だいすき

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だいすき

 体の浮遊する感覚がだんだんと薄れていって、はっと目が覚めた。視界には、歪な斑点模様のある白い天井。そうだ、私は高野先生と話していて…… 「干物ちゃん、気がついた?」  体はまだ完全に覚醒しきっていなかったようで、首を動かしてそちらを見ようとしてもうまく動かなかった。  目を動かして声のする方へと視線をやると、そこにはほっとしたような顔の中村くんがいた。 「中、村くん……どうして? ここは……?」  意識のまだはっきりしない私はこの間のことなんて頭にはなく、素直な疑問を口にした。  確か、私が倒れたのは一階の隅。でもあそこの天井は薄暗くて、ここの清潔な感じのする白色とは違っていた。 「ここは保健室。びっくりしたよ、俺が遅刻して廊下を歩いてたら、高野が干物ちゃんを抱きかかえたまま血相変えて走ってるんだもん」  彼はおかしそうに言っていたけれど、その目はちっとも笑っていなかった。 「しかもさ、なんかすっごいきれいに化粧してるし? 可愛すぎて驚いちゃった」  彼はそうおどけて見せたけれど、面白くない、という気持ちがありありと表情に表れていた。 「授業は?」 「サボり」  室内には中村くん以外に誰もいない。そういえば、養護教諭は出張で留守だと職員会議で言っていた気がする。彼は保健室の丸椅子に両手をつけて、わざとらしくのけぞり伸びをして見せた。  何度見てもやはり、彼の機嫌は悪そうだった。 「やきもち、妬いたの?」 「うん」  鈍い私でも、さすがに気がついた。彼は言動こそ軽い感じがするけれど、ふざけてキスをするような子ではないことを私は他の、どの教員よりも知っていたから。  作品にはその人の心の内がそのまま表れる。神経質な人間は過敏な絵を、おおらかな人間はゆうるりとした絵を描く。  彼の作品はどれも強くて、かっこよくて、真面目で、優しかった。 「倒れたあんたを見つけたのが、俺だったら良かったなって思ってる。そうしたら、少しでも頼れる男として見てもらえるかなって」  彼は続けた。 「この間は、ごめんね。急にあんなことしちゃいけないって、わかってたんだ。でも、自分を抑えられなかった」  彼はぎゅっと口を結んで、頭を垂れた。保健室のぱきっとした白い蛍光灯の光が彼の顔を照らしていた。眉の下に落ちた影が、光を反射した鼻筋が彼の顔立ちの良さを際立たせていた。  私は何も言えなくなってしまった。彼の顔が、あまりにも真剣だったから。  その真摯な眼差しから、私は彼の深い愛情を感じてしまった。本来、教師として見て見ぬ振りをしなければならない彼の感情が、胸の内へと入り込んできた。 「もう、ああいうことはしない。干物ちゃんがいいよって言うまで。でも、アピールはする。だって、好きだから。俺を選んで欲しいから」  彼は真っ直ぐな声音で言った。そして、すうっとしたさわやかな笑顔を浮かべた。 「はじめは一目惚れだった。一緒に過ごすうちに、干物ちゃんの中身にも惹かれていった。いつもあんたは俺の話を真剣に聞いてくれた」  中村くんは、少しだけ高いすうっとした声をしていた。その声が耳に心地よくて、私は部活の日いつまでも彼と話をしていた。 「俺に好かれようとか、そういう他の女子たちとは全然違ってて……嬉しかったんだ。俺の話をきちんと聞いてくれた人は、干物ちゃんが初めてだった」  俺んち、母さんは出ていっちゃったし親父もアレだからさ。彼は嘲るように言い放った。  風の噂で聞いたことだけれど、彼の家庭環境はあまり良くないらしかった。父親がアル中だとか、母親は男と駆け落ちしただとか、そういった噂を数回耳にしていた。 「だいすきなんだ、干物ちゃんのことが。ほんとに、本当に。あまりにもだいすきで苦しくなっちゃうくらい。胸を掻きむしりたくなるくらい、心がぎゅってなるんだよ」  私はうん、と頷いた。そして黙って、彼をじっと見つめた。その思いに激しく共感した。人を好きになる気持ちはみんな同じなのだな、と思った。  そこまで言い終わると、彼は透き通った硝子みたいな視線を私に向けて、黙りこくってしまった。それは私の視線と混ざり合って、やがて保健室の真っ白なシーツに溶けて消えた。  私の頭には、いつだって1番に高野先生のことがあった。高野先生とそれ以外。その2つしかなかったはずなのに。 「干物ちゃん」 「だいすきだよ」  彼の言葉が私の胸を叩く。そして、優柔不断でばかな私はこの日を境に、中村くんをただの生徒として思えなくなった。  いけないことだとわかっていたけれど、それでも自覚してしまった気持ちはどうにもならない。抑え込もうと上から力いっぱい押しても、溢れ出てきて仕方がなかった。  2人の人を好きになるなんて。自分が傲慢な人間であったことを、私はこのときはじめて自覚した。  また、どんなに辛く苦しい決断だったとしても、近い将来、私はどちらかひとりを選ばなければならないことを私は知っていた。  そのことがわからないほど、私はこどもではなかった。
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