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第1話 大おばあちゃんのお話
突き抜けるような青い空。
刷いたような雲は一片もなく、緑色に装う山々を育くむように太陽が輝いている。
岐阜県大垣市から北上する国道。
徐々に勾配が上がっていく道路の左右には、家並みが少なくなり、木々の生い茂る山道に続いていた。
一台の白いコンパクトカーが、左右を緑のカーテンで仕切られた山道をゆっくり走っている。
バックドアには、青地に白い車いすが意匠されたステッカーが貼ってあった。
五月のゴールデン・ウィーク真っただ中。
片道一車線のなだらかなアスファルトの道を、行楽に向かう乗用車が何台も通り過ぎていく。
コンパクトカーは法定速度を順守しながら、坂道の途中でウインカーを点滅させて左側の木々の切れ間から奥へ続く広場へ、ゆっくりとハンドルを切った。
その台地には木々はなく、新緑の絨毯を広げたような野原であった。
自家用車なら数十台は駐車できそうな広さがある。
他に駐車している乗用車はなく、真ん中あたりで停車した。
「さあってと。
もう少しで到着するけど、少し休憩しましょうか。
ここから見る景色もステキよ」
ハンドルを握っていた二井原美由紀はサングラスをはずすと、隣に座る少女、後部席に車いすを固定し座っている老婆に声をかけた。
美由紀は小顔に似合うショートヘアで、白いTシャツの上にピンク色のサマーカーディガンを羽織っている。
三十歳代半ばの実年齢よりも若く見えるのは、躍動感あふれるスタイルからだろうか。
理知的な眼差しを細め、少女の顔をのぞき込んだ。
「疲れたかな?
里香は」
問われた少女は首をふる。
小学四年生の愛娘である里香は、肩まで伸びた髪を片方だけ花型のヘアクリップで留め、七分袖の花柄ブラウスに膝丈のジーンズを履いている。
「ぜーんぜん大丈夫だよ、ママ。
だって大おばあちゃんと三人でドライブなんて初めてなんだから、嬉しくて」
里香は母親譲りの大きな目をくりくりさせて、シートベルトをはずした。
美由紀は「そっかぁ。そうだよね」と、笑いながら後部席に座る老婆を振り向く。
「大おばあちゃん、少し休もうか」
車いすに座っている老婆、坂巻かえでに声をかけた。
銀色に近い白髪を丁寧に後ろで結び、上品な鶯色のブラウスに同色のロングスカートを履いたかえでは、孫である美由紀の言葉にニコリと微笑む。
「おやまあ、もう到着かい。
やはりクルマは早いねえ」
かえでは両目をしょぼつかせた。
「さあ、里香。
大おばあちゃんを降ろすお手伝いをしてくれるかな」
「はーい、任せて、ママ」
美由紀は乗用車を降りると後部に回り、上開きのバックドアを「よいしょ」と開ける。
助手席から里香が小走りで近づき、美由紀が固定器具をはずすのを手伝う。
車いすはスロープを伝い、ゆっくりと大地に車輪を降ろした。
かえでは胸元にA五サイズほどの木枠をしっかりと抱えている。
どうやら遺影のようだ。
八十歳代後半のかえでが持つ写真には、彼女より若いが初老の男性の上半身が写っている。
多毛を無理やり寝かしつけた髪型に、ギョロリとした大きな目と鷲鼻が特徴的な顔。
スーツを着て、少し怒ったような顔つきをしている。
「ウワーッ、すごい景色!
ママ、大おばあちゃん、早く来てぇ」
里香は緑の萌える広場を先のほうまで進み、感嘆の声をあげる。
「里香ぁ、危ないからあまり先まで行ったらだめよ」
美由紀は降ろした車いすのロックをかけると、バックドアを閉めた。
「わかってるってばあ。
わたしだってもう高学年よ」
里香の返答に苦笑しながら、美由紀はかえでの座る車いすをゆっくりと押していく。
その台地から観える景色は雄大であった。
遠くには山脈がそびえ、台地の周囲からは緩やかな斜面が下方へ伸びていく。
斜面の下には幅が二十メートルほどありそうな川がせせらぎ、川沿いでは何組かがバーベキューの準備をしていた。
「大おばあちゃん、観えるかな?」
美由紀は腰をかがめながら、かえでの顔に自分の顔を近づける。
実はかえでの視力はかなり衰えており、ほとんど視界を認知していなことは知っていた。
「ええ、ええ、観えますよ。
それにここを流れる空気の懐かしいこと。
あなたともう一度、ここへ来ることができましたわね」
かえでは目を細め、抱いている写真に目を落とす。
「そうだったね。
大おじいちゃんが、いつか大おばあちゃんと二人でもう一度あの村に行きたいって、口ぐせのように言ってたもんね。
残念だわ」
かえでは後ろを振り返り、孫の美由紀に微笑む。
「いいえ、大おじいちゃんは喜んでいるわ。
こうしてやっと来られたのですもの」
「うふふ、そうね。
さあ、大おじいちゃん、着きましたよっ」
美由紀はなるべく車いすが揺れないように、押し出した。
里香が草の上に腰を下ろす横に車いすを近づけて、美由紀は緑の濃い香りと川の流れる音に耳を傾ける。
「大おばあちゃん」
「うん?
なにかしら、里香ちゃん」
曾孫である里香は、川の上流を指差す。
「あの川の上のほうに、昔、大おじいちゃんと大おばあちゃんは住んでいたんでしょ」
「そうよ、よく知ってるわね」
里香は「えへへ」と笑い、美由紀を見上げる。
「そうね」
美由紀が継ぐ。
「わたしが小さい時に大おばあちゃんから聴いたお話を、この子にわたしが話して聴かせてたからかな」
「おや、そうかい」
里香は利発そうな眼差しで、曾祖母を仰ぎ見た。
「うん、ママからベッドで寝る時によく聴いたよ。
えーっとなんて名前だったっけ、大おばあちゃんたちのお友達だったその子。
マッチ、だったっけ?」
「もっちん、よ」
美由紀の言葉に里香は大きくうなずいた。
「そうそう、もっちん!
面白いお名前ね」
かえではよく見えぬ目で、曾孫の座る辺りに視線を向ける。
「もっちん、そうね変わったお名前だけど、それは本当のお名前じゃないのよ」
「あだ名?」
「うん、あだ名。
そう名付けたのは、里香ちゃんの大おじいちゃんよ」
「へえ、大おじいちゃんかあ」
里香は大おじいちゃんの顔は写真でしか見たことがない。
かえでの抱くフレームに目をやった。
「わたし、大おばあちゃんからもう一度、もっちんのお話が聴きたいな」
里香の素直なお願いに、美由紀も首肯した。
「わたしも久しぶりに聴きたい、大おばあちゃん」
かえでは顔を上げて風景を眺める。
「そうねえ。
じゃあ久しぶりにお話ししましょうかしら。
もっちんが、わたしたち村人を救ってくれたお話を」
かえでは遠い昔を反芻するように一度目をつむり、風景に流れる野鳥の鳴き声、川のせせらぎに耳を傾けた。
(第2話へつづく)
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