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すごくいつも通り
「ちょっとはるの! あんたいつまで寝てるの! いい加減起きないと遅刻するわよ!」
あの夜から二日後、月曜日の朝。自室のドアの向こうから、母親の怒鳴り声が聞こえる。23にもなろう社会人の私だが、夜更かし癖がいまだに治らず情けないことに毎朝母親に起こされてなんとか起床していた。
昨晩は日長一日サブスクの海外ドラマを鑑賞して終わった。我ながら実につまらない休日であると思う。スマートフォンにセットしてあったアラームはなぜだか止まっていたらしい。今起きるから……と起床を拒絶する脳と体に鞭打って、なんとかベッドから這い出た。
くったくたな上下グレーのスウェットを身につけたボサボサ頭の成人女性がのそのそとベッドから這い出る様子は、さながら芋虫のようだっただろう。3、2、1とカウントダウンをして半ば強制的に体を起こした。
寝ぼけ眼を擦りながら、自室の汚さに唖然とした。テーブルには食べ終わったカップ麺の容器が数個重なって放置されている。床にはいつぞやの洗濯物が転がり、ゴミ屋敷レベルではないもののそこそこに汚い。到底、女盛りの20代女性の部屋とは思えなかった。
そろそろ片付けなくちゃなぁ、と口にはしつつも実際に部屋の掃除に着手するのは当分先のことであろう。
フラフラとした足取りでなんとか洗面所へ向かい、洗顔をする。残暑の厳しい時期だから、顔にかけた冷水が心地よかった。タオルで顔を拭き、その辺にあった化粧水を適当に塗った。美容に興味がないわけではないのだが、いかんせんなんの知識もないため何をどう買えばいいのかすらわからない。
私はドラッグストアに行ったところで、ゾンビのように店内を彷徨くことしかできない悲しきモンスターなのだ。
母の化粧ポーチを拝借し、なんとなく全体に粉を叩いて眉毛を描けば私の化粧は終了だ。大学生の頃から何も変わっていない私のメイクアップ術はほぼ化粧の効果がないらしい。母親曰く、ちょっと眉毛が伸びた? くらいのものである。ボサボサの頭をなんとか人間と呼べるレベルにまで直して、朝の支度は終了だ。
私の顔は、可も不可もない。プラスにもマイナスにもならないごく普通の顔である。鏡に映る地味な顔面を見て、高野先生はなにが良くて私を抱いたのだろう、と疑問に思った。生徒に手を出すのはいかがなものかと思うけれど、教職員にだって独身の綺麗な女性は何人もいるのに。なぜ私だったのだろうか、地味で経験がなさそうで(いや事実全くなかったのだが)ちょろく見えたからだろうか。
あれほどのイケメン、寄ってくる女性は両手でも数えきれないほどいるであろうに……
いくら考えたところで私は高野先生ではないから、なにも分からなかった。
さっと母の作った朝食を平らげ、家を後にした、満員電車に揺られながら、ぼうっと高野先生のことを考えた。顔を思い浮かべるだけで心がときめいてしまった。
時間が経てば熱も冷めるかな、と思っていたけれどそんな気配は今のところ全くない。前は眺めているだけで大満足だったのに、今の私はもっと話したい、もっと知りたいと強欲になってしまっている。
ピコン、と手に持っていたスマートフォンから通知音が鳴った。高野先生からのメッセージだった。
「おはようございます。今週も頑張りましょう」
の言葉と共に、笑顔の絵文字がくっついていた。あの夜以来、4月の最初の会話以外になにも更新がなかった私たちのトークルームは頻繁に使われるようになっていた。会話の内容はどれも他愛のないものばかりだったが、それでも推し(ガチ恋)との会話は楽しくて仕方なかった。
抑えろ自分、私如きが高野先生の彼女になんてなれっこないぞ! 今構ってもらえてるのもただの気まぐれだから!
自分へ何度も言い聞かせてはいるものの私の胸のときめきは一向に萎まず、むしろやり取りをするたびにどんどん膨らんでいた。それがまずいことだともわかっていたけれど、どうしても高野先生からの連絡を無碍にすることはできなかった。だって、推しだもん。
職員室の扉を開けると、まばらに教職員が席についていた。職員会議の時間まではまだ30分ほどある。もちろん、しっかり者の高野先生はすでにデスク前に鎮座していた。
後ろから見てもしゃんと伸びた背。ただでさえ高い身長がさらに高く見える。僅かに伸びた襟足が、くるんとなっていて可愛かった。
さて、どのように接すればいいのだろうか。私は自分の机に向かって歩きながら、どのように挨拶をしたものかと悩んでいた。
普通におはようございます? それともおはよ? いや、変化球でオッス?
ぐるぐると色々な挨拶が脳内を回り、どれが正解なんだ!? と半ばパニックに陥りかけたところで、彼からの挨拶が聞こえた。
「三浦先生、おはようございます。今日もまだ暑さが残ってますね」
いつも通り。あまりにいつも通りすぎる普通の挨拶だった。しかも苗字呼びだった。あんなことがあった後だから、ちょっと照れが入るとか、そういうのも一切なかった。社会人としてのお手本のような挨拶だった。
ただの挨拶如きですら私は動揺し、
「あ、おは……ございます…………」
という、なんともまあコミュニケーション能力のなさそうな返事をしてしまった。
その後も、私と彼の会話は事務的なもののみで、正直私はがっくりきていた。無意識のうちに、なんかこう、漠然と恋が生まれるような気がしていたらしい。
昼食のお弁当を食べながら、まあそうだよな、遊びの相手にそんなに神経使ったりしないわ……と傲慢だった自分を責めていたところ、机の端に水色のメモ紙がはらりと置かれた。そこには
「今度のデート、いつにします? はるの先生の予定に合わせます」
と流れるように綺麗な字で書いてあった。この字は間違いなく高野先生のものだ。
えっ、と小さく声にして、隣の席に座っている高野先生の顔を見た。彼は何事もなかったかのように昼食を取っていたけれど、私の声に気がついて、左手の人差し指をたてて、しーっと言った。
メモ紙をよく見ると、返事は裏にお願いしますの文字。メモ帳に手紙を書くなんて、小学生の時以来で少しどきどきした。
「再来週の日曜日なら空いてます」
そう書いて、そっと彼の机にメモを置いた。彼はうん、と軽く頷いてこちらをいつもの柔らかい笑顔で見遣った。
高野先生は本気じゃない。そうわかっていつつ、私はデートの約束を取り付けてしまった。
もう、ガチ恋卒業は諦めた。好きなものは好き、仕方のないことだからだ。せめて、ひとときの夢に溺れていよう、高野先生の気まぐれに付き合おうじゃないか、という心持ちで彼とのデートを楽しむことにした。
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