はるのちゃん

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はるのちゃん

 翌朝、珍しく目覚ましで起きることのできた私は、朝食を摂ったあと少し寝不足なまま見慣れた顔に化粧を施した。化粧が進むにつれて、どんどん自分の顔が華やかになっていく。 「すごい……やっぱり私じゃないみたい」  口紅を座卓に置いた私は、鏡に映った自分の顔を見て呟いた。そこに映っていたのは、今までの冴えない干物女ではない。紛れもなく、一般の女性であった。  こんなに冴えない私が、こんなに華やかになるなんて。中高のクラスメートたちがこぞって女性向け雑誌を読み、隠れて化粧をしていた意味がようやくわかった。  化粧は、女を変えるのだ。ほんの少しだけ自分に自信を持てた私は、いつものパンプスを履いて、玄関のドアを開けた。  見送りをしてくれた母親が、きれいになっちゃって。と、微笑んだ。人から見てもきれいになった、ということがわかって私の足取りはますます軽くなった。  私はるんるん、と鼻歌でも歌いたいような気分で駅に向かい闊歩した。いつもは少し憂鬱な職場までの道のりが、なぜだかとてもきらきらと輝いて見えた。  自分に自信があると、こんなにも世界が変わって見えることを、と私ははじめて知った。いつもうじうじしていて、常に謙虚を通り越して自虐に走っていた自分に、このことを教えてあげたいくらいだった。  普段より早く家を出たため電車内は少しだけ余裕があり、運良く座ることもできた。いつのまにか車内で効いていた冷房が暖房に変わる時期になっていて、私は季節の境目を感じた。 「おはようございま……え? え? 誰…………?」  職員室に入って挨拶をしたところ、たまたま入口付近で立ち話をしていた男性教員2名が、私を二度見した。 「えっ? 三浦ですけど……」  そのあと、二人ともしばらくぽかんと私の顔を見つめていた。そのうちの片方、数学科の教員が眼鏡を何度も直して、私のことを観察するような目で眺めた。 「いやぁ……全然わからなかった。なんというか、ずいぶんおきれいになられて……」  その後彼は自分の無礼な発言に気がついたように、すみませんと呟いた。  職員室内に目をやると、ほとんどの教員が私に注目していた。私が見られていることに気がつくと、彼らは各々の仕事に戻っていった。  なんだか気恥ずかしくなってしまい、私は早足で自分の座席へと向かった。隣には、もうすでに支度を済ませて優雅にコーヒーを飲んでいる高野先生の姿があった。 「おはようございます、三浦先……」  先生は隣に座った私に挨拶をしたあと、目をぱちくりとさせながら固まってしまった。飲もうとして持ち上げていたコーヒーカップが、そのまま空中に静止していた。  もしかして褒めてもらえるんじゃないだろうか、と淡い期待を抱いていたけれど、彼の対応はいつも通りだった。一言二言、事務的な会話をして私と彼の会話は終わった。  朝の職員会議が終わって、担任を持つ教員たちはそれぞれのクラスへと向かっていった。今日は伝達事項がなかったため、10分ほど時間に余裕ができた。私はプリントを小脇に抱えながら、職員室のドアをくぐった。 「はるの先生、5分だけお時間いただけますか」  不意に後ろから、大好きな声が聞こえてきてどきっとした。振り返るとそこには、ドアに腕をついて、なにか言いたげに私を見下ろす高野先生が立っていた。  さっきまではすごくいつも通りの優しい笑みを浮かべていたのに今の彼は、不満ですといった顔だ。メガネの奥に見える形の良い目は、刺すような視線で私を捉えていた。  私は瞬時に先ほどの会話を頭の中で巻き戻し、何か失礼をしたかなと考えたけれど、特に思い当たる節はなかった。  彼の有無を言わせない雰囲気に流されたまま、私は頷いた。彼のあとに続いて廊下を下ると、私たちは一階のあまり人の来ない場所に立った。  二人で向かい合うと、なんとなく気まずい雰囲気が流れた。何か話そう、私がそう思って口を開きかけたその時だった。 「ずいぶんと、きれいになられましたね」  何か叱られるのではと思わされるような表情をしていた彼から発せられたのは、予想外の言葉だった。  へ? と私が呆気に取られていると、彼は険しい顔のまま話を続けた。 「この間していたキスの話もそうですけど……あなたは僕にやきもちを妬かせたいんですか」  ??? と、私の頭にはいくつものハテナマークが浮かんでいた。 「そ、そんな! 全く! 全くそのような意図はありません!!」  しばらく固まったあと、私は慌ててそう弁解した。彼は、辺りに人がいないことを確認すると、 「無自覚なんですか」  と私を抱き寄せて囁いた。こんな場所で、なんと大胆なのだろう。スーツ越しに感じる彼の体温に、私は赤面した。 「はるの先生のきれいなことは、僕だけが知っていればいいんです。さっき、数学科の原田先生が鼻の下を伸ばしてあなたのことを見ていました」  私を抱きしめる彼の腕の力が一層強くなった。 「あなたのきれいなことは、僕だけのものだ。そう、あの時からずっと……」  あの時から。あの時とは、いつのことだろう。私は彼の胸の中で考えた。彼にお持ち帰りされた、あの夜のことだろうか。  しかし、それは違うような気がした。腕の中から見上げた彼の目は、もっと遠い過去を見つめているように見えた。 「本当に覚えていないんですね、はるのちゃん」  はるのちゃん。そう呼ぶ声が私の何か、とても大切な何かの琴線に触れた。  そして、私はなぜだか、ひどく切なく苦しい気持ちに駆られた。もう少しで思い出せそうな、喉の奥まで出かかっている何かがどうしてもわからなかった。 「無理もないです。僕はあなたに、あんなひどいことを言ったのですから」  ひどいこと? 高野先生が私に? 彼はいつも優しくて、紳士的で。そんなことなんて一度も…… 「はるのちゃんのことなんて、好きでもなんでもないから。からかってただけだよ」  頭の中で、前髪の長い、背の高い学ランの男の子が私に向かってそう言い放った。知らない子、だけれど。私はどこかで彼に会ったことがあった気がする。 「あっ…………」  その瞬間、私の視界はぐらりと揺らいだ。視界が上下に揺れて、頭の血がサッと引いていった。 「はるの先生、はるの先生!」  遠のく意識の中で、高野先生の声だけが私の耳にこだましていた。
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