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 どれくらい時間がたったのか。ようやくすっきりした顔で、これが最後だと言うようにおもいっきり月野がしゃくりあげた。 「もう来ません」  月野は淡々とエプロンを外す。カフェの店長は何も言わなかった。月野はバイトをやめて、サワヤカも店員になりそびれた。カフェの店長は窓の外をみつめただろうか。遠ざかっている三人の後ろ姿を。  たぐり寄せた記憶の中の道は、どうしても夕暮れになる。どこかの店の前で植木鉢が横倒しになっていて、直すべきか判断をつけるのが追いついていないうちに、月野がたんたんと話し出した。 「あの指輪は、小学生の頃にわたしが拾った」 「おしゃれバイトしたかったなぁ」  むくれるサワヤカのうったえは黙殺されるけど、サワヤカとしてそれほど気にすることではなかったようで、にまにまと笑い出す。 「あのカワイイ指輪拾うなんて小学生月野にはカワイイとこあったんだ」 「地球環境の改善をはかることにはまってたから規則を無視して廃棄されたゴミを収集して歩いてたんだよね」  月野が地面の小石を蹴るような素振りをする。すかっと音がしそうなほど空ぶった。 「あの頃、良いことしたら良いことあるかと思ってた」  道の先から車が走ってくる。サワヤカが道の左に寄り、月野と私もそれにならう。縦一列。互いの顔をみずに歩く。 「あるわけなかったけど」  吐き出したつぶやきを無視してほしそうに、月野はまっすぐな背筋をさらにまっすぐにのばす。私とサワヤカは黙って歩き続ける。  月野が小学5年生の頃、月野母は月野父を殺しかけた。実際には警察ざたになるほどではなく、家から逃げ出した月野父がふるえながら長々と月野母に土下座したそうだ。近隣へ思いっきり響く月野母の呪詛は、月野父に対してのものだけではなく、隣近所すべての人物への詳細な呪いが含まれていたそうだ。そのうちの何人かは月野のクラスメートの両親や祖父母だった。こんな小さな街の夏休みに入る直前に同小すべての児童の手に話が渡るのは秒速だった。その夏休み、月野は月野姉とふたりで遊ぶことを余儀なくされる。  私が思い浮かべるゴミを拾う月野の姿は妙に凜々しい。  それはわりと勝手な想像だから、月野に申し訳なく思う。  広い道に出た。サワヤカがゆっくり一歩踏み出して、月野のとなりに立つように歩調をあわせる。後ろからついていく私を月野がちらっと振り返り、二歩ほどサワヤカに寄る。空いた場所に私は足を進めて三人が並ぶ。後ろから見守る人がいたら、きっとひとつながりの三人にみえた。 「そうしたら、プラスチックケースに入った指輪セットが落ちてた。お祭りとかで売ってそうな安っぽいやつ」 「馬鹿な男がアホな女にプレゼントしそうなやつだ」  サワヤカがそう言うと、月野は険しい目をゆるませ微笑んだ。 「馬鹿な男がさっきのやつで、アホな女がわたしの姉だよ」  さすがのサワヤカも口を閉ざす。 「正確にはちょっと違う。馬鹿な男のあいつは指輪セットを当時の彼女にあげようとしてたのに、馬鹿だから駅前のベンチに置き忘れ、どっかの小学生だか中学生だかが持ち逃げして、途中であきて放り投げて、それをしぶしぶ善行を積むわたしが見つけたんだ」    再びごった煮の味わいだ。私たちはすっかり街の中心を抜け、今まで一度も注意したことのないような古本屋の前を通り過ぎ、街の色がどんどん抜けていくようにうらぶれた、だけどどこか暖かい街並を、なんとなく歩き続ける。 「緑の指輪、凄く綺麗だった。あの前の年の夏に神社のお祭りに家族で行ったときに買ってもらった指輪と同じ色だった。帰り道に、川の上で近所のひとに会って、親が話し込みだして、わたしは川を見てたんだ」  ゆっくりとやってきた自転車が、ゆっくりと、私たちを抜き去っていく。 「川には月が映っててさ、生きてるみたいに輝いてて。わたしの緑の指輪よりずっと光ってみえて」  月野は私たちを見返し、 「月を壊したくて指輪を川に投げ込んだ」  十字路に入り、サワヤカは少し悩む素振りをみせてから右をしめす。右に折れる。米の自動販売機が二つ並び、脇にはいつの時代なんだかわからないくらいにかすれた政党のポスターが貼られていた。 「すっごい怒られて、物を大事にしないとバチがあたるよ、って。壊したかったのは月だったんだけど・・・・・・、気づいたら違うものが壊れきってた。緑の指輪を拾ったとき、月を壊しそびれた指輪が戻ってきてくれた気がした。だから、その指輪だけ抜き取った。