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「事件だね」
「事件なの?」
「事件でしょぉ」
サワヤカが言う。沢田爽。実存はたいしてさわやかじゃないけど、さわやかと読む。小柄で華やかな雰囲気があり、わりと目立って、どこで出会ったのかサワヤカすら知らない男子高校生にはよくもてた。ただし、同じクラスの男子にはさっぱりだ。それがサワヤカらしくて、ちょっといい。
サワヤカと私が着目しているのは道路の真ん中に落ちている手袋で、真夏に溶けるアスファルトに真っ黒くろの皮手袋はちょっとした味付けだ。秘密の匂いがするのだ。
「首をしめるのにつかったね。ほら、これを両手にはめてぎゅぅぅっと」
「片方しかない」
「足りていないのはいいことだよ」
サワヤカが唇をとがらせた。
「じゃあ、落とし物回収ということ?」と私が言うと、サワヤカは私の肩を抱いて左右にゆすった。
「当然。ん? これ名前書いてない? ほら、この内側のタグのとこ」
「橋・・・・・・山、うーん、川・・・・・・かな?」
「橋ときたら川だね。とりあえず回収。ね、その辺に右手もあるんじゃない?」
「探す?」
店長・沢田の店に落とし物引き取り依頼があったのは1時間ほど前。たいていの人は店にふらっと落とし物を持ち込むのだけど、家まで来て引き取ってもらいたがる人は一定数いる。そういうときの落とし物は、ものすごく数があるわけじゃない。小さなボタンひとつ、なんて類いのことは良くある。重いのだろう。その人にとって、何らかの理由でその落とし物は計り知れないほど重たくて、持ち上げられない。しかも家に置いておいたら家がつぶれてしまう。だから落とし物屋に依頼する。
暑くて仕事をしたくない店長と、暑くて勉強なんてしていたくない我々の思惑が合致した。高校の教室をこっそりと抜け出して、駅とは真逆の方向に歩き出し、広がっていく住宅街のできるだけ狭い道をみつけて通り抜け、これがこの街のさいごのコンビニに違いないと決めつけに決めつけて、アイスとジュースを買うついでに思う存分涼んで、再び炎天に飛び出た昼下がり。落とし物を見つけてひらりとサワヤカが笑った遠い夏。
「探そう!」
八年後のサワヤカが死ぬのは5月の青天の下だ。
だけど、まだまだ絶賛高校生の私たちはそんな写真や動画にも映らない未来のことなんて興味はなくて、ただ足下に落ちていた黒の革手袋の片割れを探していた。真っ黒な革手袋。秘密の匂いがする。革手袋(黒)なんてそうそうクラスに何人も持っているしろものではなくて、まして八月ど真ん中。この季節に、わざわざ手袋と接点を持ちたいと思うことはあまりないね、というのが私とサワヤカの共通見解だ。道ののびる向きからすると斜めになった状態で落ちた手袋は左手で、指先の黒は剥がれ落ちていて、白いほわほわが見えている。それを指してサワヤカは言う。
「つまりね、これは、本革じゃないね。偽皮だね」
「すげぇ」
「たぴおかたぴたぴ~」
どうもサワヤカのお気にのタピオカドリンクが売り切れていたことをまだ引きずっているようだ。次回は私もこの台詞を使ってみるべきか。魅力的なのかどうか判断がつかない。いずれにしろ、あの日の私はいつまでだってふたりでタピオカドリンクを飲めると思っていた。
「でも。これ売れるかな?」
事件の可能性は絶大だが、落とし物として店に持ち帰ったらいつかは売らねばならない。売れないと店長・沢田がなげく。大人がなげく様子は大変勉強になるからそれはそれで構わないんだけど。
「うーん」
サワヤカは首を傾け謎をときそうな顔を作る。
「ねえ、西川。手袋に心はあるかい?」
