1人が本棚に入れています
本棚に追加
ところで新が渓谷にたどり着くすこし前、遠く雷鳴が響く雨の中、『男』はその渓谷の崖の上で、まるで胎児のように丸くなっていた。
彼は頬に雨が当たる度にビクビクと震え、そうしてついに瞼を開けた。彼は、目を開けてからしばらく、ぼんやりとした様子で雨を聴いていた。
「……あめ……」
小さく呟いた彼は、不意に立ち上がり、それから両の拳を天に向かって突き上げた。
「……雨!? これ! 雨だ! 見える! 聞こえる! 話せる! 手がある! 足がある! すごい! ……すごいぞ! ……やったあ! やった! やったぞ! おれさま、ついにやったんだ!」
男は満面の笑みで、ぴょんとその場で跳ぶと、あっという間に山をかけ下り、そうして、彼もまたこの舞台にやってきた。
――つまりこの物語の二人目の主人公であるこの男が、ようやっと、極楽やの戸を掴んだのである。
「なんだこれ! あれか!? 家か! 家だな! これが! へえ! あれ!? どうなってんだこれ!」
男が極楽やの戸を叩くその音で、おなつは眠るのをやめた。
夜中に極楽やの戸を叩く者がいて、おなつは迎えてやらないような女ではない。それはどんな者でも通してやるという裏街道の中にある老舗、極楽やの女将としての矜持である。
……というのと、新の言伝を無視したい心持ちだったためである。女の心はそういった風にできている。
彼女は手早く髪をまとめて上着を羽織ると、行灯を手に、玄関に向かった。そこでは玄関の扉がガタガタと揺れ続けていた。
「あれ!? これ、どうやったら開くんだ、これ!」
どうやら待ちきれない客人がドアを揺さぶっているようだ、と、おなつはクスクス笑いながら鍵を開け、極楽やを開けた。
「お待たせいたしました、お客さん」
玄関の前に立っていた、その男の髪は赤かった。
しかも男の髪は腰を超えるほど長く、根本から毛先にかけて色合いが変わり、また燃えるようにゆらゆらと動いた。その妙な髪はまったく、手入れはされていないようで泥汚れがついていた。
そして、男はおなつが見たことがないほどに大男だった。膝を曲げなければ戸をくぐれないであろうほど大きく、またその体は岩のように厚く、筋肉でゴツゴツとしていた。というのがわかるほど、男は薄着でもあった。
そして何よりもおかしいのはその顔だ。
男の額には一対の角が生え、目は鷹のように爛々と輝く黄色、さらに、牙のように犬歯がとがっていた。
そしてその奇妙な男は、先程まで騒いでいたのが嘘のように黙り込み、中腰になって、警戒した犬のようにおなつを見ていた。
「こんな夜にやってきて……お腹は空いてるかしら?」
だが、そんな奇妙な男を前にしておなつは、にっこりと、微笑んだ。男はおなつのその顔、その目をじっと見てから、コクリと頷いた。
「なら食べさせてあげないとね」
おなつが男を迎え入れ、男は恐る恐る極楽やに足を踏み入れた。
「待って。濡れ布巾を持ってくるわ。あんた、足が汚れている」
おなつにそう声をかけられて、男はあがりとには上らず困ったようにおなつを見た。それは、どうしたらいいかわからない迷子のようだった。
「そこで待ってて。そのまんま上がられちゃ、全部掃除しなきゃいけなくなるでしょ。座ってな。わかる?」
「……ウン」
男は玄関の真ん中で腰を下ろした。おなつはその素直さに微笑んでから、急いで濡れ布巾をとってくるために踵を返した。
最初のコメントを投稿しよう!