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思えば、最初に気付くべきだった。
いつも激混みの朝の常磐線下りで、席なんか空いている訳が無いのだ。
その日、成瀬奏太はいつもの通り龍ケ崎市駅で常磐線に飛び乗った。
実際、結構ギリギリだった。
原因は単純に寝坊だったのだが、昨夜、今日やる小テスト対策の勉強をしていてつい夜更かしをしてしまった。
気付いたらバスの時刻を過ぎ、母親に頼み込んで駅まで車で送って貰った。
それだって、いつも乗る電車を二本も乗り過ごしている。
発車メロディに急かされつつロータリーから走って電車に飛び乗ると、体育の時間以外で久々に走ったからか、奏多は足がガクガクしているのに気が付いた。
――やっぱり段飛ばしの連続階段上り下りはキッついな。
汗を拭いながらふと見ると、乗車口の隣の隣の席――つまり、端から二番目の席が一つ、偶然ポツンと空いていた。
「すみません、すみません」
奏多は嫌そうな顔を向ける乗客たちに謝りながら人ごみを縫ってそこまで行き、空いている席に座った。
目的の土浦駅まで四駅。
これで座っていける。
朝っから全力疾走して足が震えている奏多にとって、これ程ありがたいことは無かった。
ところが――。
「うぅ。うぅぅぅぅぅぅ……」
最初、何の音かと思った。
思わず辺りを見回す。
近くに立っている人たちが一斉に気まずそうに目を逸らす。
そうして奏多は気付いた。
隣に座っている人が泣いているのだと。
――だからここ、空いてたんだ!! 厄介なとこ座っちゃったなぁ……。
奏多は、そーっと隣の人を見た。
足元から上にゆっくり視線を移す。
黒のローファ。見覚えのある校章の入った紺の靴下。紺地のチェックのスカート。
――あれ? これうちの制服じゃね?
紺地に白線の入ったベスト。グレーのリボンタイ。低めのポニーテール。
「お前……小鳥遊由良か?」
泣いている女生徒が顔を上げる。
奏多の読み通り、少女は奏多のクラスメイトの小鳥遊由良だった。
四月のオリエンテーションで、確か取手に住んでいると言っていた。
――うわっ。
だが、女子バスケットボール部で一年生ながら期待の新星として活躍する、元気だけが取り柄の小鳥遊由良のその顔は、どれだけ泣けばこうなると言わんばかりに涙と鼻水でグシャグシャだった。
「成瀬ぇぇぇぇ」
由良も、隣にいたのがクラスメイトだと知ってホっとしたのか、両手で奏多の左腕にしがみついた。
「え? おい、小鳥遊! ちょ、落ち着け。どうした?」
「ひぃぃぃぃぃぃん」
奏多は由良に小声で話し掛けるも、由良はひんひん泣くばかりだ。
巻き添えを恐れてか、周囲の乗客がさりげなく距離を取る。
――そりゃこんな近くで女の子が泣いていたら、巻き込まれたくなくって離れるよな。
【土浦ーー、土浦ーー】
目的の土浦駅に着いたらしく、駅のアナウンスが鳴り、乗客たちが一斉に降りて行く。
「おい小鳥遊、着いたぞ。降りよう。このスクールバスに乗り遅れると完全遅刻だ」
奏多は膝に抱えたバッグを持ち、腰を上げようとして、左腕が全く動かないことに気付いた。
この席に座ったときのまま、由良が左腕をガッチリ掴んでいるのだ。
由良は泣くことに夢中で、駅に着いたことに全く気付いていない。
「ちょい、小鳥遊、降りるぞ? おい小鳥遊?」
「ひぃぃぃぃぃぃん」
プルルルルルルルルルルルルルルル。
「え? ちょ、おい! 馬鹿、これ降りないと遅刻……」
プシューー。
「あ……、今日、小テスト……」
扉が閉まり、電車が無情にも走り出す。
ガタンガタン、ガタンガタン。
――勘弁してくれ、ホント……。
奏多は観念したか、左腕を由良にガッチリ掴まれたまま頭を後ろの壁にもたせ掛け、目を瞑った――。
◇◆◇◆◇
「おい、降りるぞ、小鳥遊。いい加減起きろ」
「……ふが?」
身体を揺すられ起こされた由良は、ようやく目を開いた。
散々泣いたからか、目が重い。
どうやら泣きつかれて眠ってしまったらしい。
「あぇ? 成瀬? なんで……」
由良は口元に違和感を感じ、触ってみた。
よだれが付いている。
見ると、隣に座る奏多の左腕の袖にも、由良のよだれがベットリついている。
「ご、ごめんごめん!」
由良が慌てて奏多の左腕に付いたよだれを拭う。
完全に染みている。
と、そこで由良は異変に気付いた。
