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 ありえないと思ったことは、わりとあり得るんだなと知った。  道に落ちていました、とうさぎの着ぐるみを預かった日のことだった。うさぎはまん丸の瞳を大きく開き、口元は限界までにっと笑っている。色は黄色。 「結構重いんですなぁ」  店長・沢田は持ち込んできたお客さんと様々な種類の書類を取り交わしたあと、サイズを測る手順のひとつだとでもいうように、うさぎの頭をかぱりと被ってみせた。 「頭にね、忍び込んでくるんですよ」  そのお客さんはうさぎの目の奥から覗く、店長の善良そうな瞳から顔を背けるように返事をすると、とても急いでます、とあっという間に店のドアを開けて外に出て行ってしまった。ぶわっと熱気が部屋に流れ込み、こんなぼろい店のクーラもちゃんと働いているんだな気づかせてくれる。 「どうするんですか?」 「ん? ディスプレイ? そうだなぁ。明日にはサワヤカが店に出てくるからそのときに相談しよう」 「そうじゃなくて。これが落とし物ってありえなくないですか?」  この店にたどり着く途中の道の自動販売機の横に落ちていたとさっきの人は言っていたけれど、うさぎに扮した人が、休憩がてらに自動販売機でジュースを買って、うっかりウサギを置き忘れるだろうか。頭だけならまだしも胴体も。 「うちはちゃんと預かりの記録があるから大丈夫だよ。そうだ、今度良かったら西川さんとサワヤカでこれ来てビラ配ってきてよ。バイト代は上乗せするから」 「無理です」  はっきり断ると、店長・沢田は「サイズは大丈夫だと思うけどなぁ?」と首をかしげていた。サイズうんぬんの問題ではない、と文句を続けようとしたのだけど、店長が被ったままのうさぎの表情にはなんだか人を引き込むような力があって、じっとみつめられるととっさに目をそらしたくなる。負けないぞ。妙な勝負心がわいてしまい、じっと見つめ返してしまう。すると、それまで見たこともないような真剣なまなざしで店長もじっと私を見ていた。 「今更なんだけど、なんでこの店を開いたか西川さんに話したことあったっけ?」  うさぎの中の店長・沢田の声はすごく遠い場所から聞こえてきた。  少しだけ、冷たいような感触のする声は私の耳にしみ込んでいく。  店長はサワヤカよりも八歳上で、わけあって、店長が高校生になるころにはほとんど兄妹ふたりで暮らしているような状況だった。八歳年の離れた妹は、生き物として可愛いけれど、どう接して良いのか。お互いが理解できる共通言語がうまく見つからない関係だったという。小さな妹の無邪気な声に、そういうつもりはないのにうんざりした気持ちをぶつけてしまうことすらあった。自分がまったくサイズもデザインも似合わない服を無理矢理来ているような気がした。 「そんな頃に、サワヤカが言ったんだよ。あたしって落とし物みたいだね」  高校生の店長・沢田はさすがにショックを受ける。妹にまるで居場所がないように感じさせていたのかと。だから、さすがに妹と向き合うことにした。高校生男子としては恥ずかしいほど赤裸々に自分たちの置かれた状況を説明し、ふたりで手に手をとって生きていこう、お前は自分のことを落とし物だなんて思う必要はないんだと。でも、サワヤカが発したのは予想外の反応だった。 「落とし物にはなれないの?」  八歳離れているわりには我が儘を言わない妹が涙をためてそうつぶやいた。 「その涙をみて、突然目が覚めた。それまでは、全然知らない夢の中の家族みたいにならなくちゃいけないと思っていたんだ。毎日その影みたいなものにしがみついて、なんとか同じことをしていかないとって。だけど、サワヤカのなりたいものが<落とし物>だと知って、なんか僕の肩にのっていた荷物がすとん、て落ちた。