裏舞台

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開演二時間前  教室に荷物を取りにいったあと一人になりたくて、受付からまっすぐ廊下を進んだ端にある在校生専用のトイレに入った。  個室の便座に座ると、数分なにもできなかった。  時間が経つにつれ、やっぱりあの寸劇はやらない方がよかったんじゃないかと思えてきた。宣伝としても失敗だった。頭に焼きついた冷ややかな目がそう言っている。  あれだけ部員たちの士気が盛り上がっちゃったら、やっぱり主役がきませんでしたとなった時の落差が大きすぎる。  ああ、やっちゃった。きっと悲劇ってハッピーエンドから始まるんだ。  ポケットの中でスマホが震えた。くーみんからだった。 〈時間かかってるけど大丈夫?〉  私は大丈夫と返信しようとして消した。何度も打ち直し、最後の最後には大丈夫と返信した。  返信したからにはそろそろいかないと。立ち上がり、個室から出て洗面台で手を洗う。 入ってきた女子生徒を鏡越しにちらりと見る。見覚えのある顔だった。 「どうも」  いやいやそうに頭を下げられて、彼女を振り返った。  元演劇部の二年生。私が監督になったとたんに辞めていった子だ。沢井と同様、私のやり方になにかと口を出してくる子だった。沢井以上に勝ち気で、誰に対しても物おじしない。親に連れられて小さい頃からたくさんの舞台を見てきたらしく、知識は豊富だった。ただその知識をみんなと共有するのがへただった。 「どうも」  何気なさを装ってあいさつを返す。 「さっきの見てました。よくやりますね」  重力に負けないよう踏ん張っているような彼女の顔をひさしぶりに見た。 今思えば、彼女はいつもそうやって目に見えないものと戦っていたような気がする。だから部員に対しても心を開かず、私に突っかかるやり方でしか部内での立ち位置を見つけられなかったのかもしれない。 でも、あの時だってそれに気づいていても、私は彼女を引き止められなかっただろう。 「あんなわざとらしいこと。そうまでして人を集めたかったんですか? 私の友達も引いてましたよ」 「じゃあ、どうすればよかった?」  意見を求められるとは思ってなかったのか、彼女は一瞬たじろいで、破けそうになったバリアの穴をふさいだ。 「私ならちゃんと演劇部の宣伝だと説明してからお客さんに見てもらいます。それで人が集まらなくてもあきらめます。部員にも自分たちの実力のなさに気づくいい機会になりますから」 「そっか。なら次の監督はあなたがやってよ。私、今日で引退するし、任せた」 「はあ? 意味わかんないんですけど」 「それを意味がわかるようにしていくのが監督でしょ」 「私、辞めた人間ですよ」 「やめたならまたやればいいじゃん」  私は彼女を引き止められなかったことに多少の後ろめたさを感じていた。引退前にそれをきれいにしておきたい気持ちがないわけじゃない。だから、これは彼女のためというよりも私のためだ。きっと彼女はこれをやさしさと受け取ってくれるくらい私より純粋な子だ。 「監督やりたいって子いないんだよねえ。あなたが入ってくれたら、みんな助かると思う。岡野先生に任せてもいいんだけど、あなたがやった方がおもしろくなるって自分でも思うでしょ」  少し持ち上げすぎたか。驚きを通り越して不審な目で私を見てくる。ボロが出ないうちに退散しよう。 「じゃあ、そういうことでよろしく」  引き止められるかと思ったけど、本気で再入部を考えているのか、彼女は追いかけてこなかった。  スマホが鳴った。岡野先生からの電話だった。今さっき悪口とも取れない発言をしたせいで、心を読まれたような居心地の悪さを感じた。  通話ボタンを押す手が迷う。 「……はい」 『あ、出てくれてよかった。えーと主役のことだけど、家に電話してみたけど親御さんも出かけてるのか誰も出ないのよ。二、三回かけたんだけどねえ』 「そうですか」左手を握る。 