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2 猫は犬を叩きがち
犬ってやつは面倒だ。図体はでかいわ声もでかいわ、遠吠えなんてただの近所迷惑だ。猫と犬の共存区域ってのもあるけど、そんな甘チャンなところに好んで住む猫の気がしれない。
そもそもでかい態度で俺たちのことを見下しているのが気に入らなかった。吠えれば逃げると思っていい気になりやがって。
「そう思ってたのに」
犬なんて嫌いだ。猫はもっと嫌いだ。
そう思って生きてきたのに犬に拾われてしまった。しかも超大型犬だ。真っ黒な髪の毛に黒い目で、耳も尻尾も黒いからか威圧感がハンパない。言葉も厳しめだし、無表情の顔なんて最初は仮面かと思った。
「それなのに、うまい飯なんて食わせてくれるから」
うっかり居着いてしまった。その後も出て行けと言わないから居座り続けている。そんな俺のことを、あいつは追い出すこともなく毎日うまい飯を食わせてくれた。
「変な犬だよな……ウルフって」
名前を口にした途端に顔が熱くなった。さっき囓られた耳もジンジンしてくる。
「かわいいと食べたくなるとか、何言ってんだよ」
マジで食ったりしたら、ただのスプラッタじゃん。そう思っているのに、囓られた耳を触るだけで首まで熱くなってきた。
「……かわいいなんて、誰も言わなかったのに」
マジで変な犬。そう思いながらウルフの匂いがするベッドでぎゅっと丸くなる。
目を瞑ると「雄の三毛なんて困るわ」という母親の声が聞こえてきた。「そうは言っても」って言いながら俺を見ようとしない父親の横顔が蘇る。
(雄の三毛猫が狙われやすいってのは知ってるし)
猫なら誰だって知っている。大型種の猫に狙われ、なんなら物好きの犬にだって狙われる。そのために家族がひどい目に遭うって噂も聞いた。
三毛猫の雄が狙われるのは高く売れるからだ。売ったあと、どうなるかなんて知りたくもない。ただ、金のために生まれた三毛の雄を売る家族がいるって話を聞いたときはゾッとした。
だから家を出た。家族に迷惑をかけたくなくて、最後まで家族だと思いたくて逃げた。
それからはいろんな場所を転々とした。子猫のときは何とか食いつなぐことができたけど、成猫になったら駄目だった。縄張りに入り込めばすぐに叩き出され、何とか潜り込もうとしてもすぐに見つかる。
安い食事場で残り物をくすねるのも難しくなって、ついに行き倒れてしまった。そこに現れたのがウルフだ。
「見ず知らずの猫にカツカレーとか、ほんとお人好しすぎ」
食べ終わると風呂に連れて行かれて、怪我をしていないか確認された。風呂から上がれば新しい服を押しつけてくるし、寝床の半分も譲ってくる。そんなことをされたのは久しぶりで、ちょっと油断してしまった。しかも「名前がないと不便だ」とか何とか言って名前まで勝手につけやがった。
「っていうか、ニャン太ってあんまりだろ」
猫だからニャン太とか、どんなセンスだよ。
「変な名前つけやがって……」
俺の初めての名前がニャン太なんて恥ずかしすぎる。そう思っているのに、ウルフに「ニャン太」と呼ばれると胸がムズムズした。最近よく見かけるようになった笑顔を見てもムズムズする。
今日なんて尻尾と耳を触られた。あんなふうにタオルで拭われたら毛繕いと一緒じゃんか。
「犬が猫の毛繕いするなんて、聞いたことねぇし」
きっとウルフが世話焼きだからだ。まるで俺が子どもみたいに何でもかんでも口出しするし手だって出す。おまけに妙にきれい好きで、毎日風呂に入れとうるさい。部屋を綺麗にするのはいいけど、風呂は俺の勝手にさせろってんだ。
「そもそも猫は毎日風呂なんて入らねぇっての」
そう言いながら枕にぎゅっとほっぺたを押しつけた。シャンプーの匂いと洗濯したあとの匂い、それに太陽みたいなウルフの匂いがする。
「……そういや、あのときもいい匂いがしたっけ」
初対面の日、腹が減りすぎて動けなくなっていた俺をウルフは肩に担ぎやがった。慌てて背中にしがみつくと、ふわっといい匂いがして暴れるのを忘れてしまった。
「まぁ、犬は嫌いでもあの匂いは嫌いじゃねぇし」
むしろホッとする。日向ぼっこのときのような匂いで、ちょっとだけ石鹸みたいな匂いも混じっていた。この枕からも同じ匂いがする。匂いを確かめたくてスンと吸い込んだら、やっぱりふわっといい匂いがして気持ちがよくなる。
「……って、何だよこれ」
スンスンしているうちに腰がムズムズしてきた。体もちょっと熱い。変だなと思って縮めていた足を少し延ばしたら、股間がもっこり盛り上がっていた。
「は? え? ちょっと待て」
これはいわゆるそういう状態ってやつだ。でも近くに雌はいない。俺たちは雌がいないとこんなふうにはならないはずだ。
「どういうことだ?」
駄目だ、考えようとしているのに股間がどんどん熱くなってよくわからなくなる。どうにかなりそうな熱さに、股間にそっと手を伸ばしたときだった。
「なんだ、発情期か?」
「……っ」
全身がビクッと震えた。真っ暗ななか目をこらすと、すぐ近くにウルフが立っている。ドアが開いた音にすら気づかないなんて、猫としてどうなんだと舌打ちしたくなった。
「そういえば、もうすっかり春だな」
ベッドの側にある小さな電気がパッと点いた。
「猫の発情期は初めて見るが、真っ赤な顔はまるでトマトのようだ」
「なに見てんだよ!」と言いたいのに、体が熱すぎて声が出ない。股間に伸ばした手も隠せないまま、俺をじっと見下ろすウルフを見つめることしかできなかった。
「なんだ、発情期の相手をしてほしいのか?」
……は?