ちょうどそのとき私を見つけたあの人は、ほっぺたつやつやに輝かせて私にお礼を言ってひとつ欠けてしまった指輪セットを受け取って、中身を確認して、新しいの買うからってわたしに全部くれたんだ」 「わりといいやつだね」  サワヤカが言ったら月野はうなずいた。 「だから緑の指輪を返すことにした。わたしの人生から緑の指輪が消えて、他のものも消えた。あの人の人生にも同じことが起きない保証はない」  気持ちはわかるというようにサワヤカが強くうなずいた。私も続く。 「姉に話したら、一緒に謝ってあげるからそうしようって」 「わりと良い姉だね」  月野は少しのあいだ黙った。 「あの人も姉も、初めてあったときからどうにかなりそうな気分になったんだって」 「どうにかなりそうって・・・・・・」  どんな心持ちなのだろう。  「えー」  と弾んだ声をあげたのはサワヤカ。その声の高さとふくまれた笑いに、なるほど、と気づく。橋山くんみたいに目の前でわかりやすく表情を変えて、目で追って、好きだと口に出してくれればわかりやすいけれど、それ以外の場合は私には苦手な分野ということだ。 「じゃあ、その緑の指輪は結局お姉さんがもらったの?」 「そう。五年前からずっと大事につけてて、結婚するからって新しい指輪が欲しいってねだってた」 「うんうん。やばっ。楽しい!」 「だから緑の指輪を捨ててやった。床下に」  脳のまぼろしかと思うほどの無邪気な笑みを月野が浮かべた。幻にしてはしっかりと影が落ち、光の角度によってはまるで違う表情に変わる。サワヤカから見える月野はどんな顔をしていたのだろうか。人は多面体だ。いつも真っ正面を向けてもらえるわけじゃないことを大人の私は知っている。楽しい!と声を跳ね上げたままの顔のサワヤカ。思い出の中のその瞬間は、途方にくれるほど暖かな絵に見える。穏やかにサワヤカは問いかけた。 「指輪が消えたら、何か悪いことが起きると思うのはやめたんだ?」   月野の小さな顔はこちらを見ない。声はしっかりときこえた。 「だからだよ」  月野の笑顔はますます輪郭がはっきりしてきた。 「だから捨てたんだよ」  白い肌にはほんのりと赤みが差し、夏の夕暮れの下で輝く表情は、疑いようのない笑顔だった。その頬に触れてみたいと思った。どんな風にしたらそういう顔を作れるのだろう。屈託なく笑う笑顔は私とサワヤカを決して見ない。もっと遠くに向けられていく。  サワヤカは月野と同じ方向をみている。あわてる様子はない。遠くから響いてくる音、自転車だったり誰かの話し声だったり、に耳を寄せているようにみえる。ランドセルを背負った小学生の二人組が私たちを追い抜いていく。その子たちのはしゃぐ声はとてつもなく大きくて、月野は苦手そうに顔をしかめた。その仕草をきっかけにサワヤカが語り出す。 「月野はお姉さんのことが本当に好きだったんだ」 「好き!?」  何も言わない月野と違い私は驚いた。 「うん。これは恋だね」  相手の落とす声や表情、残された影。そういうことをあきあきするまで独り占めしたくなり、そこでお互いうまくやるのに障壁があったら除こうとする。それも恋の端切れだとわかる。だから、月野は障壁である姉が壊れるのを待っていたのだと思った。なのに、月野が好きなのは。  月野は夕陽に照らされて朱色に光るアスファルトの道のずっと先に、にらむような視線を固定した。 「好き?」  ようやく月野がその言葉を繰り返す。はじめて触れた言葉を体に慣らしていくような声。その声は、私が発したのとは違う形で月野に浸みていくようだ。月野を満たしていくその言葉のたてる音の響きを知りたい。触りたい。そして月野はとても綺麗に微笑んだ。私はじっとその笑顔をみつめた。あのカフェの片隅に月野が落とした気持ちは、どんな形で残っているのだろう。 「綺麗だなぁー」  サワヤカは私の思考を遮るように言う。いつの間に持ち出したのか、あの緑の指輪を左手の人差し指と親指でつまみあげ、光にかざしてのぞきこんでいる。  「何度も捨てられた落とし物がこんなに綺麗だなんて、これってすごいことだよね」  世界を全部押し出すような勢いのすごい風が吹き抜けた。むきだしの私たちはよろめいて足をとめる。 「すごいことだよ」  サワヤカの声が高く、遠くへ、のびていく。夏空の続く小さな街の長い道を私たちはもうしばらく歩き続けた。 「バイトしたかったなぁ」  案外しつこいサワヤカだ。 「どうせすぐつぶれるよ」  月野の予言通り、その喫茶店は冬をまたずに閉まってしまった。  記憶に残っているあの日から八年が経っている。呼び出された理由を訊ねることもなく、私と顔をあわせるなり月野は黙って歩き出し、私も黙って歩き続けていた。