第一幕 一、外道

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「……と、あの外道はそんな顛末だったそうだよ、おなつさん」 「あら。そりゃ表街道の方々はとばっちりじゃないの。ひどいお話し」 「将軍様の考えるこたァ俺らにはわからんな」  さて、舞台は再び、極楽や。  滅多なことで客が来ない極楽やには今夜も客はなく、若女将のおなつと用心棒の新は二人きりだった。新は何度かおなつに部屋に帰って寝るようにうながしたが、おなつは遠くの雷と近くの雨がうるさくて寝られないからと断り、新の部屋に居座っていた。  二人の間には一つの行灯。ゆらゆらと小さな火が二人を照らす。雨でやることがなかったからと、二人して髪を洗ったために、二人していつもよりも少し良い匂いがしていた。おなつに至ってはまだ髪を結い上げておらず、そのわずかに濡れた髪からは肌の匂いがする。ゆらゆらと火が揺れ、ゆらゆらと無防備な二人を照らす。穏やかで、しかしどこか緊張感のある空気の中、はふ、とおなつは欠伸をした。 「あの時、新さんがいてよかったわ。ありがとうね」 「言われるまでもねェ、それが生業だよ」 「私を守るのが? んふふ」 「用心棒が、だ。ふふ、マア、俺ァおなつさんのためなら何でもするさね」  面白がるように笑う新の手元には二通の文があった。  一つは三の宿場から飛脚が持ってきた、今回の顛末が書かれた文である。おなつにせがまれて新がそれを読み上げたのだが、おなつはクスクスと笑うだけだった。生まれも育ちも落街道のおなつにとって、この程度の修羅場は笑い話にしかならないのだ。そのことを新もまた笑ったのだ。  おなつは無防備に新にもたれ、新の手首を白く細い指でなぞったあと、もう一つの手紙をつついた。 「じゃあ、こっちは?」  こちらが、あの外道が運んでいた文である。  新は外道の腕を折りながら、その懐の文を引き抜いていたのだ。しかし、新は面倒くさそうに欠伸をした。 「こっちは俺も読んでねェよ」 「どうして? ね、読んで、読んで」 「読んだら知ることになるだろ。知らなきゃ終わるもんが、終わらねェ。機密なんて、ねェ、面倒だよ」 「知らなきゃ始まらないもんね。でもそんなのつまんないわ、ね、新さん」  おなつに急かされて、新は嫌そうに文を開くと、ざっと目を通し、ため息をつきながら懐にしまった。 「ね、なんて書いてあったの? 幕府のこわぁい機密?」  キラキラと好奇心に目を染めて、おなつは新の顔を見上げる。新はおなつの濡れ髪を指ですくい、耳にかけると、顔を寄せた。 「おなつさんのかわいい耳には聞かせられねェ悪いことだったよ」  新がおなつの白い耳に低く囁くと、おなつはくすぐったそうにクスクス笑った。 「そうなの?」 「そうだ。ンでもって、おなつさんは寝る時間だ」 「眠れないんだもの、雷がうるさくって……」 「そんなこと言ってたらいつまで経っても寝られねェよ。ほら、とっとと寝床に……」    新がおなつにうながした瞬間、パッと部屋が昼間のように明るくなり、とてつもない爆音がとどろいた。  新は咄嗟におなつを抱きかかえ、傍らにあった煙管から仕込み刀を引き抜いて、夜闇を睨む。おなつは急に抱きかかえられたことで、「はぷ」と声を上げ、新の着流しの合わせにしがみついた。  新はその状態でしばらく待ち、ただの雨音が続くことから、先の音は単なる落雷だからもう安全だと判断した。 「……」 「……」  だから彼はおなつを抱きかかえるのをやめた。が、そうしても、おなつは新の着流しにもたれていた。 「……おなつさん」 「なあに? ねえ、新さん、随分と近かったねえ」  おなつがにっこりと笑い、新を見上げる。行灯の火が柔らかく照らす少し濡れた黒髪、うるんだ瞳、少し乱れたその寝間着、そうして、闇の中、なお明るく見える白い肌。 