車内に自分たち以外誰もいない。
「悪いがあんまり時間が無い。説明は後だ。降りるぞ」
「う、うん」
奏多と由良がホームに降りると同時に、さっきまで乗っていた電車の扉が閉まる。
だがそこは、見たこともない駅だ。
「勿来? ……どこここ」
「だから。勿来だろ? 福島の」
由良は、客もまばらなホームをさっさと歩く奏多に追いつこうと早歩きになる。
身長百五十五センチの奏多に比べ、由良は身長百七十センチだ。
リーチが違うのであっという間に追いつくと、由良はホームの柱に貼ってある路線図を指差した。
「え? 勿来ってここ? 遠っ! 何でこんなとこで降りたの? 成瀬、馬鹿なの?」
「お前に馬鹿って言われたくないわ! ここまでお前が起きなかったんだよ!」
奏多もさすがにムっとして言い返す。
奏多は改札を通ってすぐあったロッカーに自分の荷物をぶち込んだ。
「小鳥遊も入れろ。まだスペースあるから。あ、財布は持ってろよ?」
「あ、うん」
駅を出ると、太陽が眩しかった。
由良が腕時計を見ると、朝十時を過ぎている。
学校はとっくに始まっている。
由良が慌てる。
「ね、ね、成瀬、サボり? サボり?」
「仕方ねぇだろ! 今から学校行ったって、着く頃には昼過ぎちまってるわ!」
「……ごめん、あたしのせいだ」
由良がカンカン照りの道路で立ち尽くす。
散々泣き尽くした由良の目にまた涙が溜まってくる。
振り返り、しばらく由良を眺めていた奏多は、やがてため息を一つつくと由良のところまで戻った。
「気にすんな」
奏多はため息混じりにそう言いながら左手を差し出すと、由良の右手を無造作に握って歩き出した。
「あぇ? 成瀬?」
由良は顔を真っ赤にしつつも、手を握られたまま素直に奏多と一緒に歩いた。
そのまましばらく、車一台通らない道を歩く。
「ね、成瀬。これ、どこ向かってるの?」
「もうすぐ着く」
奏多の宣言通り、脇道を奥に奥に入って行き、約二十分で目的地に着いた。
それは、海だった。
平日の午前中だけあって誰もいない砂浜に、絶え間無く波が打ち付けている。
由良もさっきから妙に風が強いな、とは思っていたが、ずっと泣いていたせいで鼻が効かなくなっており、潮風に気付かなかったのだ。
「海だぁぁぁぁぁぁ!!」
由良は目の色を変えて海に向かって走り出した。
――まるで犬だな。
呆れながら由良を見送った奏多だったが、由良が砂浜で靴と靴下を脱ぐどころか、着の身着のまま海にダイブするのを見てさすがに慌てた。
「おい馬鹿、なんて事しやがる! 帰りのことちょっとは考えて……あーあ、頭のてっぺんから足の先までまでびしょびしょじゃねーか。お前ホント馬鹿だな」
「気持ちいいよ! 成瀬もおいでよ!」
由良が制服姿のまま、本気のクロールをしている。
奏多は常識を吹っ飛ばす由良の自由さに苦笑いを浮かべると、脱いだ靴下をローファに突っ込み、ズボンの裾を膝までたくし上げ、海まで走った。
◇◆◇◆◇
「んで? 何があった?」
ひとしきり遊んで砂と海水まみれになった奏多は、制服のズボンが汚れるのも気にせず砂浜に座ると、隣に座る由良に話し掛けた。
日差しが眩しい。
「……フラれた」
「だろうな。相手は誰?」
「東郷さん」
「男バスキャプテンの? ありゃダメだろ、女バスキャプテンの武藤さんと付き合ってるだろうが」
「そうなの?」
「そうなの! お前女バスだろ? 自分とこのキャプテンの恋愛事情くらい把握しておけよ」
「え? だってあたし、東郷さんのメッセのID、武藤さんから聞き出したのよ? ヤバくない?」
「自分の彼氏のメッセIDを可愛がってる後輩女子に聞かれるって、武藤さんのお気持ちを察するに余りあるな。お気の毒なこった。まぁでもさ、一晩経ったんならもうちょっと気持ちを落ち着けてだな……」
「一晩? 告白したの今朝だよ?」
「今朝ぁ? いつ?」
由良の予想外の返しに、思わず奏多の声が引っくり返る。
「七時ころ」
「学校行く直前のクッソ忙しい時間帯にか。んで? 先輩は何て?」
「付き合う訳ないだろ! からかうのもいい加減にしてくれ! だって」
「あー、先輩がキレる気持ち、痛いほど良く分かるなー」
だが、半ば自分の世界に入っているのか、由良は奏多の独り言じみた呟きが耳に入って無い様子で続けた。
「こっちは遠くから見かけるだけでほとんど話したことの無い先輩に何て告ったらいいのかって一晩中考えてたっていうのに。何も怒ること無いと思わない? だいたいあたし――」
