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紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる――。
「旅行なんて、久しぶりですねえ」
そう嬉しそうに笑う妻に頷き返し、私は窓の外に目を向けた。
忙しない朝の新宿。
かつては私も足早に行きかう勤め人の一人だったが、それももうずいぶんと昔の話だ。
「お茶を飲むかね?」
そういうと、少女のようにはにかむ妻。
ツアーバスに乗り込む前に買ったコンビニのペットボトルの蓋を外してやり、手渡す。
薄紫のブラウスを纏った小さな手が、少し震えながらそれを受け取った。
若き日――。
天女のように長く艶やかな黒髪を持つ乙女が、偏屈な堅物だった私を詩人に変えた。
背伸びして買った流行の車でドライブに誘い、美しい花の下で愛を誓ったのは、もう50年も前のことだ。
それからずっと二人、年に1~2度の旅行を趣味にしていたが、車の免許を返納してからは、それも難しいこととなってしまった。
懐かしいわねぇ――。
新聞の折り込み広告に載っていた日帰りバスツアーの写真を見て、妻はそう呟いて目を細めた。
漆黒だった髪は、今は純白の巻き毛に変わっているが、今も変わらず美しい。
老眼鏡の薄紫のフレームが、白い肌によく似合う。
他人に管理された旅行に魅力などない――そんなつまらないプライドで忌避してきたツアー旅行だったが、妻のその表情の前には、私のプライドなど何の価値もなかった。
「いいねえ、申し込んでみようか――」
そういうと、妻は少し驚いた顔をして、それから花のように破顔した。
他のツアー客に続いて、一番最後にバスを降りる。
少し足の弱った妻に手を差し出すと、彼女は「まぁまぁ」と嬉しそうに笑って手を重ねた。
「なんだかお姫様になったみたいですねえ」
右手で杖を、左手で私の手を握り、曲がった腰で私を見上げる。
元々小柄な女性だったが、今はもっと小さくなってしまったようだ。
きみは初めて出会った時から、今もずっと私のお姫様だよ――。
そんな言葉を口にしたら、きみはびっくりするだろうか。
きみは、私の永遠の女性。
きみがいるから、この世界の全ては愛おしい――。
他のツアー客に後れを取りながら、私たちはその場所にたどり着き、息を飲んだ。
樹齢160年の大藤。
視界すべてに広がる紫色のカーテン……その魔力にも似た、美しさ。
「綺麗ですね……」
と、きみが言う。
「あなたと初めてこの藤を見てから、私、紫色が大好きになりましたのよ」
薄紫のブラウスを纏った小さな手が、私の手をぎゅっと握った。
「わたしたち、本当に幸せだわねぇ――」
50年前、まるで天女のように微笑んで、プロポーズを受けてくれた君。
私はずっと、貴女のその優しい美しさの虜だ――。
「写真、撮りましょうか?」
そう声をかけてくれた若者の言葉に甘え、私たちは大藤の幹を背に、並んで身を寄せ合った。
「とってもいい写真が撮れましたよ」
差し出されたスマホの画面に、満面の笑みを浮かべる老夫婦の姿があった。
終
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