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まえがき
今は昔、徳川家康が起こした江戸幕府の平穏はまるで、見たこともない仏を心から信じるが如く妄信的に、すべての民から永遠に続くものだと信じられていた。偏に、幕府がそれだけ求心力を持っていたためである。そして、その強固な求心力の要は、江戸から地方にまで整備された『街道』にある。
幕府が整備した街道には、幕府の命令を地方にまで速やかに届けるために宿場が設けられていた。この、宿場、というものは、泊まるだけの場所ではない。宿場で荷物を預ければ次の宿場まで運ばれ、飛脚に手紙を頼めば足早に男が駆けていく。さらに幕府公用であれば宿場は無償で人馬まで提供される。まさに至れり尽くせり。
そんな街道、そして宿場という制度ができれば、金を払ってでも使いたいと思う一般市民が出てくることは想像がつくだろう。次第に街道沿いに人が集まり、宿場は街となり、そこに文化ができるほどに栄えていった。そしてこの街道ができたことで参勤交代という制度も現実的となり、地方から反乱をするための資金を奪うこともできるようになったのだ。
つまり街道は江戸の号令が全国にあっという間に届け、地方から反乱の意志を奪う、永遠に続く江戸幕府の平穏の要であった。
さて……しかし……とどのつまり……この物語の舞台は街道だ。
いっても、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道といった五街道のような花道ではない。これから話す物語は花道を歩けなくなった悪童たちが使う『裏の道』……つまりは『外道』のお話だ。
先に上げた通り、表の街道はあくまでも江戸幕府に取って都合の良い平穏の要である。そのため、江戸幕府にとって都合の悪い情報や、都合の悪い人間は通り抜けることができない。だったら、そういう悪いものはどうしたのか? そんなものは存在しなかった? いやいや、もちろん、悪は尽きることはない。だから彼らは『抜け道』を使ったのである。
この『抜け道』、道と呼ぶには少々きびしい。今にも崩れそうな地下道を通り抜け、獣が作った道を抜け、山をかけ、森に惑い、川を下る、江戸から京都まで地獄巡りのような一本道――けれど花道を歩けぬ悪童たちにとっては、唯一無二の街道……その名も、誰がいったか、『落街道』。
表の街道ほど至れり尽くせりではないけれど、表の街道ほど窮屈でもなく、もちろん、安全でもない。宿場あれど、幕府公用などと語って人馬の提供を求めれば、奪われるのは手前の命と金と名誉。飛脚なんぞを頼んでみれば、偽の情報を流される。せめて泊めてくれるのかといえば、それはもちろん、あなたがどこで何をした悪童かに因って足をつけられる宿は限られる。
そんな、裏切りと陰謀が渦巻く宿場が落街道には六つある。コロコロと持ち主が変わるので街に名前はなく、便宜上、江戸の方から、一の宿場、ニの宿場……と数で呼ばれ、七の宿場まで存在した。数が間違いではないかと言うと、そうではない。
三の宿場と伍の宿場の間に、四の宿場がないのだ。
これは、四は『死』で縁起が悪いから順をとばした、という簡単な話ではない。
まず、四の宿場があるべき場所には古い森を持つ大きな山がある。斜面はそれほど急ではないため、すぐに登れそうに見えるだろう。しかし、この山には踏み入ってはならない。なぜならここには江戸幕府ができるずっと前、平安の世から一匹の鬼が住んでいて、山に入った人間を喰らうのだ。
……笑い話だと思われるだろう。
実際、多くの悪童が笑い話だと思った。しかし山に踏み入った者は、軒並み死んだ。山を崩してしまおうとしたこともあったが、火を放つ前に火を持っていた人間が丸焼けになり、その家の実家も親戚も皆、焼けた。恐ろしい数の人間が、この山に関わったことで死んだのだ。
もはやこうなれば、呪いだろうがなんだろうが原因はどうでもいい。とにかくこの山には入らない方がいい。悪童たちもそう理解し、無知な悪童がこの山に立ち入らないようにと伝えるために四の宿場はなくなったのだ。
だが、――しかし、――その、多くの悪童が死んだその山の麓に、一軒の宿がある。
三の宿場でも伍の宿場でも揉め事を起こし、どちらにも足をつけられなかった連中が渋々泊まるための、いわば悪童の駆け込み地獄、看板に刻まれた名前は皮肉なことに――『極楽や』。
さあ、さあ、お立会い、物語を始めよう。
これが、極楽やの最後の物語だ。
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