『事故とかじゃなきゃいいけど。そっちも連絡まだでしょ』 「きてないですね」 『うーん、まあまた時間置いてかけてみるよ』 「お願いします」 『それからなんだっけ』 「楽曲の著作権です」手のひらに爪を食いこませる。 「そう、それ。今日、日曜日でしょ。あっちも営業してないみたいで、今回は難しいかなあ」 「わかりました」唇を噛む。 『力になれなくてごめんね』 「いえ、ありがとうございます。それともう一つ謝らなきゃいけないことがあって」 『え、またなにかあったの?』 「ちょっとトラブルがあって、受付のところで即興劇みたいなことしちゃったんです。だから、もしかしたら学年主任の先生から岡野先生にも話いくかもしれません。すいません」 『あー……そっかそっか。注意されただけ?』 「そんなところです。すいません」 『またあとでくわしく聞かせて』 「はい」  電話を切りたかった。沈黙の向こうに岡野先生の覚悟を決めた顔が見えた。 『ねえ、厳しいこと言うようだけど、中止も視野に入れてもいいのかもしれない』 「……」 『最終的な判断はみんなに任せる。でも、そういう選択もあるんだってことは言っておくね』 「……はい」 『他になにかあったらすぐ教えて。じゃあ切るね』  電話が切れると、なぜか泣きたくなってきた。熱い鼻息を出して、涙がこぼれるのを必死にこらえる。  たかが文化祭。されど文化祭。たかが高校三年間。されど三年間。  ぐちゃぐちゃになりそうな感情を、二階から降ってきたずーんと重い音が断ち切った。 校舎二階と体育館は渡り廊下でつながっている。スカートのポケットに小さく折りたたんで入れていた文化祭のパンフレットを取り出して見ると、今は三年三組の演劇が上演中だった。  私は階段を上って、体育館へ向かった。  電気が消され、カーテンが閉め切られた体育館の入り口は、側面の壁との境目がぼんやりとしていた。それを舞台からもれてくる照明がほのかに浮かび上がらせている。  歩く心地がいつもとわずかに違う体育館の床には、緑のシートが敷かれていた。このシートを敷く作業と、約四百脚のパイプイスを並べる作業には演劇部も参加した。沢井は一つ並べるごとに文句を言うし、文句を言わない多田ちゃんは手を動かさないし、これじゃあトリを飾る演劇部の立場がないとひやひやした。 「こんなに出す必要あるのかなあ」  あの日、私の後ろの列のパイプイスを並べながら主役が言った。  理由を聞き返そうとして、言葉が口に出る直前に主役が言おうとしていることがわかった。わかってしまった。  出す必要はあった。体育館を使うのは演劇部だけじゃない。でも演劇部のことだけ考えたら出す必要はなかった。 あの時、私がなにか言えたなら、主役はもうここにいただろうか。考えてみる。やっぱり返すセリフは思いつかなかった。これが舞台に立つ人と、立たない人の境界線だろうか。 ざっと見て、体育館のパイプイスは半分以上が埋まっていた。おしゃべりやスマホをいじっている観客はわずかで、みんな舞台に注目していた。コメディー演劇のようで、狙ったところでちゃんと笑いも起きている。 後ろにも四人の立ち見客がいて、私もその中に混ざって舞台を見た。  負け惜しみじゃないけれど、主役がこの光景を見なくてすんだのはよかった。きっと見ていたら、もっと自信をなくしていたかもしれない。  そうやって人の心配をしながら、私の心も折れかけていた。  文化祭の準備期間から、三年三組の劇がおもしろいという話は聞いていた。三組には人気者が集まっているし、みんな仲がよく、男女とも文句を言わないリーダーがいた。そのリーダーが学年一かわいい杉原さんと付き合っているのはできすぎた話だけど、よくあることだった。  一時はクラスが違うのに杉原さんがゲスト出演するなんてうわさもあって、生徒の中でも三組の劇への注目の高さは群を抜いていた。  私たちはずっとその話題を避けていたけれど、沢井がぽろっと言っちゃった時は、部室がとんでもない空気になった。 