共生

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 「お願い・・・もうやめて・・・」  冷たいフローリングに横たわる女と、その姿を上から見下ろす女。カーテンの隙間から指す光は、朝日なのか西日なのかもわからない。  「はあ、いいわけないでしょ?全部、全部あんたが悪いんだからっ!!!」  女は甲高い叫び声を上げ、さらに続ける。  「まだまだ続けるよ。ほら、クズクズしないで。」  「ダメ、これ以上は・・・これ以上やったら」  「うるさいっ、口答えするなっ!!!」  常軌を逸した女の怒号を合図に、パシッ、という体を叩く音が、薄暗い部屋に響き続ける・・・      「相川さん、ちょっといいかな?」  ○×高校2年3組で学級委員を務めていた飛田百合子は、同じクラスメイトの相川香織に声をかけた。  「・・・ちょっとここだと話しにくいことだから、下の自販機前までいこ?」  百合子と香織は特段仲が良い訳ではなかった。 学級委員を務める典型的な優等生タイプである百合子に対して、遅刻や無断欠席も少なくない香織。教師に代わってだらしない香織を説教する程お節介ではなかった百合子にとっては、香織は他人に迷惑をかけない程度の不良生徒、というような認識であった。  何となくでもクラスの真ん中に溶け込むことの出来る百合子と、用事がなければ他人と関わることのない香織。二人が交わる理由はどこにもなく、このまま接点を持つことはないと思っていた。  しかし、小学校時代から学級委員を務めてきている百合子は、人並み以上の正義感を持ち合わせた、俗に言ういい人であった。勝手に自分が損をする遅刻等のだらしない行動に口を挟むつもりはないが、誰かが困ったり傷つくような事態になれば話は別だ。  もちろん、その誰かの中には香織も含まれている。 「・・・それで飛田さん、話って」  二階の教室から昇降口近くの自販機前に到着し、話を切り出そうとした香織の右手首を、百合子はおもむろに掴む。  「痛っ・・・」  「やっぱり・・・相川さん、シャツの袖めくるよ。」  香織の答えを聞くこともなく、百合子は香織のシャツをたくし上げると、先程百合子が掴んだ場所に痛々しく黒ずんだ痣があった。  「おかしいと思ってたんだ・・・相川さん体育の前に着替える時、絶対にみんなと同じ更衣室にいないし、暑くなってきた最近でも上下ジャージ着るし、遅刻する曜日はいつも火曜と木曜・・・これ、誰にやられたの?」  推理という名の武器を振りかざし、遠慮なしに土足で突き進んでいく百合子は、バツの悪そうな顔で俯く香織をさらに追及する。  「相川さん、こんな相手に絶対負けちゃダメ。別にあなた一人で戦う必要はないんだよ?まずは誰かに助けを求めること。それが反撃の第一歩なんだから・・・」  何より真っ直ぐに語りかけてくる百合子は、香織にとって眩しすぎる程強い光だった。そんな光に照らされて目を覚ましたかのように、香織は語り始めた。 「・・・ママ、パパと別れてから機嫌が悪いと私に八つ当たりするんだ。普段は男の家に行くからあんまり家にいないんだけど、その家から追い出される火曜日と木曜日は、私が学校に行こうとすると急に起きてきて、朝から私を鞭で叩いてくるの・・・若いだけで調子に乗ってるとか、男漁りしに学校に行っているんだろとか訳わかんないこと言ってきて・・・」  決死の告白の最中、香織は耐えきれず瞳から大粒の涙を溢れさせる。そんな香織を、百合子はそっと抱きしめる。体のどこに痣があるかわからない香織の体を、赤子に触れるような優しさで包み込んだのであった。  「それはダメ!」 すぐにでも大人に相談をした方がいいと提案した百合子だったが、その提案を香織は断固として拒否した。 「学校の先生とか役所の人とかが家に来たら、その後ママがどんなことをするか想像もしたくない・・・それに正直、私が学校に通えているのは、ママがお金稼いで来てくれるからだし・・・」  痛みという恐怖によって支配されてしまっている香織は、あれこれと理由をつけて母親と引き離されることを拒絶した。  「・・・わかった。とりあえず今日のところは香織ちゃんは体調を崩したってことにして早退にしておこう。きっとその真っ赤な目を見たら、嫌でも大事になっちゃう。」  「うん、今日は金曜日だからママもいないし、帰るのは大丈夫だと思う・・・百合子ちゃん、このことは他の人には秘密にしておいてね?」  「香織ちゃんの了承なしに勝手に話したりはしない。だけど、このままじゃいけないってことも、ちゃんと覚えておいてね?」  「わかった・・・気持ちの整理が出来たら、私頑張って戦う!」  百合子と香織は硬い握手を交わす。人気のない昇降口から一足早い帰路に就く香織を見送る百合子は、安堵のような気持ちが湧いてきた自分の心を一喝する。  まだ、何も解決はしてない。私が香織ちゃんにとってのヒーローになるんだ!      