煤けた瓦屋根の豆腐屋、駐車場の前の砂利道、相変わらず妙に澄んだ夏空を雲が泳いでいた。乾いた地面に私たちの足が交互に落ちる音がひびいて、ばらばらだったその音は、気がつけば小さなリズムを刻んでいた。きっと、同じ日のことをふたりそろって思い返していた。  突然月野は足をとめていた。脇道の階段を下りようとしている。 「じゃあ、わたしはこっち」  高校生の頃とかわらない愛想のない口調でそう言うと、名残惜しさのかけらも見せずに数歩歩き出す。 「ちょ、ちょっと待って」 「なに?」 「あの、さ、お姉さん、元気?」 「元気」  間髪入れずに返事があった。 「まだ家で一緒に暮らしてる」  あの男の人は? 問うても解けないパズルだと思ってその質問は飲み込んだ。飲み込んだ気持ちの代わりに、一番ききたいことを押し出した。 「これなに?」  店で見つけた便せんを月野に差し出す。手紙には、丁寧な字で一言だけ書いてあった。いらない、と。 「あぁ。沢田さんから手紙もらってその返事。彼女が指輪をあなたにあげてもいいかってきいてきたから」 「私に?」  それはありえない。数が合わない。四つ目を手にしてしまったらサワヤカが言っていたとおりにならなくなる。困る。 「わたしはいらないって返した。じゃ」  そのまま歩き出す。さすがにここまであっさりした対応をとられるとは思っていなかった。あわてて指輪を手提げからつまみだす。緑色のプラスチックの、薄い影が私の手首に落ちる。すっかり色褪せたおもちゃの指輪だった。天窓から垂れ落ちるセロハンテープにひっついていた。あの日、風が渡る空の下で、サワヤカがのぞき込んだ光はもう見えない。 「待って。これは返す」  遠ざかる月野背中がこわかった。どうしていいかわからなくて足を動かすべきか悩む。ふと、月野についてあっちに下りてみようかな、と思った。向こう側になじみはない。ちょうど月野が進もうとしている階段の先には陽だまりの原っぱが見えたから、そのぬくもりを味わって見たい気がした。月野が足をとめた。ふりかえる。 「だから、いらない」 「私もいらない。サワヤカが私にくれるものは三つなんだよ。四つじゃ困る」  つい本音を口にした私の顔を月野がみつめる。今日初めてちゃんと目があった。お互い黙る。沈黙の中に通じるものを探るべきなのか考えてしまう。私が一番苦手とすることで、月野もそうなのではないかと期待しかける。視界のすみに色褪せたと感じてしまう緑の指輪が映り込む。むりやり顔の向きを変えることができなくて、サワヤカの手の中で輝いていたあの日の光をどうしたら作れるのだろうと思った。体にあれだけなじませたサワヤカの動きと口調を呼び起こそうとする。月野はかすかに眉をひそめた。そして特別な感傷のふくまれない声で言う。 「あのさ」  ちょうど私の背後を二トントラックが猛スピードで走り抜けていった。ほとんど声が聞こえない。笑いながら何言ってんのかわかんねー、と言い返そうとしたときに、たったひとことだけ私の耳に飛び込んできた。 「もう真似しなくてもいいじゃない」  こちらの返事を待つことなく、月野は階段を駆け下りていった。トラックも去り、長い一本道に再び私は取り残される。八年前の月野の声とともに。あの日の帰り道、サワヤカが先に手を振って上機嫌で道を曲がっていく。  んじゃねー。じゃねー。ぶんぶん手を振り合う私たちを眺めていた月野がつぶやいた。「あのさ。あの子なんて名前だっけ?」 「あの子って・・・・・・サワヤカ?」 「さわやか?」 「沢田爽」 「へー」  特別な興味はなさそうに月野はつけ加えた。 「なんで西川さんは沢田さんの真似ばっかりしてるの」  私は月野には近づけないと決めたのはその瞬間。彼女の指摘はごまかしようのない大正解。私は自分がサワヤカの真似をしていることをできれば自分にも悟られずに生きていたかった。友情なんて不器用で不格好なものだわかってる。そう納得の上で私は自分で作った自分とサワヤカの関係に満足していた。ふたり似てるね。そっくりだ。周囲の人に言われるたび、サワヤカがおおらかに笑ってくれるたび、私は世界になじむことができたと思えた。そのいびつな均衡を、周囲で淡々と生きることができる月野のような存在にだけは壊されたくなかった。  八年たった今も、私はすっかり見えなくなった月野の姿を見送るように突っ立ったまま、胸がかゆいほど泣いてみたくなった。あの日の月野のように。でも涙は何に包まれてしまっているのか滲んでもこない。  
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