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黄色いおばちゃんから落とし物を回収した翌日の放課後、<落とし物屋>に同じ高校の男の子が飛び込んできた。
「あ、あの・・・・・・、ディスプレイの手袋なんだけど」
彼が手をばたばた振ってしめしたのは、サワヤカがセットしたばかりの黒い手袋だった。名前らしきものが書いてあった部分をサワヤカは拡大コピーしまくって、ディスプレイ一面に貼り付けていた。個人情報とは。
「あ、もしかして橋、川くん?」
「橋山です。中央高校二年三組」
ぺこりと頭を下げた橋山くんは、あまり覚えやすい顔をしていなかった。同じ高校の四組しかない隣のクラスの同級生で、ましてや中学も同じだったというのにその瞬間まで私は橋山くんをまったく認識していなかった。ちょっとした会話を以前に交わしたという記憶すらない。
「西川です。中央高校二年二組」
「はぁ、西、川さん」
ま、お互い様だ。ちょうど休憩室でカップ焼きそばにお湯を注いでいたサワヤカが戻ってきた。宝物を捧げ持つようにしっかりと指で焼きそばの器を支え、背筋をぴしっとのばして歩いてくる。そんなサワヤカを見て、橋山くんは、ふわっ、と音がしそうな表情を浮かべた。
「沢田さん・・・・・・」
サワヤカを好きな男子は割といた。男の子たちに告られるサワヤカは、なんで断ったの~、と当然好奇心で聞きまくる同級生に「だって、あたしの方がかわいいし」とさらりと言ってのけるのを何度もきいた。それが冗談ではなく、嫌みに響かない。ひたすらぼんやりタピオカのことばかり考えているようなサワヤカは、絵に描いたように良い顔立ちをしている。どんなやつなのだと悩んだら理想の女の子を絵に描いてみてほしい。それがサワヤカだ。
あーあ、と私は思い、サワヤカが運んできた焼きそばを受け取った。また恋が破れる瞬間をみるのだろうと。勉強にはなるが。
だけど、先に述べた通り、橋山くんは根性をみせることになる。
ちなみに、このときに橋山くんが見つけた手袋は、やっぱり橋山くんのものだった。
「うちの犬のお気に入りの手袋だったんだ」
先週までずっと橋山くんと一緒に暮らしてきた犬のクッキーは、橋山くんが物心つくころにはぺろんと橋山くんの顔をなめていた。クッキーは十八年生きてきて、最後は眠るように丸くなり、世界をすべてうけいれるような静かな目でやっぱりぺろんと橋山くんの顔をなめてきたという。
「後悔とかかわいそうとかは全然ない。クッキーも僕ら家族も一緒に生きた。だけど」
橋山くんは口ごもる。手袋に目をやる。
「最後にあの手袋で遊ばせてあげようと思ったのに見つからなくて」
それより少し前に散歩に行ったとき、クッキーは手袋を持ちだした。頭をふりながら噛みしめて、ちらほら見える綿を前足で踏んだりして楽しんでいたのだという。
「ちゃんとしまったはずだったんだけど」
帰り道に手袋をとりあげられたクッキーは退屈そうに、いつも通りの散歩道を歩いて帰った。家について鼻をならすクッキーに、再び手袋をあげようとしたらなかったのだという。
「ね、右手は? 右手の手袋はあるの?」
サワヤカが食いついた。訊ねながら焼きそばを食べる手と口も止めはしない。ぴちぴち元気に飛び跳ねる焼きそばに橋山くんは目を細める。そういうまなざしを「まぶしそう」と言うのだと私も経験から学んだ。
「あるよ。でもあんまり好みではなかったみたい」
「なるほど。不思議だね。何が違ったのかな。手袋の右と左。くるっと回して手のひらをあわせたらそっくりなのにね」
思ってもみなかった問いだと橋山くんは目を丸くする。だけど心のどこかに隠れていた手袋をもっとみつめるように斜め上をみあげて首をかしげた。その仕草、なんかいいなと思った。この店で、サワヤカが落とし物について知りたがるのはいつものことだけど、その質問にちゃんとこたえようとしてくれる人は思いのほか少なかった。前屈みで見つけた品を隠すように去って行く人、心の中の灯りを決してもらしたくないと曖昧に誤魔化す人、まだそれほど自分とのつながりを築いていない人。色んな人がいておもしろいなと思っていたけど、こんな風に頑張ってこたえようとしてくれる人には特に興味があった。
