽やかに。音は雪にのみこまれることもなく、あるがままに響くのだ。それとも海が食べるのかな。 「あの、聴けるんですか? 聴けるなら聴いてみたいんですけど」 「オーケーオーケー」  落とし物の一員と思われるラジカセにセットしてくれる。  泥染みが残ったカセットテープはそれなりにちゃんと音を聴くことができた。ぷつっ、ぷっつ、と空気のこもるような音がしてから失敗なのか成功なのかわからない歌声が流れ出した。まさかの父の声だった。さすがに体がむずがゆくなった。まっすぐな、父の声。そりゃ母も投げ捨てたくなるよと私でも思った。父も私も全然関係のない土地に思い出ごと食べ干してもらいたかったのだろうか。それがこうして元の街まで戻ってきてしまうなんて落としものは奥が深い。 「買う? 拾得から三ヶ月までは持ち主に無償で返却するんだけど。これ、もう三年前くらいに拾ったやつだから」  店長・沢田は少しだけ改まった声で尋ねてきた。 「こういうのはなかなかないからね。もしかしたら一生に一度の出会いかも知れない。どうする?」  私はテープに目をやる。ほしいのだろうか。互いにまったく違う場所で、特に未練なく暮らしているように思える父と母の、遠い過去との出会い。割とさっぱり別れたように思え私の根っこが腐るほどの傷は受けなかった。だけど、上手くつながっていないように思う私の一部があって、カセットテープはそういうのがひとつになるきっかけをくれるような気がした。私はひとつになりたいのだろうか。自分のことだというのにあまりにも良くわからない。黙って悩む私を黙って店長が待つ。もう少し寝かせてみたい気がした。 「二十歳になったら買いに来てもいいですか?」 「はたちかぁ」  店長・沢田は妙に甘酸っぱそうな顔をした。  とっくに二十歳を超えあの頃よりは社会を知った私が思い出す店長・沢田の表情は、感傷と言うよりも商売っ気の方が重かったはずだ。さっさと売りたい、だけどなんか妙に高校生っぽいこと言い出したぞ。とはいえ、即座に商売っ気全開にならないくらい、店長・沢田も若かった。 「いくつ?」 「十六。もうちょいで十七」 「まー。三年なんてすぐか」  三年ってすぐなんだ。うわー。と思わず声に出してしまった高校生の私より、今では店長・沢田の気持ちがずっと近いはずだ。確かに三年どころか十年なんてひと続きの昨日だ。どちらかというと昔のことばかりに反応してしまうから、本物の昨日はむしろずっと遠い。 「でも、その子が二十歳になったときに買いに来る保証ないよ」  割って入ったその声は、店長・沢田でも、もちろん私でもない。奥に置かれたソファからだった。寝袋のように包まれた布の固まりがむっくり起き上がる。それが店長の妹サワヤカだった。沢田爽。爽と書いてサワヤカと読む。サワヤカのことは知っていた。同じ高校、隣のクラス。共通の友人と一緒にお茶を嗜んだこともあるが友人と言うほどの距離ではない。 「兄ちゃん、その子をアルバイトでやとったらいいよ。そしたら二十歳までつながるよ」 「妹よ、うちにはもう兄のすねをかじるためにバイトをする君がいるのにぃ?」 「いや、あたしはバイトじゃなくて、どちらかというと落としものの方だし」 「あのなー」  店長・沢田は怒るような声を出したけど、表情はどちらかというと穏やか。サワヤカが言った「どちらかというと落としもの」の意味が気になったけれど、聞き返していいのかわからなかった。  曖昧な笑顔を浮かべたまま取るべき態度を決めかねていた私に、サワヤカはにっこり笑って左手を顔の前にかざす。その左手の小指は、かじかむようにわずかに震えていて、爪が生えるはずの場所はつるりと丸かった。 「生まれるときに落としてきた」とサワヤカが笑う。  知らなかった、と声に出す私と目を合わせて、 「あたしの可愛さと気立ての良さで、あたしという本体にばっかりみんな注目しちゃうんだ。あ、あたしは落とし物大好きだよ」  そのときのサワヤカの表情が忘れられない。   店を出て、閑散としている道を眺めた。商店街に沿ってまっすぐに続く道が、太陽に熱されてゆらぎだし、道として続いているのか不安になるほど消えかけている。失いそうになった方向感覚を取り戻したくて、店をふり返る。窓に貼り付くようにサワヤカが両手をふっていた。窓辺で思いっきりふられる指はどれも力一杯に華麗で、左手の欠けた小指も遜色ない。そう思ってしまうことは悪いのだろうか。  結局アルバイトをしてしまった。店はいつも暇で、ふたりでカップラーメン食べたり、店の中を歩きまわって店長・沢田の渾身のディスプレイを変えまくった。落とし物鑑定係として、呼ばれればサワヤカとふたりで色んなところに行った。道で見つけた落とし物を拾いまくった。  私が二十歳のときにもらうはずだったカセットテープは早々に売れてしまったはずだった。そのあとも私はバイトを続けた。サワヤカとそれからずいぶんと近い距離にいたが、小指のことを思い出したのは、サワヤカが亡くなったと連絡があったときだった。失ってしまった小さな指の骨を探したかったけれど、見つけることができなくて、からんと鳴った小さな骨の音は私を置いてどこかに去った音だと思っていた。でも、サワヤカと過ごした営みを、あの日々を、はっきりと覚えているのだと、テープを手の中で転がすたびに確信する。  カセットテープ。手袋。マニキュア。どれも店からいつの間にか姿を消していた。どこに隠れていたのか。サワヤカが消えたあとに誰がこれを送ってくれたのか。  記憶にゆれる白く見えるほどの夏の光がおりるアスファルト、古いアパートの階段を上る音、暮れてゆく空を追いかけるように走り出すサワヤカ。まずは、あそこまで追いかけよう。  
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