ごめんね

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ごめんね

 次の美術部の活動日、私はいつもよりずっと早く美術室の扉を開けた。  数時間人のいなかった室内はすっかり冷え切っていて、思わずブルッと身震いをした。もう秋と呼ぶには、気温が低すぎる。壁にかけてあるエアコンのリモコンを手に取って、暖房をつけた。  いつもよりもずっと、時間が経つのが遅かった。私は教卓の椅子に腰掛けて、中村くんが来るのを待っていた。1、2分経つたびに時計に目をやった。  彼は、いつもと同じく時間きっかりにやってきた。私は覚悟を決めて、席を経った。自分の喉がごくりと鳴ったのが聞こえた。 「中村くん」  席を立ち、作業スペースを作ろうと机に手をかけた彼に声をかけた。 「ん? どしたの、干物ちゃん」  彼は普段通りの明るい声音でこちらを振り返ったけれど、私の顔を見るなりすぐに表情を固くした。  これから浮かべるであろう彼の悲しみの表情を想像してしまった私は思わず「ごめんね」と口にした。  気がついたような様子の彼は、一瞬顔をこわばらせた後、首を傾げながらにっこりと私に言った。 「何か、話があるんでしょ」  彼の目はとても真剣だったけれど、不思議と柔らかく見えた。  私はぎゅっと拳を握った。そして数回自分の呼吸を数えた。目を瞑って、これが本当に最後なんだと実感した。 「私ね、高野先生とお付き合いしようと思うの。だから……」 「うん、わかってた」  私の言葉を遮って、彼は呟いた。そこに浮かんでいたのは悲しみに歪む顔ではなく、どこか寂しそうな、でも穏やかな笑顔だった。 「俺が選ばれないことなんて、初めからわかっていたんだ。でも、どうしても諦めきれなくて。馬鹿な子どもの悪あがきだったんだよ」  そのままの表情で、彼は続けた。 「だから、泣かない」  彼は何度も瞬きをしながら、私のことを見つめていた。 「ごめん。俺用事を思い出したから、帰るね」  彼は机の上に置いたスクールバッグを手に取ると、私に背を向けてひらひらと手を振った。  しかし、私は気がついていた。彼の手が、肩がわずかに震えていたことに。 「待って、中村くん」  私は彼を追いかけて、肩を掴んだ。 「ダメだよ、干物ちゃん。振った男に優しくしたりしたら」  彼は前を向いたまま言った。声が震えていた。 「でも……」  彼はため息をついて、ようやくこちらを振り返った。彼の形のいい目から、一滴の雫がこぼれた。 「最後くらいさ、かっこよくいさせてよ」  彼の頬をいくつもの水滴が滴っては落ちていった。その、透明な涙を見て、思わず彼の肩を掴む手に力が入った。  彼はカバンを持っていない右手で、涙に濡れた顔を拭った。 「好きだった。大好きだった。愛していたよ、はるのさん」  そう言うと彼は、私の手を振り払って階段のほうへと歩き出した。  私はもう、彼の後を追いかけなかった。
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