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それぞれの幸せ
ある冬のこと。もうとっくに外は真っ暗になっていた。暖房のついていないトイレはとても寒かったはずなのに、私は驚きと興奮から自分の体温がみるみるうちに上昇していくのを感じた。
私は妊娠検査薬を持って、幸弘さんの待つリビングへと走った。
「幸弘さん! 赤ちゃん、できてました」
ゆったりソファに腰掛けつつも内心落ち着かなそうに貧乏ゆすりをしていた幸弘さんは、持っていたスマートフォンを手すりに伏せてばっと立ち上がった。
そしてそのまま、彼の元へ駆け寄った私を、その広い胸で抱きとめた。そのままぎゅっと力強く私を抱きしめる。
「幸弘さん、痛いですよ……」
「あ、嬉しくてつい。ごめんね、はるのちゃん」
その腕があまりにも力強くて、私は笑った。しばらくして、ようやく彼の腕から解放された私は、改めて自分の右手に握られた、赤ちゃんがいるという証明を見つめた。
私のお腹に大好きな幸弘さんの子供がいる、そのことが嬉しくてたまらなかった。
半年前に私たちは結婚し、いつの間にかまたお互いを名前で呼び合うようになっていた。私の敬語は相変わらず外れないままだったけれど。
両親からそろそろ子供を作れという話の出た矢先のことだ。ほとんどズレのない私の生理が、1週間経ってもやってこなかった。
これはもしやと思い、私はすぐさまドラッグストアに向かった。そして、検査窓には見事な紫色の線が表れた。つまり結果は、陽性だった。
「今年度が終わったら、しばらくは生徒たちともお別れですね。寂しいな」
私は、彼と結婚してからも教員の仕事を続けていた。
異動して学校が変わってしまったから、もう干物ちゃんと呼ばれることは無くなってしまったけれど、いまだにスーパーで魚の干物を見かけるとあの頃のことを思い出してしまう。
今でも、私は時折中村くんのその後を気にしていた。色恋云々の話ではなく、大切な教え子として彼のことを心配していた。
彼は結局、美大に進学したのだろうか。幸弘さんは意外とやきもち焼きだから、このことは絶対に口にしないようにはしているけれど。
そう思いながら過ごしていたところ、数日前私はたまたま訪れた都内S区にある某画材屋で中村くんを目撃した。
隣には、背の高くて華奢な女の子を連れていた。ピタッとした黒いパンツに厚底ブーツ、年季の入った革ジャンを羽織ったかっこいい女の子だった。
ーー中村くん、彼女ができていたんだね。
私はふたりの邪魔をしないようにそっと遠くから彼らを見守った。ふたりは、とても楽しそうに画材を見て回っていた。
幸せそうに笑う中村くんの横顔を見ていると、彼も大人になったのだなぁと私まで幸せな気持ちになった。時間が経つのはいつだってあっという間だ。
「そろそろ夕飯にしましょうか」
私は嬉しそうに検査薬の写真を撮っている幸宏さんに声をかけた。内心、そんなの撮らないでください……と思っていたけれど、彼があまりにも嬉しそうにシャッターを切り続けるので結局黙っていた。
「今日の夕飯は?」
彼は台所にやってきて、夕飯の準備を手伝ってくれた。私は冷蔵庫から、朝のうちに用意しておいた夕食たちを取り出した。
「アジの干物です。あとはお野菜とお味噌汁と……」
そう答えてまだ冷たい焼き魚を手渡すと、彼はふふっと笑い「干物……懐かしいね」と呟いた。
そして、皿の上に二匹仲良く並んだ魚たちを、電子レンジに入れた。
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