「ちょっと待て、ちょっと待て」
奏多が両手を開いて由良のしゃべりを止める。
「何よ」
「今日、化学の小テストがあったの知ってるか?」
「何の話?」
「……聞いたオレが馬鹿だったよ」
由良にはテスト勉強という概念が無いらしい。
――そりゃあんだけ赤点取るわけだ。
「お前さ、高校入学してまだ三ヶ月だぜ? ほとんど話した事も無い先輩のどこを好きになった訳?」
「顔」
「あ、そう」
由良が膝を抱えたままうつむく。
「人と付き合った事の無い成瀬には分かんないんだよ。あたしはあたしで真剣だったんだ」
奏多は由良を横目でチラっと見ると、手に当たる砂を掬って前方に向かって投げた。
苦い思い出がよみがえる。
「オレだって人と付き合った事くらいあるさ」
「え? 成瀬、彼女いた事あるの? いつ? どんな人?」
さっきまで涙ぐんでたはずが、暗い雰囲気が一瞬で吹っ飛んで、かぶりつきで尋ねて来る。
「お前、そういうところだぞ。……ええと、中学二年の時、半年くらいな。何がダメで別れる事になったのか、いまだに分からねぇ」
「あたしでさえ人と付き合った経験が無いってのに、成瀬のくせに生意気ィー。ねぇ成瀬、あたし喉渇いた。ジュース奢って」
奏多はとことん自由な由良に呆れ顔を向けながらも腕時計を見た。もう昼近い。
「ジュースと言わず、飯くらい奢ってやるさ。たくさん泣いて、たくさん運動して、腹減ったろ?」
「うん!」
奏多は立ち上がって砂を払うと、由良と共に駅に向かって歩き出した。
◇◆◇◆◇
「同じ冷やし中華食べるんならさ、コンビニ弁当よりラーメン屋さんの食べた方がお得な感じするよね。奢って貰っておいて何だけどさ」
「ホント、奢って貰っておいて何だな!」
由良が豪快に麺を啜る。
オニギリ二個にお弁当が一個、フライドチキンにペットボトルを一本。それで終わらずこの冷やし中華だ。しかもこの後食べる用の、デザートのパフェまで注文済みだ。
体育会系だけあって由良は良く食べる。
適当な店が無くて、仕方なくコンビニのイートインコーナーで食べる事にしたのだが、由良のまぁ、うるさいこと、うるさいこと。
食べながらもおしゃべりが全く止まらない。
奏多はオニギリ片手に反論した。
「そりゃラーメン屋があるんならそこで奢る事だってやぶさかじゃないぜ。ラーメン屋があるんならな! だが無いんだ! ラーメン屋はおろかファミレスさえな! コンビニがあっただけめっけもんだろうが。つーか、奢って貰っておいて悪態つくような奴がいるとは思いもしなかったぜ」
「ごめんごめん。あ、でもこれはこれで美味しいよ。どこでも食べれる味だけど」
「そういうところだよ!」
そう言いつつも由良の箸が止まらない。
――たかだかコンビニ弁当を、ホント美味しそうに食べるな、こいつは。こっちはオニギリ二個で腹一杯になっちまったってのに。つーか、失恋して可哀そうだと思うから奢ろうかとも思ったが、こんなに食べるんなら変な仏心出すんじゃ無かったぜ。
「犬みたいだ……」
「何か言った?」
「いや。オレ昔、犬飼ってたことがあんだよ。ずいぶん前の話だけどな。そん時の犬が、今の小鳥遊みたいにガツガツと良く食ったんだよ」
「へぇ……」
由良が冷やし中華のスープを飲み干し、容器をテーブルに置く。
「何飼ってたの?」
「どうってことない拾ってきた雑種。白かったな」
「あたしはあたしは? 何の犬っぽい? ミニチュアダックス? 柴犬? それとも――」
「ボルゾイ」
「……褒められてる感じしないぞ?」
「褒めてねーもん」
「ムキー! パフェ貰ってきて! 早く!」
「お前、ホントに図々しいな」
奏多がカウンターでパフェを貰って帰ってくると、さっきまでの躁気分が過ぎ去ったのか、由良がまたちょっとアンニュイな雰囲気を纏っていた。
奏多は黙って由良の前にパフェを置くと、椅子にそっと座った。
由良が口を開く。
「優しいね、成瀬。どうしてそんなに優しいの?」
「あ? 単純に行きがかり上って奴なだけだ。たまたまそういう場面に出くわしちまったから、最後までケアしねーと、ってなってるだけ」
「成瀬みたいな人が彼氏だったら良かったのにな」
「何言ってんだ、お前」
「……ひょっとして……あたしのこと好きだったり? するとか……」
由良が上目づかいにチラっと奏多を見た。
なにがしかの期待が込められている目だ。