気分としては、満開のチューリップ畑に一本だけ咲いてしまったドクダミ草だ。いや、ドクダミ草の巣窟に一本だけ咲いてしまったチューリップか。どっちにしろ、こっち見ないでって感じ。  舞台の良し悪しは観客の数じゃないとあきらめてしまえれば気は楽だった。それができずに今日まできてしまった。主役はそんな私の心の内を見透かしていただろうか。 「だからおまえはバカだって言ってるんだよ」  最後のセリフで舞台が暗転した。再び照明が点くと、役者が一列になって並んでいた。 「ありがとうございました!」 三組のリーダーが一歩前へ出て礼をすると他の役者も頭を下げ、客席からは拍手がわき起こった。  幕が閉じ、体育館の電気が点く。まぶしさに一瞬目をふさいだ。 「おもしろかったねえ」ぱらぱらとはけていく観客のつぶやきに耳を立てる。「文化祭でもこんな本格的な劇やるんだな」「誰か芸能人とかになるのかなあ」「わかる~。私もあそこ泣きそうになった~」  前を通り過ぎていく観客の顔はどれも満足そうだった。この中で私だけが笑顔になれなかった。 「あれ、なにしてんの?」  目の前で立ち止まったのは、去年卒業した元演劇部の先輩たちだった。 「もしかして敵情視察ぅ~?」  私は苦笑いで返した。 「先輩たちきてたんですね」 「演劇部が体育館でやるって聞いてね」 「私らの時には考えらんなかったよね」 「それもこれも監督の力じゃない?」  去年監督だった先輩が肩を組んできて、私は気の弱いサラリーマンみたいに「いえいえ」と首を縮めた。 「文化祭のくじ引きは監督がやるって代々決まってんだから」 「だから私、自分たちの時にはあきらめてた」 「なんだと~」  仲間のからかいに反撃しようと元監督が離れたことで、私は解放された。 「でもさあ、やっぱここでやってみたかったよね」 「たとえお客さん入んなかったとしても、一応は演劇部だったからね」  去年卒業したばかりなのに、先輩たちはしみじみと言った。 「今はこの半分くらいの舞台には立ててるけど」 「先輩、大学でも演劇やってるんですか?」 「小さいサークルで役者としてね。聞いてよ。こいつ大道芸やってるんだよ」 「大道芸ってジャグリングとかする、あの」 「私がやってるのはパントマイムだし、今はパフォーマーって言うんですぅー」 「はいはい、パフォーマーね。なんかやってみせてよ」 「やだよ」 「私も見たいです」 「ほら、後輩からのリクエストだよ」  先輩はしぶしぶといった感じで息を整えると、なにもない空間に手をはわせた。水平垂直にはっていった手がそこに見えない壁を作り出す。壁は四方から先輩を囲み、どうやら閉じ込められているようだった。  横を通り過ぎていく人が不思議な顔で先輩を見る。  やがて下の方に小さなドアがあることに気づき、窮屈な姿勢でドアを開け、先輩は無事に見えない壁から脱出した。  ひかえめな拍手で先輩を迎える。 「ほんとに壁とドアがあるように見えました」 「ないものをあるように見せるのは演劇といっしょだからね」  一仕事終えたように先輩は肩にかかった長い髪の毛を後ろに流した。 「ちなみに詐欺師ともいっしょ」  元監督はなぜかうれしそうにピースサインを作った。 「それを言うならドラえもん」 「どこでもドア~」  舞台は時としてどこでもドアになる。幕が開けばそこは古代ヨーロッパ、江戸時代、西暦三千五百年。 「じゃあ、私らお昼食べてくるから。舞台見にいくって他の子にも伝えといて」  波のように突然現れて去っていく先輩たち。  確か去年の文化祭も卒業生が見にきてくれた。狭い多目的室の舞台からは観客の顔がすぐにわかる。卒業生に気づいた部員が緊張のあまり噛みまくったのを覚えている。その経験から、先輩たちのことはみんなには黙っておこうと思った。元監督が「詐欺師」と言った意味がわかるような気がした。
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