「ただの雷だったんだから、離れな」  新は真面目な顔だった。だからこそおなつは頬を膨らませ、立ち上がった。 「なによ、それ! 寝る!」 「はいはい、おやすみ。ゆっくり寝てくれ」 「いいの!? 寝ちゃうんだからね!」 「だから寝ろって、健やかに寝ろって……」  おなつがもう一度文句を言おうとしたそのとき、大きく地面がゆれた。  一瞬で行灯の火が消え、暗闇に包まれる。けれどその一瞬よりも早く、新はおなつを引き倒し、抱きかかえていた。  だから棚の上から落ちてきた人形が当たったのは、新の背中だった。おなつにはなにも当たることはない。引き倒されはしたが、おなつの頭の下には新の右手が差し込まれていたし、髪の毛一本痛くない。 「おなつさん、じっとしててくれ。なんか落ちてきたらあんたに怪我させちまうよ」  おなつは言われずとも、じっとして、自分に覆いかぶさる男を見つめていた。  彼がこの極楽やに来たのは今から五年も前のことで、その時すでに彼は今のおなつよりも大人であった。身体中に切り傷がある這這の体で、彼は裏街道に流れ着いた。それを拾ったのは先代の女将、つまりおなつの祖母だった。彼は傷が治っても、生涯をかけて恩を返すと、そのまま極楽やの用心棒になったのだ。そうして言葉だけではなく、今に至るまできっちり、彼はおなつを守り続けている。  武士のような彼の忠義を、おなつは深く愛していた。だから彼女は地面がゆれていても、少しも怖くなく、ただ好きな男の顔を眺めていられた。  地面のゆれは一度でおさまり、あとはただ雨音が響く。新は外を睨みながら、低く唸る。 「……地震にしちゃ妙だな、……山のどっかが崩れたか……」 「ねえ、新さん」 「ア? どした? すまねえ、どっか打ったか? 痛むか?」 「新さんはいい男ね」  新はようやく闇からおなつに視線を移し、自身をうっとりと見上げるおなつに深くため息を吐いた。 「暗いからそう見えンだよ、明るいところで見たら他の男の方がよく見えらァ」  おなつは深く深くため息をつくと、新を押しのけて起き上がり、さらに新の胸を強く押して床に倒す。新は抵抗することなく、自分の腹の上に乗る美しい女を見上げた。 「この、すけこまし! 私が他の男なんかに靡くわけないでしょ! いつまで子ども扱いするのよ! 馬鹿!」  怒りに頬を赤く染めるおなつを見て、新は悪手極まりないが、つい微笑んでしまった。 「なにがおかしいの!」 「笑っちまうほど、あんた、かわいいもんだから」 「馬鹿!」  おなつはもう一度そう罵倒すると立ち上がり、暗闇を手探りで歩き出す。そうなれば新はすぐに立ち上がり、おなつの手を取るのだ。彼女が暗闇で怪我をしないように、彼はいつも先を行く。 「拗ねないでくれよ、おなつさん。嘘じゃないぜ、あんたはかわいい、一等かわいい」 「そう言えばいいと思って! 私、もう十八よ!」 「十八がなんだ。子どもでいられる内は子どもでいいだろォ」 「意気地なし! 臆病者!」 「……そうだな、全くだ、面目ないね! ほら、もう寝ろ!」 「なんで新さんが拗ねるのよ、馬鹿!」  新は行灯の火をつけ、ブツブツ言い続けるおなつを部屋まで送った。それから彼は「外の様子を見てくるから、誰か来ても開けるなよ」とおなつに注意をしてから、雨の夜闇の中、出掛けていった。  これは、後から考えれば、平素の彼からは想像できないぐらい実に迂闊な行動だった。つまり、そうせねばならないぐらいには、おなつの色仕掛けは新に効いていたのである。が、おなつはそのことをまだ気が付かず、新の去っていった方を睨んで、拗ねていた。  さて、この時、時刻は子の刻だ。 「……うぅん……、うぇ……?」  ようやく、この時、この物語の『もう一人の主役』が目を覚ましたのである。
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