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 おばちゃんの通っていた学校のバザーに出す商品として、母親がどっさりと近所から集めてきた品物に交ざっていた。はじめてみる色とりどりの洋服たち。それを母親は布地の状態を確認して、使い着れないと判断された洋服ははさみで裁断されていった。捨てるのではなく端布として売るのだという。満月が笑うシャツ、草むらで立ちあがる猫のスカート、「うどん」と達筆で記された体操服。色んな服がおばちゃんとお兄ちゃんの前をすぎてゆく。そのひとつから、ころりとこぼれ落ちたのだ。  驚いた母親が手をとめる。手に取って「これは売れないわね」とつぶやいた。 「待って、それ捨てちゃうの?」 「ほしいの?」  母親は笑って言った。お兄ちゃんが強くうなずいた。その瞬間、母親の顔は笑顔を消し忘れたまま固まる。瞬間氷河期。家が黙り込んだ。お兄ちゃんはしょっぱいものを無理に飲み込むような顔で笑いなおす。 「学校の、女の子、似合いそうだなって思って」 「えぇ~」  誤魔化すような母親の嬌声をききながら、おばちゃんは体の中の名前も知らない臓器にかなしさがつまっていく音を知った。翌朝、学校に行く道すがら、お兄ちゃんは何度もマニキュアを埋葬するように包みの入った袋から手を離す。離れない。離す。離れない。央太くん、おはよう、なにそれ?なんでもない、ただのゴミ。ふーん。お兄ちゃんの手は袋を落とした。くしゃって、落ちた。 「おばちゃんはね、そうやってはじめてお兄ちゃんの後ろ姿を見たの。声をかけたかったのに、不思議なくらい声がでなくて。お兄ちゃんの代わりにその袋を拾って家に持って帰ったの。お兄ちゃんはそれからまだ帰ってこないのよ」  おばちゃんはそう言って、自分の胸元に手を置いた。目覚めないものを愛おしむように、とんとん、と軽く叩いた。窓から西日が入ってくる。黙り込んだおばちゃんにさよならと言われた気がして、私は腰をあげかける。 「おばちゃんの」  サワヤカは座ったまま口を開く。まばたきをして世界を切り替える気はさらさらないというようにまっすぐにおばちゃんを見つめている。 「おばちゃんの家の落としものはさ」  サワヤカの声をなぞるように、窓辺の黄色のワンピースは窓からの風にゆれた。夕暮れの匂いが静かに部屋に満ちていく。 「幸せだね。物語を拾ってくれたおばちゃんがいたから。落とし物はときどきとっても重くて、誰にも拾ってもらえないことだってあるんだ」  金色がおばちゃんの顔を染めていて、おばちゃんの表情はわからなかった。おばちゃんは「風が」とつぶやくと窓に顔を向けた。だんだん夜が浸みだしてくる西の空はとても美しくて、少し怖かった。  おばちゃん家を出るとまだ全然明るかった。アパートの前では幼稚園生くらいの子どもたちが線路をチョークで描いていた。その隣にはもう少し大きい女の子がふたりであやとり。 「また暑いときはうちに来なさい。炎天下はあぶないからね」 「はい」 「もっちろーん」  歩き出してすぐにサワヤカは出てきたばかりの部屋をふりかえる。おばちゃんの部屋の窓はきちんと閉まっていた。私とサワヤカはさっきみつけた手袋の片割れをもう一度探しに行った。暗くなるまでふたりで探した。どこにもなかった。手袋の片方が落ちていないだけで、道は違う場所に通じているような気がするね。いつものように何も返せない私にやんわり笑いかけたサワヤカは言った。 「手袋にも、きっと心はあるね」  ひとり納得したようにうなずいたりしてる。  あの日、あんな風にずっと探し続けた手袋は、落とし物にもなっていなかったのに、そのことを知らないその夜は、何故か少し泣きたくなっていた。私にとっては珍しい。だからその日のことを覚えておこうと思って記録した。  そんな八年前のことを思い出しながら、私は道の先に目をやる。かつてサワヤカと歩いたという以外は何もないこんな道で、知人と会うことになっていた。  思い出の中と同じように、夕暮れ色は強すぎる。 「西川さん」  聞き覚えのある声がかけられた。 「橋山くん」  幸いなことにちゃんと彼の顔を覚えていた。高校を卒業してからそんなに親しくなかったから、私の中の彼は、高校生の姿をしょったまま。さらに夕陽なんて背負って現れられたらたまったものじゃなかった。私側の思い出補正は最小限ですみそうだ。 「変わってないからすぐわかった」  橋山くんは多分嘘じゃなくてそう言う。きっと遠い時間を断絶させたら人は帰る場所を失ってしまうから、そういう不幸な事故を防ぐための脳の機能なのだろう。あの頃。あの頃。あの頃。たちまちくずれてしまいそうなもろい世界をお互いで支え合わないと人は生きていけない、という錯覚にとらわれる。 「橋山くん、髪切った?」  私が気づいた変化は髪型だった。 「髪切った?ってきかれるだけが僕の人生なんだ」  橋山、と呼び捨てしていた高校生の私はもういなくて、  西川、と呼び捨てにしてきた高校生の橋山はやっぱりいない。  地続きにみえてばらばらだ。細胞だって分裂仕切って、似たような骨格と顔立ちを保っていたとしてもあの頃のかけらは身体のどこにも残っていない。 「サワヤカは」  昔と同じように橋山くんはそう言った。  まぶしそうに目を細める橋山くんが夏の中に立ち尽くす景色が、あの頃の高校生とは全然別人のような大人の橋山くんが、蜃気楼のように重なり合う。どちらが幻でどちらが現実だろう。 「うん」 「とりあえず歩こうか」  そう言い終える前に橋山くんの革靴は動き出している。高校生の頃にたった一度だけ並んで歩いたときよりもわずかに距離が近い。見上げた顔の角度は見覚えのないもので、多分もうこの角度から橋山くんを見ることはないだろう。  橋山くんは、サワヤカが残した手袋の持ち主だ。
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