奏多はちょっとだけドキっとしたが、即座に否定した。
「ねーよ! 今日の今日まで小鳥遊はオレにとってモブでしか無かったよ!」
「そりゃそっか。あたしみたいなデカ女、興味持ってくれる人なんかいないか」
由良が落ち込んだ顔でテーブルの上にグデっとアゴをつける。
顔の横数センチに置いてある、買ったばかりのパフェのアイスがゆっくりと溶けて行く。
奏多は横のウィンドウから外を見た。
ガラス一枚隔てただけで、中はクーラーがガンガンに効いて天国だ。
外はまだ暑い。
「お前は魅力的だと思うぜ? 健康優良児って感じでさ。まぁ何て言うか、色々変わってるところがあるとは思うけどな」
由良は座り直し、上目遣いに奏多を見た。
「ね、いっそのこと付き合っちゃわない? あたしと」
「今朝他の男に告ったばかりの女が何言ってんだ? 馬鹿にしてんのか?」
「そんな事無いよ! あたしほら、デカいからさ。あんまり優しくされた事無いんだ。だから……」
奏多はテーブルに置いてある自分のペットボトルに口をつけると、昔を思い出し、窓の外を見た。
ちょうど白のミニバンが走っていく。
「オレは恋をしない」
「何で?」
「前の恋が何でダメになったのか分からないからだ。それが分からなければ、次の恋でもまた同じ失敗をする。だからオレは恋をしない」
「……案外、理由なんて無いのかもよ?」
「理由が無くて別れる訳無いだろ」
「その時ちょうど雨だった、とか、朝、髪が上手く纏まらなかった、とか」
「そんなんで別れ話されてたまるか!」
「意外とそういうものよ。中学の恋なんて、恋に恋する、泡みたいなものだもの」
どちらからともなく、ため息をつく。
と、由良がパフェにかぶりついた。
てっぺんのアイスがヘタって来ているが、まだまだ冷たそうだ。
「いっけない、アイスが溶けちゃう! いっただっきまーす!」
「小鳥遊を見てると飽きないな」
奏多は苦笑いしつつ、由良の豪快な食べっぷりに見惚れた。
◇◆◇◆◇
ちょっと照れながら駅のトイレから出てきた由良は、奏多の体操服を着ていた。
夏仕様なので、襟と袖口が紺の、白地の丸首シャツに紺の半ズボンだ。
シャツの胸に校章と共に『成瀬』という名前が書いてある。
成長を考えた奏多の母親が大きめのサイズのを買っておいてくれたお陰で、今、奏多より身長のある由良が着ることができている。
駅に着いた時、由良の制服は海水と砂で汚れまくっていた。
足だけ海に浸かった奏多と違って、由良は制服を着たまま海で泳ぐなどという暴挙をしたからだ。
「ごめんね、成瀬。洗って返すから」
「次の体育は金曜だ。それまでに返してくれればいい」
自分の荷物と由良の荷物をホームのベンチに置いたまま、奏多はうなずいた。
三十分に一本の間隔らしく、次の電車はまだ来ない。
人もまだまばらだ。
と、ホームでハシャぎながら体操服姿でケンケンパをしていた由良が不意に奏多の方に振り返った。
五メートルの距離を隔てて、真っ直ぐ奏多の目を見る。
「ごめんね、成瀬。わたし今まで人と付き合った経験ってものが無いから、これが恋かどうかも分からない。でも今、確かに心が急いている。ドキドキしてる。今朝の今で何言ってんだって感じではあるんだけど。……でも。今、小鳥遊由良は、あなたが……成瀬奏多が好きです。好きになっちゃってごめんなさい!」
由良は立ったまま、奏多に向かって頭を下げた。
奏多は面白くも無さそうな顔をして由良の告白を聞いていたが、やがて頭を掻いて言った。
「……いいぜ、付き合おう。このまま立ち止まってるのも心が死んでるみたいで良くないとは思っていたしな。ま、心のリハビリって奴だ。お前見てると飽きねーし」
まさかOKを貰えるとは思わなかったのか、由良が立ったまま震える。
手足をバタバタさせて、急に挙動不審になる。
「成瀬ぇぇぇぇ!!」
由良は走って奏多に抱き着いた。
それはハグというより、もはや犬アタックだった。
由良は奏多に猛烈に抱き着くと、奏多の背中をバンバン叩いた。
「成瀬、好き! 好き! だーい好き!!」
「痛い! 痛いってば! 痛いって言ってんだろう! そういうところだぞ!!!!」
ホームに猛スピードで電車が入って来る。
風に吹かれながら、二人は初めてのキスをした。
END
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