ひどいこと

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ひどいこと

 次の日曜日、私はいつもと同じように高野先生の家にお呼ばれされた。  洗顔後、だいぶ手慣れてきた化粧を施して私は家を後にした。秋の終わりを感じさせる乾いた冷たい空気が頬を刺す。気がつくととっくに木の葉は枯れ落ちていた。  駅までの道中、私はずっと考えていた。 「もう、曖昧な態度を取るのは嫌だ。どちらも大切だからこそ、きちんとけじめをつけよう。高野先生に、付き合ってくださいと言って、中村くんにきちんと気持ちを伝えて」  今度の決意は本物だった。傷つけるのがこわい、と言いながら本当は自分が傷つくことがこわかったのだ。  以前、ただの推しとして高野先生を思っていたときは、眺めているだけで楽しかった。  見ているだけで幸せだったというのに、今は付き合いたいと伝えたいくらい彼との距離が近くなったのだなぁ、と私は思った。  高野先生のマンションに到着した。クリーム色の汚れひとつない外壁に、きちんと手入れの行き届いている広い庭。相変わらず、大きくて立派だった。  さすが、地主の息子。ここは父親の所有するマンションのひとつだ、と以前言っていた。 「いらっしゃい、はるの先生」  インターホンを鳴らすとすぐに彼は扉を開けて私の前に現れた。  普段着用のワイシャツに紺色のカーディガン、黒い細めのパンツ。休日だというのに、彼はいつもと同じように綺麗な格好をしていた。 「うわぁ、展開えげつない……」  落ち着いたグレーのソファに前のめりで座っていた高野先生が、顔をしかめてつぶやいた。  その日は、ふたりで日長1日テレビの前に座っていた。彼から私の普段観ているドラマが観たいとのリクエストがあったからだ。  それはドロドロ恋愛モノの海外ドラマで、登場する男女の数は両手で数えきれないほどだった。  背もたれに体を預けたまま、私は画面に見入っていた。登場人物のひとりが、私によく似ていた。  レースカーテン越しの空はいつのまにか暗くなっていて、時間の経過を私たちに告げていた。  そのうち、それとなく彼が私の太腿を撫でた。私がびくりと体を震わせると、彼は手をそのまま私の着ていたブラウスの中に滑り込ませた。彼の乾いた手のひらが、私の胸を下着越しに刺激した。 「しましょうか、はるの先生」  ずっと我慢してたんです。と彼は囁いた。  その後、私たちは習慣のように短いセックスをしてシャワーを浴び、玄関の扉を開けた。 「あ。干物ちゃんだ」  まだ少し濡れた髪に指先で触れたとき、不意に名前を呼ばれた。  干物ちゃん。生徒たちからしか呼ばれない名前だ。目の前には、お人形みたいにきれいな金髪の少女。制服ではなかったから、一瞬誰だかわからなかった。 「鴻巣……さん。なんでここに……?」  突然のことに、頭が真っ白になった。私も高野先生も大人同士だからなにもいけないことはないはずなのに、私の心臓は不安を増長するように激しく脈打った。 「だってあたし、このマンションに住んでるから。ゆきにいと干物ちゃんって、そういう関係だったんだね」  部屋着とよそゆきの間のような服装をした彼女は、目を伏せたまま言った。辺りは住人の歩く音が時折聞こえる以外に、なんの音もしなかった。 「あたし、てっきり中村くんと付き合ってるんだと思ってたよ。この間だって、美術室でなんかいちゃついてたし?」  クラスでも噂になってるよ、と彼女は続けた。  私は顔を上げることができなかった。隣にいる高野先生のことも、鴻巣さんのこともいることができなかった。  廊下に延々と続く、真四角の模様をただじっと眺めていることしかできなかった。 「二股かは知らないけど。そんな人にゆきにいは譲れない」  彼女はしっかりとした意志の強い目で、きっと私を睨んだ。  高野先生は何も言わなかった。問題の先延ばしが、優柔不断な態度をとったバチが、巡り巡って私のもとにやってきたのだ、と私は思った。  そのとき、鴻巣さんが高野先生の前に移動した。そして、背の高い彼女は踵を上げて、そのまま高野先生にキスをした。 「……ッ」  声にならない叫びを喉で押し殺した私はとっさに走った。その光景を見た瞬間、その場から逃げてしまった。彼の意志ではなかったとはいえ、高野先生が他の人とキスをしているのを、私は見た。  そして、全身の皮膚を引きちぎりたくなるような、そんな衝動に駆られるほどに激しく嫉妬をした。  そして、その姿は中村くんと私の姿に重なって見えた。  私は、今までなんてひどいことをしていたのだろう。自分の犯していた罪の大きさに、私はようやく気がついた。  後ろから高野先生の声がしたけれど、私は振り返らなかった。  いつのまにか降り始めていた、この秋最後の雨が私を責めるように、冷たく地面に降り注いでいた。
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