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 果歩と私が食堂を出て本館に戻ろうと歩いているところで、私は背後からいきなり呼び止められた。 「おい、河野(こうの)」  おなじみの声。私は足を止めた。声の主はクラス担任の高橋(たかはし)センセーだ。 「昼休みのとこ、すまないんだが、ちょっと話がある」  果歩と私は顔を見合わせた。「じゃ、また後でね」と彼女は小さく手を振って、一人で本館に向かって歩き出した。  高橋センセーは私が食堂から出てくるのを待ち伏せていたのか――私に向かって指をクイクイと動かして見せてから先生は踵を返して本館に向かい始めた。私は黙って後をついていく。  んー、何の話なんだろ。このタイミングからすると、まさかあの動画のこと……?  私は前を行く先生の背中を見る。向かっているのは面談室か、生活指導室か……。それがどちらかなのかによって意味合いは違ってくる――知らんけど。  別に怖いということはない。この高橋という担任は若手の教師で、私たちからは兄貴分のように思われているし、普段から友人感覚でお喋りとかもしたりする。何かあったときにもきちんと私たちの言い分を聞いてくれる人だ。  職員室の横を通り過ぎ、面談室の前で先生は足を止め、ドアを開けて中の電気をつけてからそこに足を踏み入れた。そして私にも中に入るように促す。  低いテーブルを挟んでソファが向かい合わせに置かれている。先生はジェスチャーで私に座るように促して、自分もその向かいに腰を下ろした。  ――連れて来られたのが生活指導室じゃなくてよかった。あそこはドラマで見る警察の取調室みたいだから、いやが応にも自分になにか嫌疑が掛かっているかのような気がしてくるもの。  そんなことを思いながら、私は先生が話すのを待った。 「河野よお、お前、なんか通学途中に動画をアップしたろう」 「い?」――やっぱ、そのことか。でも、なんで私だとバレたんだろ、誰かチクった?  私が肯定も否定もしないうちに先生は続ける。 「マズいんだよ、これが。教頭の目に止まってさあ、今、人物を特定するしないで喧々諤々(けんけんがくがく)ってとこでさ。今回は俺もお前を守りきれんかも知れんぞこれは、ってんで頭抱えてんだよ」 「ちょ、ちょっと待ってください。それが私のアップしたものだって、先生はなんでそう思ったんですか」  私がそう言うと、高橋センセーは苦笑いしながら、内ポケットからタブレットの小さい奴――スマグが主流になる前、スマホと呼ばれているそれを誰もが持っていたという――を取り出して、なにやら操作し始めた。 「お前なあ、動画をアップする前に、ヤバいとこにはボカシ入れとけよな」  そう言いながら先生はその小さなタブレットを私に差し出して見せた。 「あ――」  それは「オッサン死亡」動画のワンシーンを停止して拡大したものだということが私にはすぐわかった。  あのとき、オッサンはハネられて交差点から五メートルほども脇に飛ばされてしまったのだけども、その場所はJAセレサという金融機関が店舗を構えている前で、その建物の外壁はすべてガラス張りである。おそらく一瞬だけなのだろうけど、そのガラスにしっかりと私が映っているのが動画に入り込んでいた。先生が私に見せたのはそのタイミングで動画を停止させたものだろう。そこに写っているのは明らかにウチの高校の制服姿だし、私を知る人が見れば、それが私であることに十人中十人が気付くだろうと思えた。  私は言葉を失った。 「今更言うまでもないけど、通学中のスマグは禁止なんだからよ。まあ、実際のところは有名無実化しているのは誰もが知っているとこではあるけど、それでも規則は規則ってやつでさあ。こんなふうに明らかに規則違反なものが誰もが目にできるところにあっちゃマズいわけよ。わかんだろ?」 「そんな規則、いい加減、変えちゃえばいいのに」か細い声で私は言い返す。 「うん、もちろん時代遅れの規則は変えてしまう、ってのはアリだろう。生徒会に動議をはかって生徒総会で決を取って学校側に異議を唱えれば、規則の見直しも検討されることになる。そういう正式なプロセスを踏めば、規則は変えられる。だが、イマイマはまだなにも変わっていないどころか検討すらされていない。したがって今ある規則はそれはそれで守られなければならない」 「私は退学?」 「いや、そこまではないだろう。だが、場合によっちゃ謹慎処分くらいはあるかも知れない。ただ、そうなると内申に響くし、推薦での大学進学は厳しくなる」  私はうなだれた。大学受験のことなどまだおぼろげにしか考えていないが、今時、受験なんてするのはよほどのチャレンジャーか訳アリな人だけで、ほとんどは推薦で収まるところに収まっていくものだと聞いている。 「どうすればいいの……?」私は情けない声を出した。 「俺としてもなんとかしてやりたいところだが、もはや俺がどうこうできる領域を離れているんだ。とにかく、お前は大人しくしていろ、これ以上、なにかやらかしたら本当にどうにもならなくなるからな。それだけを言いたかったんだ」 「動画、削除したほうがいい?」 「いや、それはもう遅い。IT科の宮原(みやはら)先生が分析のためにダウンロードしちゃってるし。うかつになにかすると逆に心証を悪くする可能性がある」 「心証」  私はオウム返ししてしまった。 「そこなんだよなあ、――いや、例えばの話だがな、もしお前があの車にひかれた人を介抱したりだとかな、あるいは救急車が来るまで励ましたりだとかな、していれば全然、事態は逆の方向に進んだんだけどなあ」 「ええーっ、なんで? わけわかんない。それ、言われてることと全然違うじゃん。それに意味ないし。それこそルール違反でしょ。怪我したり倒れたりしてる人がいても絶対、触ったりしちゃいけないし、うかつに声なんかもかけたりするなって小学生の頃からさんざん習ってきたんだけど」 「うむ。それはそうだろうが、それでも危機に瀕した人がいれば助けるのは人情として理解できるし、非難もできない、ってのが古い人間の受け止め方なんだよ、これが」  ――無関係なクラスタの赤の他人になんで私がなにかをしてあげなきゃいけないの、と反射的に思ったが、それは口にはしなかった。代わりに私はこう言う。 「いや、そんなこと言ったって、どうせすぐに専門家が駆けつけるじゃない。素人の私たちが手を出して事態を酷くしてしまうと裁判とかでの責任の在りどころの判定が複雑怪奇になるから絶対に何もするな、って」私はだんだんと興奮気味になる。 「や、わかってるって」先生は両手を広げて、私にクールダウンするようにとジェスチャーで示す。「にもかかわらず、お前が人の本能に従って手助けをしようとしたのであれば年寄りどもの理解は得やすい、ってことさ」 「そんなの全然わけわかんない。なんでウチの学校のローカルな規則を破ることが問題なのに社会全体のルールを破るのはオーケーなの?」 「んー」先生は唸った。「ま、お前ももう少し大人になったらわかるようになるだろ。とにかく、お前は今はそれどころじゃなくて、非常に微妙な状況にあるんだ。大人しくしておけ。もし何か職員側のほうで進展があればすぐに知らせる。他に何か質問とか言いたいこととかあるか?」  私は首を振った。納得できないものを感じてはいたが、高橋センセーに何を言ったところでしょうがないというのは理解していた。
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