彼女の忘れた日々

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彼女の忘れた日々

 僕とはるのちゃんが出会ったのは、僕が高校3年のとき。僕の苗字がまだ父と同じ『佐野』だった頃。一学期の終わり、茹だるような夏の暑い日々が始まろうとしていた、そんな日のことだった。  当時の僕は部活にも入らず、暇さえあれば図書室に行っていた。友達は本だけで、事務的な会話以外にクラスメイトと話したことは3年間で数えるほどしかなかった。 自分に自信のなかった僕は、顔を隠すように前髪を伸ばしていた。いつも本を読んでいる、顔の見えない根暗な男子生徒。それが僕だった。  コミュニケーションには難があったものの、勉強はそれなりにできていた。  そのため一学期の時点ですでに私立大学の推薦をもらっていた僕は、クラスのみんながお互いを励まし合って乗り越えた受験期に参加することもなかった。 「取れない! あーもう! なんであんな高いところにあるの」  僕がいつも通り昼休みの図書室に足を踏み入れたところ、図書室の入り口付近にある話題書の棚の前でぴょんぴょんとうさぎのように飛んでいる小柄な女の子が目に飛び込んできた。  見た目からして、きっと一年生だろう。その本は棚の一番高い列に、少しの隙間もなくぴったりと収まっていた。 「図書室の一番奥に脚立があるのに……」  僕はそう思ったものの、彼女に声をかける勇気がなかった。女子との会話なんて、小学校の時以来ほとんどなかったからだ。  図書室には僕の他に何人か常連のおとなしめな生徒がいたけれど、そのうさぎ少女は見たことのない顔だった。  図書室は、僕と彼女以外に誰もいなかった。司書のおばさんも昼食をとりにどこかへ行ってしまっていた。僕は気づかないふりをして、彼女の後ろを通り過ぎた。そのうち諦めるだろうと思って。  しかし、5分立っても彼女は諦めなかった。よっぽど読みたい本なのだろうか。同じ空間でそうずっと飛ばれていてはこちらも読書に集中できない。 「どの本ですか?」  僕が後ろから声をかけると、彼女はびっくりしたようにこちらを振り返った。  垢抜けないけれど、それを含めて可愛らしいと思えるような顔立ちだった。少し厚みのあるぽってりとした唇が妙に色っぽかった。 「あ……すみません! うるさかった……ですよね」  彼女はハッと気がついたように頭を下げた。僕は「別に」と言って彼女を見下ろした。 「あの『好きなことの見つけ方』って本です」  彼女が指差す先にあった本に手を伸ばした。それほど厚みのない、新書版の本だった。 「好きなことがないんですか」  当時の僕はあまり気の利く方ではなかったから、何も考えずにそんな踏み込んだ質問をしてしまった。本を受け取った彼女は、え? という顔で僕の顔を見つめていた。  その表情を見て、僕はようやくまずいことを聞いてしまったのではと思った。 「はは……恥ずかしながらその通りであります」  彼女は困ったような顔をして笑った。少し変わった喋り方だな、と思った。 「それなら、本を読んでみるのはどうですか。いろんなジャンルのことがわかるようになるから、好きなことが見つかるかも」  なるほど、と彼女は呟いた。余計なアドバイスだったかな、とも思ったけれど彼女はとても納得したように何度も手に持った本の表紙に書いてある「好きなこと」の文字を指でなぞっていた。  そしてもう一度ぺこりと頭を下げて、その少女は図書室を後にした。きっと彼女と会うことはもうないだろうな、と僕は思った。  しかし、彼女は次の日も図書室へとやってきた。 「あ……昨日の! えーっと、メガネさん?」 「メガネじゃなくて、佐野。佐野幸弘です」  僕の黒縁メガネを見るなりそう呼んだ彼女も、結構失礼なやつだなと思いつつ僕は自分の名前を答えた。 「私は、1年A組32番の三浦はるのって言います! 昨日はどうもありがとうございました!」  特に必要のない出席番号まで言った彼女は、そのまま勢いよく頭を下げた。長い黒髪が、勢いに乗せられてばさりと宙を舞った。  それから僕たちは、図書室でたびたび顔を合わせるようになった。夏休みになる頃には、図書室以外でも約束をして会うようになった。  そして、いつの間にか僕たちは付き合っていた。彼女は、ある作家の本をきっかけで美術に興味を持つようになっていた。  