「ふたご、みたいなものなのかな」
「ふたご? そっくりな双子?」
「そう。ずっと見ていてもみわけがつかないこともあるけど、でもそれぞれ違うんだよ。眉毛、歯、顎。覚えていられないほど些細だけど、やっぱり細かい違いがあって。ふたり一緒に同じことをしていても、やり方や考えは全然違う。手袋もどんなにそっくりに左右対称でもクッキーにとっては違うんだ」
「なるほど。うん、似ているからってふたりを一つにできないね。好きになるのに理由なんてないし」
「うん。あ、それに」
サワヤカの声に導かれるように、橋山くんは些細な記憶をどんどん拾い上げる。落としたことすら誰も気づかないような小さな記憶の前で立ち止まり、手を伸ばす。
「クッキーは覚えてないかもしれないけど、僕の家に来てすぐの頃。冬の日に、母さんが手袋を編んでたんだった。クッキーは丸い目でずっとその動きを見てたんだって。母さんの手が生み出す物が不思議でならないって言うようにずっと。毛糸の毛羽立つ毛の一本一本まで見とおすようにじっと見てたって母さんは言っていて、その視線にどきどきして、どちらも左手用を編んじゃったんだ」
店には明かり取りの小窓が天井付近についていて、掃除も行き届かないせいで昼間であってもそこから入ってくる光はとても柔らかい。
「ほどこうとしたけど、クッキーが切ない瞳でじっと見てきて、だから左手の手袋をひとつあげたんだ。クッキーはおそるおそる前足で触って鼻をこすりつけて、きゅんって鳴いて、クッキーはそのときに家族になったんだ」
その柔らかい光。カウンターのそこかしこに店長・沢田が積み上げた書類や私とサワヤカが散らかしたままの段ボールなんかじゃなくて、サワヤカだけに届くように光が下りてきた。
「じゃあ、最期のときに、左手の手袋がなく良かったよ」
橋山くんはさすがに現実に引き戻されたように目をしばたいた。サワヤカは何かをあきらめることを諭そうとでもいうのだろうか。なくて良かったことはあるのだろうか。そう思うと、父のカセット・テープがうんざりするほど私の頭の中ではたはた泳ぐ。ああ、めんどうくさいほどの音量で父の歌声まで響き出す。あの歌が毎日家の中で響かなくて良かった。良かったという気持ちで良かったかな? 汗が冷える感覚がする。父と母が家の中にふたりそろっていたらどんな感じだったのだろう。笑って、喧嘩して、ご飯を食べて寝て、おはようって笑うのかな。私の中で、実際には見たことのない母と、その母をからかうように笑う父がぐんと力をつけていく。体の芯がきゅっとした。やっぱり私はまだあのテープをもらうか決められない。
サワヤカは笑う。
「遠くにある大切なものを想像するなんて最高じゃん」
「最高?」
「そうだよ。目の前にあるものの方が遠く感じることあるでしょ。何故か分からないけど触ったら硬さとか冷たさとか自分に完全に溶け合わなくて、少し調子がくるうっていうのかな。うんとね、目を閉じてみるとやりやすいんだけどさ。すぐ近くに見えるときがあるんだよ。触らなくても触れた感覚はわかっていて、匂いがして、しゅっととけるようにあたしを包んでくれるんだよね。世界の中で、ここは絶対に寄り添ってくれる場所だってわかるし。そう言う感じに思い馳せるわけよ。そしたら、失ってはじめて気づいたりすることがあって、もっと知りたくなって、目を閉じても浮かんでくるようになって、そこまで来たらもう本物になるんだ」
「クッキーも?」
「当然じゃん」
そう言ってサワヤカは満足げにうなずくと焼きそばをおもいっきりすすった。先ほどまでの光りの中のサワヤカは一瞬でかき消えて、ソースがびしゃっとサワヤカの頬に飛び散った。余程の恋の達人でないかぎり、好印象を与える場面ではなかったはずなのに、橋山くんはその瞬間に本気でサワヤカが好きになったと後年語る。恋とは本当にわけがわからない。
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