「猫の相手をしたことはないが、まぁできなくはないな」
……なんだって?
「しかし、この小ささで受け入れられるかどうか」
「う……っせぇよ!」
小さいとか言うな! そもそもおまえがでかすぎるだけだろうが。
「なんだ、相手をしなくてもいいのか」
そう言ってベッドからでかい影が離れていく。その瞬間、どうしてか胸がぎゅっとした。
「待っ、」
「しなくてもいいならかまわないが、その状態で寝られるのか?」
なんだ、いつもの場所に移動しただけか。そのことになぜかホッとした。
ベッドをくるりと回ったでかい体が、いつも寝ている左側に座る。少しだけ俺のほうに体を向けながら、また見下ろしてきた。
「取りあえず抜くだけ抜いておけ。俺のことは気にしなくていい」
「なに言って」
「やっぱり手伝ってほしいのか?」
「うるせぇよっ」
座っていてもでかい背中を右手で叩いた。自分では思い切り叩いているつもりなのに、力が入らなくてポスポスと気の抜けた音しかしない。
「発情しているせいで力が入らないんだろう? おとなしく抜いておけ。何回か抜けば収まる」
「うっさい」
「まさか、抜き方を知らないとか言わないだろうな?」
「そ、そのくらい知ってるし!」
抜くくらいしたことある。だけど犬の前でなんてできるわけがない。大きな背中に拳を当てたまま「うぅ」と小さく呻いてしまった。
「はぁ。まったくおまえというやつは、こういうときまで面倒をかけるのか」
ため息混じりの言葉にドキッとした。これまで猫たちに何度も言われて聞き慣れている言葉なのに、ウルフに言われるとどうしてか不安になってくる。
「自分でできないなら素直にそう言え。さっきからやってやると言っているだろうが」
「う……っさい」
「こら、力が入っていないとはいえ何度も殴るな」
「どーせ痛くねぇんだろ」
「痛くはないが鬱陶しい」
「どうせ、俺なんか」
「鬱陶しいが嫌いじゃない」
びっくりして背中を叩いていた手が止まってしまった。大きな体がくるりと俺のほうを向く。
「っ」
黒目にじっと見られて顔がカッとした。慌てて視線を逸らしながらでかい胸をポカポカ殴る。そうでもしないと「嫌いじゃない」って言葉を勘違いしそうだったからだ。
「犬のくせに」
「猫のくせに肝が据わっている。そういう奴は嫌いじゃない」
「うるせぇ」
「我が儘でプライドが高くて妙なこだわりがあるのも、猫だからと思えば納得できる」
「犬だってそうじゃねぇかよ。毎日掃除して、風呂も毎日入って、ばっかじゃねぇの」
「口が悪いのはどうかと思うが、まぁおまえらしいと言えば悪くない」
ポカポカ叩いていた右手を掴まれた。そのままグッと引っ張られて、手首にチュッとキスをされた。
「な……に、してくれてん、だよ」
「マーキングの一種だ」
「なっ、何勝手なこと、してんだよっ」
「毎日同じ寝床で寝ているんだから、どうせ全身俺の匂いまみれだ。いまさらだろう?」
「なに、言って」
「今朝だって俺の胸にくっついて寝ていたのはおまえのほうだぞ?」
「……っ」
だって、すぐ側にあったかいものがあったらくっつくだろ! 猫はくっついて寝るのが好きなんだよ!
「さて、その発情期どうする? 一人で頑張るか? それとも俺が相手をしてやろうか?」
でかい体に覆い被さられて体がギュッと強張った。そんな俺にフッと笑ったウルフが耳に口を近づけてきた。
「相手をしてほしいか? ニャン太」
背中がゾクッとした。尻尾がビンと震えて耳がピンと立った気がする。顔も首も熱くてたまらない。
俺はまだ誰とも発情期を過ごしたことがない。雌は面倒だったし、雄なんて最初から眼中になかった。それなのに「相手をしてほしいか?」って言葉だけで、股間のあたりがじわっと濡れた気がした。その場所を、手首を握っているこの大きな手に触ってほしいと思ってしまった。
「……ぬ、抜くだけなら」
気がついたらか細い声でそう答えていた。
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