昼過ぎに学校を出た香織は、電車と徒歩を駆使して三十分弱という時間をかけて自宅へと辿り着く。我が家となっている部屋がある階までマンションの階段を上がっていくと、実に食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。そしてその匂いが家に近づくにつれてより一層濃くなっていることに気が付く。  丁寧でも乱暴でもない、ごく自然な感触で玄関ドアを開くと、台所の明かりがついている。香織は一目散に早歩きで台所へ向かうと、そこにはコンロの前に立つ母親の姿があった。  「あ・・・これは」  「なにしているの?」  香織の姿を見て狼狽する母親を尻目に、恐ろしい程に感情を殺した香織がじりじりと距離を詰める。  「ち、違うの、これは・・・」  「腹をすかせた娘に、温かいご飯を食べさせようとしているの?・・・この匂い、メニューはカレーかな。」  逃げ場を失い、その場に倒れ込む母親をよそに、香織はぐつぐつと煮立っている鍋に刺さった金属製のおたまを取り出すと、おもむろに自らの頬に押し付けた。  「きゃあああ!」  母親の悲鳴と反比例するように、香織の表情に笑みが浮かび上がる。  「ああ、熱いなあ・・・うん、私ってちゃんと不幸だ・・・」  しばらくの間、恍惚とした表情で自らの状況に酔いしれた香織は、余韻まで味わい尽くしたのち、しゃがみ込んで涙を流す母親に顔を近づける。  「無責任に私を幸せにしようとしないでっ!!!」  目を見開き、唾を飛ばしながら大きな声で怒鳴りつけるその姿に、虐待を受ける娘の面影は微塵もない。  「いい?私は離婚してひとり親の下で虐待されながら育つ、可哀想で不幸な女の子なの。それで同情されながらみんなに優しくされながら生きてくの。なのに、そこそこ稼ぎがあるあんたが親らしいことしたら、私はふ・つ・うになっちゃうって、何回言ったらわかるのよっ!!!」  既に冷たくなっているおたまを母親の顔の真横に押し付ける。おたまについていたカレーが飛び散り、母親の頬をかすめた。  「普通になったら終わりなの・・・真面目に学校行くのも、頑張って働くことも当たり前になって、誰も褒めてくれなければ何も評価してもらえない。だけど、そこに不幸な生い立ちが一つあるだけで、世界は全て変わる・・・普通より下の場所で過ごした経験があれば、普通に戻るだけでみんなは凄いことをしたと喜んで私を受け入れてくれる。スタートラインがマイナスであれば、マイナスをゼロに戻すだけで周りは私を褒めてくれる・・・親からの虐待って、みんなからちやほやされるための魔法カードなんだ・・・」  その時、ピンポーンというインターホンの音が部屋に鳴る。起き上がろうとする母親を制し、既に焦げ臭い匂いを発し始めている鍋におたまを戻した香織は、落ち着いた足取りで玄関ドアへ向かった。  「こんにち・・・うあ、香織ちゃん⁉どうしたのその跡?」  部屋の外に立っていたのは百合子であった。百合子は香織の姿を見て、自分と別れた後に香織に起こった出来事について、嫌な予感が頭をよぎる。  「さあ、入って。」  しかし、心配する百合子と裏腹に、妙な落ち着きを保つ香織に部屋へ招かれる。より一層の混乱状態に陥った百合子であったが、促されるまま部屋へと歩みを進めた。  整理されている、というよりは物が明らかに少なく、それでいて言い難い圧迫感が伝わってくる部屋へ足を踏み入れる。廊下を進み、焦げ臭い匂いに誘われて台所へ目をやると、一人の成人女性が泣きながらへたり込んでいる。 「わっ・・・」  思わず声を出した百合子の混乱状態は、解消されるどころかより深い沼へとハマっていく。  おそらく、彼女が香織の母親なのであろう。しかし、どう見ても香織を虐待しているようには見えない。寧ろその逆で・・・  「百合子ちゃん。」  呆然と立ち尽くす百合子を、香織は後からそっと抱きしめた。  「私が頼れるのは、あなただけなの・・・私を助けてくれるよね?これからも、私だけのヒーローになってくれるよね?」  ヒーロー。その言葉に百合子の頭は支配される。飲み込めない状況は百合子の思考回路を詰まらせるために十分過ぎる要因となり、自らに都合の良い短絡的な解釈を百合子に与えた。  「そうだ、私が香織ちゃんを守る・・・私が香織ちゃんのヒーローになる・・・」  香織は頬に火傷を負っている。きっと台所で腰を抜かしすすり泣いている女は、娘を虐待して情緒不安定になっているだけの、最低な人間なんだ・・・  それに、事実なんてどうでもいいじゃない。  私を、私だけを頼ってくれる人がいるのだから。  それ以上、大切なことはある?  「百合子ちゃん・・・また私ママにぶたれちゃった・・・」  「大丈夫香織ちゃん、私がいるよ。私がずっとそばにいるから・・・」  「うん・・・これからもよろしくね・・・百合子ちゃん。」
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