不鮮明な記憶

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不鮮明な記憶

 自宅に到着し、私はシャワーを浴びた。母親が夕食を作って冷蔵庫に入れておいたよ、と風呂上がりの私に声をかけてくれたが、私は疲れてしまっていた。何か物を食べる気にはならず、明日の朝食べるよと返事をして自室に戻った。ごろんとベッドに横たわり、今日一日のことを思い返した。  私たちはその後昼食をとり、再び車でドライブをした後解散した。彼はせっかくだから、と自宅まで私を送ってくれた。その日私たちは、セックスをしなかった。私は意味がわからなかった。別にセックスがしたかったわけではない。彼の目的がわからなくなってしまったのだ。私のことが遊びだというなら、セックスもしないのになぜ彼は丸一日を私と過ごすために過ごしたのだろう?  しかしそんなことを聞けるはずもなく、私は彼に、今日は楽しかったです、ありがとうございました。とメッセージを送った。するとすぐに既読がついて、返信が返ってきた。 「僕もとても楽しかったです。よければまた、ご一緒しましょう」  私がはい、というスタンプを送ると、彼からもスタンプが送られてきた。それは可愛らしい茶色のくまがやったーと飛び跳ねている絵で、私の頭の中には小さくなった高野先生がぴょんぴょんと飛び跳ねている様子が浮かんでいた。彼の色素の薄いふわふわとした彼の髪は、なんだかくまのぬいぐるみみたいだな、と思った。 「はるの! はるの! あんたいい加減にしないと遅刻するわよ」  翌朝私は、母の怒号で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったらしい。高野先生のスタンプの影響か、私と彼のふたりがくまの着ぐるみを着て踊り狂うという変な夢を見てしまった。その光景はさながらインフルエンザのときの悪夢といった感じで、私の頭は起きてしばらくの間くまが踊っていた。  時はすでに7時45分。慌てて朝食を詰め込み、人間と呼べる見た目に髪を整えて、食パンを咥えた少女漫画の主人公のように私は家を出た。なんとか次の電車に間に合えば遅刻は免れる。私はウサイン・ボルトも真っ青なスピードでご近所を駆け抜けた。お散歩中のご老人が口をぽかーんと開けて、妖怪を見るような目でこちらを見ていたのが横目に入った。  なんとか電車には間に合い、駅のホームでほっと一息ついた。ゼーハーと死にそうになっている私の周りを、人が避けるようにして歩いてゆく。私は満員電車にもまれ、一日の始まりからすでにクタクタの状態でタイムカードを押した。  職員室にはほぼ全員が揃っていて、最後の出勤は私だったらしい。皆の冷たい視線を必死で掻い潜り、自分の席に座る。ちょうどそのタイミングで朝の職員会議が始まった。今日は全校生徒が対象のアンケートを行うと、教頭が偉ぶりながら話していた。会議といっても軽い朝礼のような物だから、5分程度で終わってしまった。  自分の教室へと向かう最中、高野先生と一緒になった。まあ、隣のクラスだから当たり前なのだが。 「はるの先生、今日は本当にギリギリでしたね」  学校ではあまり会話をしない高野先生が、珍しく私に話しかけてきた。生徒たちはすでに自分の教室にいて周りに人がいないからか、三浦先生ではなくはるの先生呼びだった。 「は、はい。人生のギリギリセーフランキング1位を更新いたしました……!」  彼はなんですか、そのランキング。といってくすくすと笑っていた。 「今までは、大学の進級がかかったテストで遅れそうになったのが1位だったんですけどね。2位は高校の卒業式に遅刻しそうになったことです」  彼はふうん、と鼻を鳴らした。つまらない話だったかなと不安になったところで、高野先生は質問した。 「はるの先生は、ご自身の高校時代について覚えていますか?」  彼は大学時代の話より、高校の時の話の方に関心があったらしい。高校生活なんて大体の人が同じような時を過ごすと思っていたので、話して面白いのかはわからなかったが、とりあえず私は話を続けた。 「私、一応高校までは進学高に通ってたんですよ。勉強は別に好きではなかったんですけど、親に言われてなんとなく勉強してたらそうなってて。そこから美術の面白さを知って、美術系に進路変更しました」 「へえ、ここらの進学校というとM高校ですか?」  彼は私の出身校をすぐに言い当ててしまった。私がそうですよと答えると、彼はやっぱりと言って微笑んだ。 「いい感じの人なんかはいなかったんですか? あの学校、確か共学でしたよね」  私は苦笑いをして、自分の男性経験のなさを恨んだ。しかし嘘をつくのも嫌だったので、正直にそういったことはありませんと伝えた。 「本当に覚えがないですか? 例えば図書室で高いところの本を取ってもらって、しばらくの間話すようになったとか」  図書室。普段はあまり行くことのない場所の名前が、記憶の片隅から何かを掘り起こしそうになった。私はそれがなんだったかを思い出そうとして、その場に立ち止まってしまった。  うーんと唸っている私に、彼はそのうち思い出せるかもしれません。ほら、そろそろホームルームの時間ですよ。と言って持っていたバインダーで私の頭をポンと叩いた。 「む……なんだか高野先生は私のことを子供扱いしてませんか?」  あの日の“お着替え”もそうだったけれど、高野先生はどうも私のことを子供扱いしているような気がした。 「あはは、そうですね。三浦先生は僕の妹みたいなものですから」  妹。そういえば高校生の時、そんなふうに私のことを呼んでいた人がいた気がする。確か二つ上の先輩だった。 「思い出しました。少しの間だけ、男の人といわゆる、いい感じだったことがあったんです。二つ上の先輩で……もう、名前も顔も忘れてしまいましたけど」  彼のことを思い出そうとすると、なぜだか頭にもやがかかってしまったように、記憶が不鮮明になってしまう。自分の経験したことなのに、架空のおとぎ話を聞いているような、そんな奇妙な感覚だった。  彼は少し悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべた。その目は、どこか遠くを見ているようだった。しかし彼はすぐにいつもの微笑みを浮かべて、そのガラス玉みたいな、体温のない悲しげな瞳は姿を消した。 「そろそろ教室ですね。おしゃべりはまた後で。今日も頑張りましょうね、三浦先生」  私は心にモヤモヤを抱えたまま、自分の教室へと入った。
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