「ようやく、好きなことが見つかりました」  彼女は毎日画集を抱えて、嬉しそうに図書室を出入りしていた。  いつの間にか、僕の敬語は外れていた。しかし、「先輩感が好きなんです」という彼女は頑なにタメ口を拒んでいた。そんな彼女も可愛らしかった。  進展はとてもゆっくりで、出会って5ヶ月経ったというのに僕たちはキスさえもまだだった。しかし、僕らが焦ることはなかった。初めての恋をゆっくり、じっくりと育てていくつもりだった。 「お前さぁ、生意気だよ? 佐野のくせに可愛い彼女がいるとか、ありえねぇから」  クリスマスが近づいてきた頃、僕はクラスの素行が悪い男子生徒数名に呼び出されていた。  彼らは教師たちの前ではおとなしく従順な犬のように振る舞うくせに、大人の目の届かない場所にきた途端立場の弱いものをいじめるという、今思うとなんとも情けない連中だった。 「お前の目の前で、あの娘を犯してやるよ。どうせならクリスマスに」  背の低い、いがぐり頭をした意地の悪そうな男子生徒がにやりと笑った。 「どうせ、デートなんだろ? 21時にS公園の公衆便所にあの娘を連れてこい。もし言うこと聞かなかったら、どうなるかわかってるよな?」  リーダー的存在の筋肉質な男子生徒が、思い切り僕を睨みつけて言った。彼は腕っぷしが強かったし、後ろには反社会的な組織がついていると生徒たちの間でもっぱらの噂だった。  ここで彼らに殴りかかることができたら、なんて格好良かっただろう。彼らの剣幕に圧倒された僕は、恐怖のあまり無条件に頷いてしまった。  しかし、はるのちゃんを彼らに渡す気は毛頭なかった。しかし、もし約束の時間に彼女を連れて行かなければ、僕のいないところで危害を加えられるかもしれない。  僕が殴られるのは一向に構わなかった。ただ、彼女だけは。はるのちゃんだけは、なんとしてでも守りたかった。  僕が関わっているから、彼女はあの連中に目をつけられてしまった。僕なんかに関わったから、彼女は……  そして僕は彼女を守るために、あえて彼女の前から姿を消すことにした。  優しい彼女はきっと、僕のことを心配してくれるだろう。校内で会えば、必ず僕の後を付いてきて、訳を尋ねるだろう。理由を伝えても、きっと彼女は納得しない。  だから、最初で最後のキスの後、僕は言った。 「はるのちゃんのことなんて、好きでもなんでもないから。からかってただけだよ」  その時彼女が浮かべた悲壮な表情は、何年経っても僕の脳裏にベッタリと張り付いて離れないままだった。  大学に行って、何人かの女の子と付き合ったけれどみんなすぐに別れてしまった。  頭の中にはいつだって、はるのちゃんがいた。彼女を思うたびにきゅうと胸が締め付けられた。その切なさから逃れようと、さまざまな女性とのセックスに溺れた時期もあった。  それでも、僕の中の彼女はいつまでも幸せそうに笑っていた。ずっと、あの頃の笑顔のまま。  そのまま僕は大人になった。はるのちゃんを忘れられないまま。教師として働き出して数年が経ったとき、再び彼女は姿を現した。彼女は苗字の変わった僕を、佐野幸弘として認識していなかった。それどころか、僕と過ごした時間を全て忘れてしまっていた。  人間の防衛本能で、辛かったことを忘れてしまうというものがあるらしい。最後に僕が放ったあの言葉が彼女にどれほどのショックを与えたのか。僕はようやく自分の犯した過ちの大きさに気がついた。 「もう、二度と逃げたりなんてしない。恋仲になれなくたって構わない。ずっと、彼女のそばにいよう」  それが、僕にできる唯一の償いだった。そして彼女に感づかれないようにしながら、僕は出来うる限りのサポートをしていた。黒子役で構わない、そう思っていたはずなのに。  僕は、彼女を抱いた。酩酊し、頬を赤らめながら僕への愛を熱弁し出した彼女に我慢ができなくなってしまった。  何度も体と時間を重ねたというのに、僕は彼女に「付き合ってください」ということができなかった。また、彼女を失うのが怖かったから。僕はあの頃よりもさらに深く、彼女のことを愛していた。  僕の弱気な態度が、彼女を不安にさせてしまったのだろう。彼女は、僕のクラスの中村という男子生徒といい雰囲気になっていた。しかし僕は、選ばれなかったらその時はその時だ、と腹をくくっていた。  なぜなら、本来僕は二度と彼女の人生に登場してはいけない人間なのだから。
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