むしろ謎を問うてきた。名うての謎かけ名人だったとは。
手袋心を思いやるにはその人生(おっと失礼、手袋生)を知らねばならない気はする。そーうっ、と触れてみる。柔らかい。真夏の陽射しにとけあう温さ。てか、ぼろい。指先には穴が開いてるし、偽皮は指でつつけばバリバリに剥がれるし。
「ま。あったとしてももう抜けてんね」
サワヤカが決めつけた。サワヤカが手袋を拝むように頭を下げる。私もならう。サワヤカが死んだことを知ったときに、ふいにそのときの光景が頭をよぎった。だけど、あんなことしたからなんて関係性を結びつけるようなことを八年後の私は相変わらずできない。サワヤカはどうだったのだろう。あの日の女子高生ふたりのことを思い出すことはその後の人生で一度でもあったのだろうか。今となっては尋ねることはできないけど。
まだ浴びるようにお酒を飲むことを知らないサワヤカは、左手のひとさし指で手袋をつつきながら言った。
「撃たれたようだな」
「打たれた?」
「ばーんって」
撃たれたか。サワヤカは右手で銃の形をつくる。無責任にばんばん打ちまくり、私も無頼に血が騒ぐ。
「ばーん」
「ばーん」
「ばーん」
「ばーん」
応じて応じて、気がつけば、夏空の下で笑いながら撃ち合いが続く。それにしても子どもだってだまされないような指拳銃で、よわい十七歳になろうという高校生がころころ笑い合ったのは、本当にあったことなのか。夏の空はわずかに薄曇り。車道の脇の歩道に座り込む。溶け合うようにふたり笑い続け、奇妙な浮遊感と無敵感がわいてくる。私たちに撃たれまくられる黒手袋は、道路の白線に数本の指をのせ文句も言わずに横たわる。その先のアスファルトからはゆらゆら揺れる熱風が生まれつつあった。
「事件現場だね」
「現場ってなんか生まれるんだっけ?」
「熱中症だね」
「ちがいねーな」
「うちらやばいね」
「永遠が見えてくる」
「そうよ。あぶないからとりあえずうち来なさい」
「はーい」
「ん?」
聞き慣れない声がしてふり返る。黄色い人がいた。そのまんま。頭からつま先まで色んな黄色がつまった格好をしているおばさんがいた。蛍光色の黄色いキャップ、枯れた感じの黄色のヘアカラー、黄色の花柄のスカーフ、卵色のTシャツ、 パステルイエローのハーフパンツにオレンジと黄色のボーダーのビーサン。
「あんたたち<落とし物屋>でしょ? 見たことある。遅いから迎えに来ちゃったよ」
依頼人のことをすっかり忘れていた。
「手袋見てたの?」
黄色いおばちゃんは首をかしげる。
「落とし物です」
「それは大切ね。もう片方は?」
「あとで見つけて見せます」
サワヤカが言い切った通り、手袋の片割れの行方を知ることはできた。手袋の主に出会ったのだ。眼鏡をかけた痩せすぎの、友達が多すぎも少なすぎもしないドラマでは確実に脇役キャラ。なのに、がむしゃらにサワヤカに向かって唄をうたってみせた男の子。 そんな橋山くんのことは後回し。まずは八年前の私とサワヤカは黄色いおばちゃんについて歩いていた。通ったことがある道の脇を抜け、駐車場を横切って砂利道を少しふみ、少しだけ駅に戻る方角に向かって歩いた場所にわりと古風なアパートがあった。。二階に続く錆びた階段をギシギシときしませてのぼり、一番手前の部屋。ドアのノブまでちゃんと黄色い。ドアの横にある四角い磨りガラスからは薄い黄色い光がもれている。
「きれい」
「きいろー」
玄関を入ると右手に小さなキッチン、向かいにトイレ兼お風呂。正面には六畳程度の小さな和室があり、続きの部屋へつながる襖はぴっしり閉められていた。部屋はそれだけのようだった。部屋に置かれたテーブルもクッションも、案の定、まっきっきっだったんだけど、思っていたほどコントラストがきつくなく不思議と落ち着く。
