伊豆旅行

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伊豆旅行

それからまた電車に乗り、伊豆の柾木のうちの別荘に着いた。和洋折衷(わようせっちゅう)の館である。みたところどうやら、柾木の家は、まったく「斜陽」していない。 居間には、トナカイの頭部が壁に飾られていた。 「外してくれって、頼んでいるんですけど、外してくれないんです」 柾木がため息を洩らした。 「ちなみにトナカイと言う名前はアイヌ語に由来します」 「フィンランドのサーミ人はトナカイの放牧をしていますが、ロシアにはトナカイの遊牧をするサモエド人がいますね。カナダのイヌイットもトナカイの狩猟をしていた───」 「人間って多様ですね」 「俺はトナカイの頭が飾ってあるお前の家に人間の多様性を感じるよ」 二人はわらった。 「ここが書斎ですから」 東西の古典がずらりと並んでいる。 「今日はぼくが夕食作りますから、適当に時間潰しててください」 柾木がキッチンへ姿を消すと、板垣は書斎を眺め始めた。 『静岡の民話』という本が目についたので、開いた。 むかしむかし、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)というところに、凛々しい若者がいた。と始まる物語が書かれたページだった。物語のタイトルは餅売りの嫗(おうな、おばあさんという意味)である。頼朝が伊豆にいた間、老婆に草餅を振る舞われていて、頼朝がお礼に後年その老婆にお寺を建立してあげたという昔話である。板垣は偶然、源頼朝の昔話のはじまるページを開いたのだ。しかしこれは、偶然ではないかもしれない。ユングの提唱した「シンクロニシティ」かもしれない。ユング(1875~1961)はスイスの有名な心理学者で、「シンクロニシティ」とは、虫の知らせのような、意味のある偶然の一致をいう。だが、柾木か、柾木の家族が、よくこのページを開いていたのかもしれない。だから、この本がそこが開くくせになっていたのかもしれない。 柾木が用意した夕食は冷やし中華だった。 食後に柾木は、デザートを供した。 「もうお腹いっぱいかもしれませんけど・・・」 それは、緑色をした、草餅だった。よもぎが混ぜられているので、緑色をしているのである。 「ああ、これは頼朝の・・・」 「そうなんです」 「ありがとう、うれしいよ」 板垣は喜んで草餅を食べた。 「よもぎは、ぼくが摘んだものなんですよ」 「ぼくにもお寺を建立してくださいね」 「ははは、きみなら自分でできるだろ」 「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」という、百人一首にある光孝天皇(830~887)の和歌を板垣は思い出した。意味は、あなたにあげようと、春の野に出て若菜を摘むわたしの衣の袖に雪がしきりに降りかかってきます、である。天皇がまだ親王のころ、ある人に若菜を贈る際に添えた歌だという。 しかし板垣は甘い草餅を美味しく食べながらも、キルケゴールのコーヒーのことも思い出していた。 翌日、かれらはまず修禅寺に参詣することにした。修禅寺は、伊豆市修善寺にある曹洞宗のお寺で、空海の創建とされている。空海(774〜835)は、平安初期の僧。真言宗の開祖。二人は合掌参拝した。それから、宝物殿に入館料を払って入館した。板垣の目当ては、「頼家の面」である。源頼朝の長男、源頼家(1182~1204)が、伊豆修禅寺に幽閉されていたとき、漆(うるし)の風呂に入れられ、顔が腫れ上がったのを、鎌倉にいる母、北条政子に見せるため、お面にしたものだという。「頼家の面」のことは、劇作家・小説家の岡本綺堂(1872~1939)が戯曲にしている。『修禅寺物語』である。しかし、この戯曲では、「頼家の面」は、漆で腫れ上がった顔を写しとった面ではない。頼家が、自分の普通の顔の面を修善寺の職人夜叉王に依頼するのだが、そのお面に死相が出る。何度作り直しても死相が出るので、献上を渋っていたのだが、頼家は取り上げる。その後、北条氏によって頼家は暗殺されたため、お面の職人夜叉王は、自分は人の運命を写し取ったかと、自分は天下一だと喜ぶ。 