第一幕 一、外道

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 外道は宿が襤褸(ぼろ)であることから、さほど人間がいないだろうと察し、ため息をつきながら戸を叩いた。殺せる人間が少ない、つまらないと思ったのである。だが、外道の予想を裏切り、奥から聞こえた「はぁい、少々お待ちを」という声は、うら若い女性のものであった。それも張りがあり、よく通り、けれど愛らしく、欲の腹が疼くような声だ。  そうして見事、戸を開けたのは、声に似合う可愛らしい若女将(わかおかみ)であった。  若女将は外道を見上げると、にっこりと笑った。外道は生唾を飲みながら、自分が幕府公用で街道を進むものであることを声高に語りつつ、獣のように若女将に襲いかかろうとした。 「触るな」  しかし、この外道の手が女将に触れることはなかった。  その前に女将の後ろから伸ばされた太い手が、外道の手首をひねり上げていたからである。 「いててててっ! いてててっ! 何だ、きさま! 誰だ!」  外道をとらえた太い手の持ち主は、美しい男だった。  背はすっと高く、体躯は豹のよう、黒の着流しから椿の入れ墨が覗き、整えられた眉を持ち、髭はなく、艶めく頬をしていた。町人にしては髪に艶があり、髷は細く、月代はすっと青い。切れ長な瞳には光はなく、どこか病的なものを感じさせるが、それがかえって男の美しさを際立たせていた。  そんな絵巻物から飛び出してきたかのような美しい男は、外道の醜い顔をしげしげと眺め、つまらなそうにしていた。 「離せ! 離せ! 俺は江戸……」  男は外道の言葉を聞かず、手首をボキリと潰した。利き腕の手首を折られた外道は、大きく叫び、涙をこぼす。けれど男はつまらなそうに外道を見下ろすだけだ。 「きさま……この狼藉、許すものか! 切り捨て御免!」    外道は残った左手で懐刀を抜くと、不意をついて男の胸に突き立てようとした。女将の悲鳴が甲高く響く。だが、外道の刀は美丈夫には届かなかった。 「こんなちゃちな小刀で切り捨て御免もねェだろ、とことん馬鹿な男だねェ」  それよりも早く、男の拳が外道の喉を、肩を、耳を打ちすえていたからである。  外道は声を上げることも叶わず、その場に膝をつき、懐刀はカラカラと音を立てて床を滑っていった。女将がパタパタと走り、その懐刀を回収したときには、男は外道の残った左腕を折り、外道を外に放り出していた。 「またのお泊りをお待ち申し上げますよォ、と」  男は冷たく微笑むと、宿の戸を閉めた。  戸の向こうから「ちょっとォ!」と愛らしい女の声が聞こえたが、外道はもう一度戸を開ける気には到底なれず、かといって三の宿場を戻ることもできず、叫びながら、獣も通らぬ道を駆け、逃げた。  外道はこう考えていた。 『騙された! あの問屋、近道だと……! ここは地獄じゃねえか!』  たしかにこうして考えれば男は騙されたのかもしれない。だが、男が畜生道に落ちていたのは今に始まったことではなかったのだから、やっとたどり着いた、ともいえるだろう。なんであれ元の木阿弥、今更だ。  外道は逃げて、逃げて、逃げて……気を失うまで逃げて、翌朝、つまり今朝、気がついたときには表街道の元の宿場まで戻っていた。表に戻ってこられたのは外道の豪運ともいえるが、しかし一度落ちたら運の尽き。  外道を叩き起こしたのは、江戸から外道を追ってやってきた目付(めつけ)であった。  目付は助けを求める外道を一瞥すると、こう言った。 「貴殿に機密漏洩の嫌疑がかけられている」  外道は無論、知らぬと言ったが、もはや申し開きの機会もなく、手が折れたまま江戸に連れ戻され、切腹を命じられることとなったそうだ。要するに、狼藉者は体よく処罰されるために江戸から出され、冥土の土産に表街道で悪さは目を瞑られたが、結局裏街道で痛い目に遭い、死ぬこととなったのである。
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