彼みたいに

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彼みたいに

「あ、干物ちゃん遅いよ。俺、待ってたんだから」  帰りのホームルームが長引いてしまったため、私は約束の時間より遅れて美術室に入った。  この間まで仏像を彫っていたはずの彼は、いつのまにか油絵を描き始めていた。  歴代の美術部員が使っていたであろう絵の具まみれの黒いつなぎを着て、地べたにあぐらをかいて彼は絵を描いていた。あたりには構図を考えるためのエスキースが散らばっていて、彼の思索の跡が見られた。  私がドアを開ける音に気がついてこちらを振り向いていた彼は、再度イーゼルに立てた真っ白なキャンバスに向かった。  絵を描き始めて半年と少しとは思えないほど、彼の筆捌きは達者だった。  黄土色の絵の具で手早く大まかな形をとると、彼はパレットの中に、モチーフと全く同じ固有色を作っていった。 「ほんと、すごいね。おんなじ色を作るって、プロでも難しいんだよ」 「へへ。そうでしょそうでしょ」  後ろからパレットを覗き込むようにして声をかけると、彼は振り返って、白い歯を見せ笑った。  急に動いたものだから、彼のさらさらとした黒い髪が私の鼻先を掠めた。シャンプーの匂いだろうか。彼の髪は、シトラスの柔らかな香りを漂わせていた。  油絵に使うオイルの独特な鼻を刺すような匂いを嗅いでいると、大学時代のことを思い出した。かつて切磋琢磨した仲間たちは皆、今でも絵を描いているのだろうか。 「干物ちゃんってさ、将来の夢とかあった?」  ぼんやりと感傷に浸っているうちに、ずいぶん時間が経っていたらしい。今日できるところまでは描き終わったらしく、彼は筆を洗いながら私にそう質問した。 「そうだね、高校生のときは画家になりたかったなぁ。でも……」  その後に続く言葉を、私は口にしなかった。  私には、才能がなかったから。 「俺さ、美大目指そうと思ってるんだよね。干物ちゃんの行ってたM美」  私よりはるかに輝く才能を持っていた彼を、私はとても羨ましく思っていた。若くて、エネルギーに溢れていた時代の自分を思い出して、彼の背に過去の自分を重ねることもあった。  前からうっすらと、私の中に浮かんでいた考え。  私は、中村くんへの尊敬を恋愛感情と取り違えているのではないだろうか。恋愛関係によって彼との同一化を図っているのではないか。  彼の向ける激しいまでの愛情に絆されて、胸の中がごちゃごちゃになって。  私は、彼になりたかった。彼はきっと、私の夢だった画家になるだろう。私がどんなに努力をしても手に入れられないものを、彼は持っていた。  帰宅時間が迫ってきた。  座って黙々と教卓の整理整頓をしている私の前に、いつのまにか制服姿に戻っていた中村くんが立っていた。 「そろそろ解散にしよっか」  ちょうどキリが良かったので、私も席を立った。 「干物ちゃん、立っても背ぇちっちゃいね」  私よりも20センチ以上背の高い彼は、正面で私を見下ろしながら言った。あなたがでかすぎるんですよ、と思いつつ、彼を見上げた。 「もしかしてまたからかってるの?」 「あ、またむくれてる。リスみたい」  彼は私の両頬を、大きな骨張った手でつついた。  目を半月みたいな形にして、中村くんは嬉しそうに笑った。 「この間のお返しです」  そう言った彼が、今の私たちを見たらどう思うだろう。と、私は思った。きっと、いい気持ちはしない。そんなこと、小学生にだってわかる。  でも、今日も言えなかった。  ーーもう、こういうのはおしまいにしよう。ただの先生と生徒にもどりたい、と。  このとき、私は気が付かなかった。こちらに背を向けた少女の揺れる金色の髪が、美術室のドアからわずかに覗いたことに。
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