別の日には、二人は韮山(にらやま)に行った。源頼朝が、配流され住んでいた蛭ヶ小島がある。島と言うが、島では無い。韮山駅を出て、歩いていくと、歩道に、源氏や平家の説明のプレートが、何枚もずっと嵌め込まれている。そこをしばらくまっすぐ行くと、右手に蛭ヶ島公園が見えてくる。そこに、源頼朝と北条政子の像がある。板垣は像の横に並び、柾木に写真を撮ってもらった。 それから二人は、来た道を戻り、そのまままっすぐ行き、道を曲がり、あるお寺を目指した。道中、「頼朝・政子語らいの道」と標識のある道を通った。英語で、「Yoritomo&Masako Lover’s Lane」とある。「ラバーズレーン」とは、「恋人たちの道」という意味である。板垣は、いろいろ考えた。自分には柾木と恋人になれる可能性はあるだろうか? もしそうなら、どっちが頼朝で、どっちが政子だろうか? お寺に着いた。1189年、北条政子の父北条時政建立のお寺である。源頼朝が祈願したという。拝観料を支払い堂内に入ると、運慶の手になる国宝の仏像五体に出迎えられた。僧侶が、仏像の説明をしてくださった。中央に阿弥陀如来坐像、その向かって右に毘沙門天像、左に不動明王像、不動明王像の手前右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)像、不動明王像の手前左に制吒迦童子(せいたかどうじ)像が据え置かれている。二人は賽銭して手を合わせた。板垣は制吒迦童子像のポストカードを購入した。ユーモラスだと思い、アミに、この葉書をあげようと思ったのだ。アミが板垣にくれた聖セバスティアヌスのカードのお返しである。二人はそのお寺で北条時政のお墓に手を合わせ、お寺を出て、お寺のすぐ後方にある、守山八幡宮に向かった。ここも源頼朝にゆかりがある。本殿は石段を少し登った所にある。神秘的な森の中である。 板垣と柾木の二人は伊豆を巡り、土肥港(といこう)からフェリーに乗って清水港に行き、そこから静岡駅に行って、新幹線に乗り、帰ることにした。 修善寺駅からフェリーの出る土肥港までは、バスが出ている。二人はバスに乗った。バスの窓から見える山々が見事である。 土肥で、二人は金山(きんざん)に行った。そこの施設内に、池があって、鯉が泳いでいた。柾木は、自販機で鯉の餌(えさ)を買った。最中(もなか)の中に緑色の丸い餌が入っている。柾木は、最中を二つに割って、一つを板垣に渡した。 「どうぞ」 「半分払うよ」 「安いですから」 だが、板垣は半分払った。 二人は、鯉に向かって餌を放った。 鯉は集まってきて、餌を奪い合っている。餌を投げる柾木は涼しい。板垣は、柾木の父が社長だという噂を思い出した。餌を投げる柾木の姿と、柾木の将来が重なってみえた。餌がなくなったので、最中をちぎって鯉にやった。 土肥港から、フェリーに乗船した。最終便の17時40分の便である。柾木は、左側の甲板に出た。 「あれ? 清水港行きは、富士山が見えるのは右側じゃないの?」 板垣が訊いた。 「まずは太平洋側を見ましょう。富士山はまだですから」 「なるほど」 まだ出航しないので二人は海を眺めている。浮(うき)の上に鷗(かもめ)が乗っている。 纜(ともづな)が解かれフェリーが出港した。船は、白波を立てて海をゆく。 船は、太陽を目がけて進んでいく。土肥港から、清水港は西の方角にあるからだ。太陽のひかりが、海に反射して、黄金(こがね)色に耀(かがや)いている。それが、船の前に一筋の道のようになっている。今、雲が、太陽を部分的に隠して、そのあいだから、ひかりが差しているからだろうか。雲がなければ、太陽光はもっと広範囲に注いでいたのだろうか。とにかく、今このときは、船の行く道を、一筋、黄金色に照らし出しているかのようだ。 これは、柾木の将来なんだろうか。柾木の将来は、約束されている。海に描き出されたこの太陽のひかりの道のように黄金色だ。これは、はたして、板垣の行く末はどうだろうか? この道のように、ひかり耀いているだろうか? ───それは、板垣次第だ。
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