ずぶ濡れのふたり

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ずぶ濡れのふたり

 私はずぶ濡れで電車に乗っていた。日曜日の夜は、あまり電車が混んでいない。とはいっても、席はほとんど埋まっていた。でも、私の両隣は空席だった。  当然だ。雨だというのに傘も持たずずぶ濡れで泣いている女の隣に座りたい人間なんていない。スマートフォンが鞄の中で何度も震えていたけれど、私はそれを取り出すことはしなかった。  ――二股かは知らないけど。そんな人にゆきにいは譲れない。  彼女の言葉が胸にずしんとのしかかる。普通に考えて、そうだよなと思った。私の曖昧な態度は、客観的に見てそう感じるに決まっている。  高野先生のことが好きな鴻巣さんからしたら、なんとも腹立たしいことだろうと思った。 「私って、馬鹿だ。大馬鹿だ。結局、ふたりともひどく傷つけてしまった」  中村くんは、このことを何も知らない。鴻巣さんの放った正しい言葉も聞いていない。かといって、彼と付き合おうとは思わなかった。  高野先生がダメだからといってじゃあ中村くんに、ということを言い出してしまったならいよいよ生徒を導くものとして、人間として終わりだと思うからだ。流石に、そこまで落ちぶれてはいけない。  もうとっくに人として最低なことを続けていた後だけれど。 「はるの! あんたずぶ濡れじゃない。コンビニで傘買えばよかったのに……」  雨が涙を隠してくれたらしく、母は私が泣いているのに気が付かなかったようだ。私は「別に」と短く答えて早足に2階の自室へと登った。  濡れた服を放り投げて、私はベッドに転がった。部屋着に着替える気にもならなくて、下着姿のままだ。電気もつけず、部屋は暗いままだった。  一旦鳴り止んだスマートフォンが、再度鳴った。電話のようだった。私は鞄を開けて、震え続けるスマートフォンを取り出した。 「高野先生……」  画面に映し出された、“高野幸弘”の文字。彼は優しいから、きっと私を心配しているのだろう。 「そんなに優しくしないでください……」  私は震えるスマートフォンに呟いた。しかし、四角い画面はただただ無機質な光を放つばかりで、何も答えてはくれなかった。  着信が数コール続いた後、私は応答のアイコンを押した。 「もしもし」  彼と話すのが怖くて、声が震えた。スピーカー越しに、雨の音が聞こえる。どうやら彼は、屋外にいるらしかった。 「はるのちゃん! やっと繋がった……」  心からの安堵、といった様子で彼は言った。 「ごめんなさい。ごめんなさい……」  私は強い罪悪感から、無意識に謝罪の言葉を繰り返した。謝ったところで、何も許されるわけではないというのに。  すると、スマートフォンの向こうから「謝らないで」という優しい声が耳に入った。  それは実に予想外な声音だった。なぜなら、怒りだとか悲しみだとか、そう言ったものが伝わってくるだろうと覚悟していたからだ。 「でも、私。高野先生にも中村くんにも、すごく酷いことをしてました。人を傷つけて、自分が傷つくことを恐れて。嫌われて当然のことをして……」 「知ってましたよ。ずっと、あなたが中村と親しくしていること」  えっ、と思わず声が漏れた。私は、ずっと彼にそのことを言えなかったのに。  エアコンの付いていない部屋は下着姿の私には少し寒く、腕にはぶつぶつと鳥肌が立っていた。私は無意識に右腕をさすったまま、何度も瞬きをした。 「知っていたなら、どうして……」  私の問いに、彼は黙ってしまった。相変わらず、背景からはしとしとと雨の音が聞こえてくる。  時折、スマートフォンに雨粒が当たる音まで聞こえるような気がした。彼は、傘をさしているのだろうか。 「7年前のあの日からずっと、決めていたんです。もしもう一度会えたら、何があってもあなたのそばにいる、と」  彼は苦しそうに、何かつらいものを吐き出すように言った。  7年前。私が高校1年生だった時だ。しかし、その頃、高野先生とはなんの関わりもなかったはずだ。 「はるのちゃん」  私の唸り声を聞いた彼が、もう一度私の名前を呼んだ。するとなぜだか、脳裏に前からずっと頭の中を出入りしているあの男の子が浮かんだ。  長い前髪と眼鏡の奥に隠れた、あの綺麗な瞳。高野先生の色と同じ、深いブラウン。 「思い出してください、はるのちゃん。僕です。佐野幸弘」  佐野幸弘……私は頭の中で、何度もその名前を繰り返した。 「佐野先輩……?」  脳内に蘇るのは、色鮮やかな、幸せな日々の記憶だった。薄紅色の、あたたかくて優しい、あの男の子と過ごした時間。  一緒に本を読んだ放課後。コンビニでお金を出し合って、一つのアイスクリームを食べた夏の日。  人生で一番幸せだった、でも突然終わってしまった時間。  クリスマスの日だった。私と佐野先輩は2人で揃いのマフラーを巻いて、カップルで溢れかえったイルミネーションがぴかぴかと光る公園にいた。  いろとりどりの光が私たちを照らすなか、私たちは初めてのキスをした。そして彼は言った。 「はるのちゃんのことなんて、好きでもなんでもないから。からかってただけだよ」  そう言うと彼は、走り去った。あとを追いかけようと思ったけれど、あまりのショックに足が動かなかった。  全部思い出した。私に初めての恋を教えてくれた人。そして、初めての深い悲しみを教えてくれた―― 「僕は、あなたにとても酷いことをした。そしてあなたの前から消えた。もし、ほんの少しでも僕への気持ちが残っているなら……5分いいから、僕の話を聞いてくれませんか」  外から、車の走る音がした。少し遅れて、スマートフォンからも同じ音が聞こえた。 私は、「はい」と答えて、彼の話を聞いた。
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