「永遠っぽい」
「永遠?」
「ゴッホだよ。天才だよ」
サワヤカはちょっと考えて「蟹のひと」とつけくわえる。
「蟹?」
スマホ検索。ゴッホの蟹。でた。
「やば」
「ふふん」
自慢げに笑って見せたサワヤカと私は再び部屋を見渡し、おばちゃんは「お茶お茶」とキッチンに姿を消す。キッチンと和室の境には透明ガラスの玉すだれ。こんなポップでキュートなリアル玉すだれを見たのは初めてで、おばちゃんは日本のカワイイ文化を全力で支えてくれている人なのだと思った。ゆったりとしたゆるゆるシルエットのワンピースが窓辺にかけてあり、カーテン代わりに陽射しを遮っている。やわらかな黄が部屋に透けおちる。
窓辺のワンピースがふわりと揺れた。ずいぶん遠いような黄色の、やわらかな風が私の頬をなでる。その短い袖のゆるふわシルエットのワンピースはどうがんばっておばちゃんが頭からかぶっても、ずっと小さい。邪魔ではないだろうか。流れてきた裾に手を伸ばす、あ、だめ、とおばちゃんの中の小さい人が出したような声がした。
「それ、おばちゃんのじゃないのよ」
「これが落としものですか?」
おばちゃんをゆるやかに包むような声でサワヤカはたずねた。
おばちゃんは玉すだれを指で梳くようにしながらこたえる。
「ううん。おとしものはね、こっち」
おばちゃんは、壁際に置かれた黄色いカラーボックスからぼろぼろの紙袋を取りだした。開ける。小さな小瓶、マニキュアが入っていた。もちろん黄色。その黄色を見たとき、不思議なほど親しみのわく匂いを感じとった。胸がくすぐられるような懐かしく、でも手が届かない場所の匂い。今でもひとりの夜なんかにふっとよみがえってくるその匂い。どうにも表現できない胸の落ちつかなさに目が覚める。サワヤカはどうしていたのだろう。そういうときの対処を何度かきいた気はするのに、今は上手く思い出せない。
サワヤカはじっとそのマニキュアを見つめていた。ずいぶん古い物のようで、キャップの色は褪せていて、色味や製造元の情報が書いてあったはずの紙はもう読めない。それでも瓶の中の黄色はとても鮮やかだ。サワヤカは言った。おばちゃんが指に塗り、灯りにかざす様子や、新しいサンダルにそっと足をとおす景色が踊るのが見えるね。私はただうなずいた。
「これはね、おばちゃんのお兄さんのおとしもの。わざとおとしていったの」
自分のからだが自分の思っていたのとは違うようになっていく。そう生まれてしまうことはあるけれど、おばちゃん達の若い頃は、今よりずっとしっとりとつめたい場所にその気持ちを隠しておく必要があったのだという。ゆれる玉すだれが反射するあわい光を目で追いながら、私はおばちゃんの口元から流れ出す落としものの話をきいた。
おばちゃんが子どもの頃に住んでいた家には、大きくてとても重い扉がついていた。間取りも今ではほとんど思い出せないのに、その扉の重さは体が忘れない。
「だからね、いつもね、お兄ちゃんが開けてくれたのよ。どんなときだっていつだって」
おばちゃんの小さな手が扉にかかる。押しても引いても決して開かないような気分になる。そういうとき、いつだってお兄ちゃんが助けてくれた。扉が開く。玄関脇の鏡にお兄ちゃんが映る。窮屈そうに制服の中で体を縮こませて笑ってくれていた。
「あのマニキュアがやってきたのは雨の日だったなぁ」
おばちゃんは思い出にふる雨を受け取るように手をかざす。
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