妹がアイスクリームとかうさぎになりたいと言うなら対処する方法はありそうだけど、<落とし物>はもう無理だなと思って」  だから、やっと妹の話をゆっくりきく気になったのだという。その日は土曜日で、まだ昼がすぎたくらいだっから店長・沢田は夜までじっくり妹の話をきいた。  私はその話をききながら、ふたりの暮らす部屋を想像した。それは二階建ての一軒家。高校生になったサワヤカは店長とふたりで店からそう遠くないマンションに住んでいたのだけど、私の想像に浮かんだ家は全然違う物だった。庭らしい庭はないけど、車がとめられるスペースがあって、今はそこには車はない。代わりに黒い自転車、キックボード、そして色のかすんだストライダー。面した窓には白いレースのカーテンがゆれている。だけど、部屋の中は妙に暗くて中の様子は見えない。味わったことのないほど静かな家。やがて夜がきて、月の光が忍び込み、白い影のようなふたりの姿が浮かび上がる。ゆるやかにのびる月光にひたり、家はやっと目を覚ます。 「なんでサワヤカは<落とし物>になりたかったんですか?」  私はうさぎが机に落とした影をさすりながらきいた。うさぎは私の動きをしばらく見ていた。私の指に沿って形作られる影が本体なのか確かめるよう、首を左右にふってみせる。 「きかなかったんですか?」 「きいてる暇がなかったんだ」 「ゆっくり話をきいたのに?」 「サワヤカの世界に僕がなじむために必要なことはきいたからね」  うさぎの中の店長・沢田がそう言うと、とてもタイミング良く、がらりと新しいお客さんが入ってきた。 「いらっしゃいませ」  うさぎの頭をつけたままの店長・沢田がぱっと顔を向ける。頭がずいぶん重いせいか、顔は少々下がり気味で、店長が本当はどこを見ているのかわからない。 「その着ぐるみ」  入ってきたばかりのお客さんはしっかり店長・沢田のうさぎ頭を見てつぶやいた。  うさぎの着ぐるみはお客さんが持っていた袋にきちんと折りたたまれて、頭はちょこんと胴体部分の上にのせられる。お客さんと拾得物管理確認の書類を取り交わした店長は、少しだけうさぎっぽくなった笑顔を浮かべて「手数料は大丈夫です」と伝え、うさぎは店に置かれていた気配を残すことなく去って行った。  私が知る限り、店に持ち込まれたのにサワヤカに触れられることなく落とし主が見つかったのは、このうさぎだけだった。店長が昔のことを話すのもこのときがはじめてでさいごだった。そしてこの翌日、父のカセットテープは店から消えていた。何故この日だけ店長がふいに話す気になったのかはきいたことがないから知らない。きいてみたかったけれど、ききそびれたまま八年が過ぎた。店長にもわからなかいのかもしれない。   橋山くんから預かった鍵はすんなり扉を開いてくれた。開くとき、できるだけうす暗くてかび臭くて古くさい情景を想像した。記憶の中の場所が整いすぎていたら、中に入ったときにがっかりするだろうと思ったから。  まず、空が見えた。当時よりも曇ったように見える天窓。今もまだ、その下に置かれたソファーの上にサワヤカが寝そべっているような気がして震え出すような感覚がした。だけどソファーはない。部屋の中はあんまり変わっていなかった。並べられていた落とし物たちはもちろんないのだけど、レジが置かれていた長テーブル、窓の下に備え付けられた木製の棚、古びた壁の染みのひとつひとつ。私の記憶と結びつく。古い記憶も新しい記憶もごった煮だ。だけど記憶は全部嫌いじゃない。どんなにつまらなく色褪せてみえても、私を手助けしてくれる。  私に鍵を渡したとき、橋山くんはじゃらじゃらと鍵束を鳴らしていた。あんなにたくさんどこの部屋の鍵なのだろうか。 「じゃあ」  一緒に来てくれるような気がしていたけれど、橋山くんはさらりとそう言って歩き出す。しゃらんしゃらん。鍵が鳴って橋山くんは遠ざかる。  しゃらんしゃらん、と鳴る橋山くんの鍵の音は今は聞こえないはずなのに、ほとんどなんにもない部屋にしみ込んでいるような気がした。   サワヤカは何故私にこの場所の鍵を託したのだろうか。カセットテープ、手袋、そしてマニキュア。三つの品はそろったはずなのに、鍵があらわれた。ここにも何かが残されているのだろうか。それは誰のためなのだろう。サワヤカがこっそりと鍵を持ったままだったことは驚かない。店長の店が閉店してから四年。未だに次の店が入っていない。部屋の壁際には幾枚かの枯れ葉が落ちていた。なんの気なしに拾い上げる。ぽろろと手に持つ端から粉々になる。なんだか落ち込んだ。サワヤカがいなくなってはじめて、立つのが疲れたと思った。床に手をついて、それだけでは足りなくてごろんと仰向けに転がった。指先についた枯れ葉のかけらをこすり落とす。ひらひらと舞って部屋の埃に混じり合いあっという間に見えなくなった。いや、見えなくなったのではない。私が見ようとするのをやめたのだ。もうないものばかり目で追ってしまう。時間がたてばたつほどそういうものばかり見えてきてしまう。例えば、この店を満たしていた落とし物たち。持ち主を待って時を刻み続ける時計は好きだった。再び手を繋いでもらうのを待っている風なぬいぐるみたちはそれほど好きじゃなかった。本も不思議なもののひとつだった。こっそり何度か読んでみるんだけど、いつも同じページで飽きてしまう。持ち主が読んだページだったのかな。それから。サワヤカの作るディスプレイはどれもおもしろかった。落とし物が持っているたくさんの記憶が、不思議と引き出されるようだった。私がどれだけ触っても古びたものでしかないのに、サワヤカの手にかかると何かをよみがえらせる。誰かが必ず足を止めた。私はその様子をじっとみていた。すべて覚えていたかった。そんな記憶たち。私が透明に感じられるほど、どれもこの場所を濃く染め続けている。  そして、うさぎ。霧でできたようなぼんやりとした輪郭のまま浮かび上がる。さすがに気配がうすい。うさぎはサワヤカに会っていないからかな。あのうさぎ頭でたたずむ影の中身は誰だろうか。サワヤカだろうか。店の時間はゆっくりと過ぎていく。天窓から入る光がゆれる。   いつの間にか眠っていた。泣いたのかなと思う気分で目が覚めたのに顔は特に濡れたあとはなく、両目ともに少しも重たくない。泣けたらいいのに。だけど、泣いたら知らないことがどこかに勝手に本当の気持ちとして記録されそうで怖い。起き上がる。胸の上からぱさりと何かが落ちた。一枚の紙。周囲がセロハンテープだらけのところをみると、どうやらどこかに貼り付けられていたようだ。古い紙のいい匂いがした。あと、太陽の匂い。頭上をみあげる。良くは見えないけれど、天窓から半透明の紐状のものが垂れ下がっている。曇天は紙がつくりあげていたのか。垂れ下がるセロテープの先にまだ何かくくりつけられている。差し込む光の角度が変わったのだろう。緑の光が部屋に小さく揺れていた。  胸の上の紙をひらく。サワヤカがくれたメッセージだ、という久しぶりの明るい気持ちが胸に踊る。どうしてこんなに嬉しいのだろう。もうサワヤカとの間に新しいものは生まれないと思ってたからかな。嬉しさを知ったらまた続きがほしくなってしまうんじゃないか。もっとサワヤカが落としていった思い出はどこかに隠してあるんじゃないか。  そんな風に浮きだった気持ちが変わるのに、一枚の紙は十分に力を発揮した。  手紙はサワヤカからではなかった。月野からだった。  月野は高校の同級生。在学中ほとんど言葉を交わすことなく過ごしたのに、まったく気が合わないことが証明された滅多にいない相手だ。  橋山くんに渡された鍵が月野につながった。  月野に会えば何につながるのだろう。
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